友引

朝倉神社

第1話

 街の中心部にある薄汚れた雑居ビル。

 一度に4人くらいしか乗れない上にキイキイと不快な音を奏でる古ぼけたエレベータは最上階の8階までは続いているけども、残念ながら屋上に出るには階段を使ってもう一階上がる必要がある。

 通常なら屋上へのドアにはカギが掛かっているのが当たり前のはずだが、かぎが壊されているらしい。

 まあ、それでもいずれ管理人がドアノブを交換して、屋上への通路は閉ざされることになる。私は壊れたドアノブを捻って外に出た。


 周りにはもっと高いビルはあるものの地上で見るよりも大きな空が広がっている。雲一つない真っ青な晴天、秋口の冷たい風が心地いい気がする。


「来るな!!」


 悲鳴に近い上ずった男の声が聞こえてきた。目を向けると転落防止用の柵に足を掛けようとしているパットしない見た目の男。年齢は大学生くらいだろう。柵の手前には丁寧に揃えられた靴があり、その下には白い封筒が見える。

 靴下で屋上の縁を歩く趣味だというのでなければ、これから飛び降り自殺をするつもりなのだろう。


 私は大学生に聞こえるくらい大きくため息をついた。

 ここは私の場所なのだ。

 だから、とても不本意だけど自殺を見過ごすことはできない。


「死にたいの?」

「み、見ればわかるだろ。く、来るなよ。そこから一歩でも近づいたら、と、飛ぶからな」

「飛びたいの? 飛びたくないの? どっちなのよ」


 大体、死にたいのなら私が近づこうと近づくまいと飛ぶのだろうに。死にたいと思って屋上に上がってみたもののあまりの高さに恐怖してしまったパターンなのだろう。手すりをつかむ手がプルプルと震えている。

 飛ぶ気はもうないのだ。

 だけど、引くに引けずああしているのだろう。

 まあ、それでも下手なことを言えばうっかり飛びかねないので注意が必要だ。


「死にたいのなら止めるつもりはないけど、この場所はお勧めしないわ」

「うるさい。うるさい。うるさい。俺は死ぬんだよ。さっさとここから出ていけ」

「死にたいんでしょ。だから、言ってるの。死にたいならちゃんと下調べくらいしなきゃダメよ。この高さじゃ死ぬとは限らないわ」

「うぅぅうそだ!!」


 呆れたようにもう一度大きくため息をこぼす。


「そりゃあね、打ちどころが悪ければ二階から落ちても人は死ぬわ。でも、一般的に人が死ぬ高さは4階以上は必要だと言われてる」

「だったら問題ないだろ。ここは8階、いや9階だ」

「そうね。でも、統計上8階から落ちても1割強の確率で助かるというデータがあるの。理由は単純な話、大体の人は足から着地するからよ。それでも衝撃はすごいから6割以上の確率で頭に外傷が生まれるそうよ。でも、たった6割ともいえるわね。あなたに頭から飛び込む勇気はあるのかしら」

「……」


 まさか、助かる可能性があるとは考えなかったのだろう。大学生の顔に驚愕が浮かぶのがわかる。それでも、一割を大きいと見るか小さいと見るかは彼次第だけど私はさらに追い打ちを掛けることにする。


「助かる確率が1割というのなら9割は死ねるのだから悪い賭けではなわね。でもね、万が一助かった場合、果たして五体満足でいられるのかしら? 頭に外傷がなくても脊椎を損傷することは多い。つまり、助かったばっかりに半身不随という結果になりかねないということよ。自殺の方法には数あるけども、飛び降り自殺ほど失敗したときのリスクが高いものはないわね。ちなみに12階以上から落ちても助かったという話もあるわよ」

「ど、どうしたらいいんだ。僕は」

「知らないわよ。最初に言ったでしょ。死にたいなら止めるつもりはないわ。でも、ここから飛び降りることはお勧めしないわ」


 大学生が手すりに寄り掛かる様にしてその場に崩れ落ちた。もはや自殺は取りやめのようだ。私は彼の方にゆっくりと近づいて、すっと手を差し出した。その手を取った彼が立ち上がり、靴を履いて白い封筒をひったくるようにつかむと、屋上から出て行った。

 扉を通る前にこちらに向かって軽く会釈をしていったが、あれで救われたと思っているのなら本当に救いようのないやつだ。


 私は大学生がいたあたりまですたすたと歩いていくと、柵に手をかけて下を大きく覗き込んだ。

 表通りとは反対側なので、ごみ箱がならんでいるだけで人通りはない。このビルには四軒も飲食店が入っているので出てくる生ごみの量も多いのだろう。猫かカラスに食い破られたのか地面に汁がしみ込んだような跡が広がっていた。

 あれだけごみがあれば、クッションになって本当にあの男は助かったのかもしれない。


「やめるんだ!!」


 声の大きさにびっくりして私が後ろを見ると、30歳くらいのイケメンが屋上に立っていた。

 一体何の冗談だろうか。


「君に何があったかはわからない。でも、死ぬことは解決にはならないだ」


 なんて暑苦しい男だろう。

 イケメンだったら何を言っても許されると思っているのだろうか。


「ちょっと、なんで私が死ぬことになっているの?」


 あのバカ男と違って、靴を揃えているわけでも遺書もないのだ。大体あの手のパフォーマンスはテレビ的な演出でしかないのだ。もっとも、自殺者がいるというわかりやすさの点でいえば確かなのだろう。

 つまるところ、ただ屋上にいるだけの私が自殺志願者に見えるというのはいかがなものか。


「俺が屋上に入った時、その柵を越えようとしていただろう。ごまかそうとしてもだめだ。いいかい。つらいこともあるかもしれない。でも、禍福は糾える縄の如しという、悪いことといいことは表裏一体。必ずいつかは好転するんだ。ここで死ぬのは損じゃないか。もしかしたら明日、いやこのビルを出たところで君は運命的な出会いをするかもしれない。あるいは宝くじが当たるかもしれない。ひょっとしたら一生の夢が見つかるかもしれない。未来は無限大なんだ」

「で、あなたは何しにここに来たの?」


 男の言葉を右から左に聞き流して聞き返す。ほとんどの人間は自分の物差しで物事を図る。自殺しようとしているからこそ、私のことが自殺志願者に見えたのだろう。連続して自殺者が現れるなんて不自然極まりないが、きっとそうなのだ。

 私が知らないだけで今日は飛び降り自殺推奨デーにでも認定されているのではないだろうか。


「俺はこのビルで働いてて、休憩でたばこを吸いに来ただけさ」


 もっともらしい答えだが、それは嘘だ。

 このビルに男の勤め先はない。一階から四階には飲食店、五階にはマッサージルーム、六階は空き、七階と八階は清掃会社の管理事務所がある。この場所を管理している私以上にここのことを知る人間がいるはずもない。


「もしかして6階の人ですか?」

「あ、ああ。知っているのか?」

「ええ、そういえば見たことがある気がします」


 イケメンが簡単な誘導尋問に引っかかったのに合わせて私も嘯く。まあ、こいつが嘘つきなのは最初からわかっていたが、果たしてどうやって追い払おうか。それが問題だ。


「煙草だったら気にせず吸ってかまいませんよ」

「そういうことなら失礼して」


 とりあえず牽制としての言葉に反応して、胸ポケットを探って煙草を取り出す男。さも、そのために来たかのように火をつけてこちらに煙が飛ばないようにふーっと息を吐いた。

 自然な足取りでなぜかこちらの近くまで歩いてくると、柵に腰を預けて下を見下ろす。


「あなたもここで働いているのですか?」

「ええ、まあ、そんなところです」


 6階が無人だと知らない彼は、平然と嘘を重ねる。私も戦略を練りながら、適当な会話を続ける。天気の話、首相交代の話、遠い大国の大統領選の話など。お互いに興味がないことは明らかなことを口にする。この会話に意味はない。精々が時間稼ぎのようなもの。

 タバコが持てるギリギリのサイズになったところで男が携帯灰皿を取り出して火を消した。


「……」


 沈黙が流れる。

 煙草を吸ったのならさっさと出て行けと思うけども、休憩が嘘である以上出ていくはずもないかとため息を付く。


「随分長い休憩ですね」

「そっちこそ。僕より先に来ていたんだから、休憩時間は終わりじゃないかな」

「私は休憩だといった覚えはないけど?」


 私がそう答えると苦虫をかみつぶしたような顔をした。そんな顔をしてもイケメンは崩れないらしい。びっくりだ。

 このまま無言でにらみ合っていても仕方がないので、私は「お先に」といって彼に背中を向けて歩き出す。屋上のドアを閉めて一呼吸。

 もう一度、ドアを開けると男が柵に足をかけていた。


「で、何をしているのかしら」


 下を覗き込んでいた私と違って、言い訳のしようのない状況。

 イケメンは柵の内側に戻って、埃をぱんぱんとはたくと何事もなかったように視線を向けてくる。


「股関節を伸ばそうとしていただけだ」


 あまりにもへたないいわけに私は噴出した。


「自殺しようとしている人間がよくもまああんなにつらつらと生きることの素晴らしさを説けるものね。ある意味感心するわ。私はあなたと違って自殺が悪いとは言わないわ。けどね、ここで死ぬのはやめた方がいいわ」

「君に何がわかる」

「だから、何もわからないし、わかる気もない。あなたにはあなたの事情があるんでしょう。同情も共感もしない。ただ、私にできるのはここで死ぬのを止めることくらいかな。ああ、説得してほしいなら説得してあげてもいいわよ。あなたが口にしたようなことならいくらでも言えるから」


 死ぬ理由なんてのは十人十色。

 わかることなんて絶対にできない。

 どう見ても絶望の中にあっても自殺しない人間もいれば、天気がいいからと飛ぶ人間もいる。その時その瞬間、それぞれ本気なのだから。


「失恋したんだよ」

「いや、どうでもいいし」


 聞いてもないのに語りだしたイケメンに思わずツッコミを入れる。まあ、こんだけのイケメンがフラれるというのは中々面白くはあるけども、正直どうでもいい。


「聞けよ」

「じゃあさ、一緒に死んであげようか? 失恋したのなら一人で死にたくないでしょ」

「くそっ、やっぱり君も死のうとしてたんだろ。だったら、止めないでくれ。一緒に死ぬ必要はない」

「でも、そういっても、あなたが死んだら、きっとこの場所は閉鎖されてしまうんじゃないかしら。そしたら私はどこで死ねばいいの?」

「そんなの知るかよ。俺が先に死ぬんだ」

「そういう意味じゃあ、私の方が先にここに来てたんだから、私に権利があるんじゃない?」

「どういう理屈だよ」

「じゃあ、一緒に飛ぼうよ。ね、そういうのもいいんじゃない」

「……ダメだ。それだけはできん」

「何で? 自殺なのか心中なのかなんて死んだ後のことなんか気にする必要ないでしょ」


 どうやら男にとって自殺はよくても心中はダメらしい。まあ、心中してあげることはできないのだから、そんなに悩まないでほしいのだが。


「女と一緒に死んだら、俺のアイデンティティが崩れてしまう」

「どういう意味」

「フラれた相手は男なんだ。女と心中したと知られたら、きっと疑われる」

「何が」

「俺は本気が、だよ。俺は本気でタカヒロのことが好きだったんだ。女と一緒に死んだと知られたら、俺の気持ちが嘘だと思われるじゃないか」


 愚かな男だ。

 適当に心中を提案しただけだったけど、この路線で排除できる。


「そう。だったらあなたはもう飛べないんじゃない。あなたが飛んでも、私は後から飛ぶわよ。時間差があっても、世間的には心中と思われるでしょうね」

「ふざけるな」

「じゃあ、飛び降りを止めればいいじゃない。勘違いしないでね。私は別に自殺を止めたいわけじゃないのよ。ここで飛ぶことを止めたらと提案しているだけなの」

「俺はここで死にたいんだよ」

「彼氏がこのビルで働いてるとか? 傍迷惑な男ね」

「……俺の勝手だろう」


 図星だったらしい。最初のころのシュッとしたイケメンはどこへ行ったのか。ただの情けない男がそこにいた。


「それこそあんたが言ったみたいにさ、ここを出たところで運命の出会いがあるんじゃないの?」

「あるわけないだろ。君たちみたいにノンケにはわからないよ。ただでさえ俺たちは少数派なんだ。そんな俺たちが運命の相手に出会えることなんて本当に奇跡みたいなものなんだ。あんな恋はもう二度とできないんだ」


 心底どうでもいいが、なかなか自殺しようとする人間を説得するのは難しい。まあ、私としては自殺をやめなくても”ここ”で飛ぶことさえやめさせれば勝ちなのだが。

 仕方ないので実力行使に出るか。

 私は言葉もかけずに男の方へ歩いていく。


「来るな」

「って言われても行くわよ」


 自殺っていうのは人に見られた時点で9割がた失敗しているものなのだ。人の見ている前で実行できる人間は稀だと思う。私のことを無視してさっさと飛べばいいのに、それができない時点で彼はもう飛べない。大体、自殺を止めようとしている人間と言葉を交わしている時点で負けだと思う。

 自殺を止めようとする人間を説得できる言葉を持つわけがないのだ。普通の人間は目の前で飛ばれるのが嫌なので、あきらめることはないのだから。

 つまるところ、言葉を交わすのは自殺志願者側の問題で”説得してほしいから”に違いない。


「で、どうするの」


 私は彼の肩に手を置いた。


「なんだんだよ。君は」


 イケメンが相好を崩して膝を付く。自殺者の心理に関して私の右に出るものなどいるはずがない。崩れ落ちたイケメンが涙を流しながら彼氏との思い出を語っているのを適当に相槌を打ちつつ聞き流して落ち着くまで待った。


「ありがとう。僕は行くよ。でも、君も変なことを考えないようにね」

「はは、だからあなたは勘違いしてるんだってば。私はここの管理人よ。天気がいいから屋上に出ていただけなの。ちなみに6階は空きになっているから、あなたの嘘は最初からわかってた。あなたこそ気が変わらないようにね。まあ、もっとも屋上のカギは修理しておくから無駄だけど」

「え? そ、そうなのか」


 少し乾いた笑い声を上げてイケメンが降りていく。

 その途中に六階が空きテナントだと気付くだろう。そうしたら、私の言葉の信ぴょう性は増して彼は二度とここに現れることはないはずだ。

 彼の消えた扉から転落防止用の柵に視線を戻す。

 下を覗き込んだ私の目にはごみ箱の下に広がっていたシミが見える。

 それがほんの僅か、さっきよりも薄くなっている気がする。




「はぁあ、あと何人救えば、私は許される成仏できるのかしらね」

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