インフェルト村の少女‐03(009)



 メイジは親と殆ど一緒にいなかったためか、あまり悲しむ様子もない。パトラッシュは出来るだけハイジの生い立ちに配慮しつつ、明るい話題に努めようとする。


「それではお屋敷にはお婆様がお住まいなのですね」


「お婆さんは山の小さな集落に住んでいるわ」


 メイジは左後方、東の方を振り返りながら寂しそうな顔で答える。という事は、メイジは一体屋敷で誰と一緒に住んでいるのか。恰好や振る舞いからして、奉公に出されたわけではなさそうだ。


 となれば、導かれる答えはそう多くない。パトラッシュは少しだけ声を潜めて訊ねた。


「では、メイジ様は……なるほど。どなたかのお屋敷に不法侵入なさっているのですね」


「ふほ? 何、ふほうしにゅって。親戚のおじさまが住んでるの。山から学校に通うのは大変だからって」


「ああ、そのような事情でしたか。不法侵入の件はお忘れ下さい」


 パトラッシュはそう多くない答えを間違い、少々恥ずかしそうに答えた。いや、まず最初に不法侵入を疑うというのがズレているのだが……。


「大きくなったら、山から通ってもいいんだって。だからあたしは早く大きくなりたいの」


 そう言って、メイジは水筒をパトラッシュに見せる。


「毎日お小遣いで牛乳を買ってるの。牛乳を飲むと大きくなれるから」


「ほう……では水筒いっぱいにお買い上げなさるのでしょうか」


「そうよ。お小遣いは50ゴールド、牛乳も50ゴールド。お菓子やおもちゃも欲しいけど、大きくなる方が大事だって子供でも分かるし」


「とても聡明なのですね、素晴らしい事です」


 なかなか向上心があり、意思の強い子だ。パトラッシュはなるほどと頷き、その拍子に鞄を落としてしまう。メイジは笑いながらパトラッシュの首に鞄を下げ、紐を少しだけ短く縛ってやった。


「おっとお優しい。どの程度大きくなったら、山へ帰る事を許していただけるのですか?」


「そうね。使用人のマイヤーさんの肩くらいに背が伸びたらいいって言われたわ。8歳だし、まだまだね」


「1日で水筒1本では足りないという事でしょうか」


「足りないわ! 全然よ。もう4か月も飲み続けているのに……きっと1年経っても帰れそうにないわね」


 成長というのは、1日や2日で成せるものではない。ましてや成人の一般的な女性の身長を考えると、8歳の児童の身長は遠く及ばない。


「いっそのこと、牛乳ではなく、乳牛を飼ってはいかがでしょうか」


「牛を? あなた大胆なことをいうのね。そうね、牧草は外にいっぱいあるし、エサは心配ない。50ゴールドを何か月貯めたら買えるかな」


「さあ、わたくし牛のお値段には詳しくないもので」


「あーでもやっぱりだめ。お庭がないの」


 いったいどれだけ牛乳を飲ませようというのか。乳牛を1頭買える頃には、とっくに大人になっているに違いない。


 以前立ち寄ったジェニス村とは違い、こちらは窓の高さまでレンガやコンクリート、そこから上は木造という家が多い。豪雪地帯なのか、高床になっている。


 そんな一般的な家々を横目に、パトラッシュはメイジの後をついていく。穏やかで丁寧とはいえ、パトラッシュは魔獣。野良犬や野良猫はパトラッシュの気配を察知してそろりと逃げ、家畜たちも柵の中でパトラッシュから距離を取る。


「着いたわ。足を洗わなくちゃ」


 連れられて来たのは街道沿いの大きな3階建ての家だった。付近にも同じような造りの家はあるが、この家はひときわ大きい。


 1階部分までは直方体の石のブロックで造られた壁に覆われ、真っ赤に塗られている。窓枠は真っ白で、2階から上は焼杉の板を重ねた木造。庭はないものの、2階にウッドテラスが廊下のように張り出し、ティータイムを楽しめるテーブルも見える。


 全体的に町の建物は見るだけでもお洒落で、他に特産品や温泉などがあれば有名な観光地としてやっていけそうだ。


「なるほど……乳牛を飼おうにも牛舎を建てられませんね」


「庭もないし、畑もないのよ? ほんと信じられない。さあ入って」


 メイジは自身の土で汚れた足をタオルで綺麗に拭き、パトラッシュの足も簡単に拭いてやる。目の前には大きな扉があり、左右はこげ茶色の木板で統一された壁と床。


 どこかの風景画が立派な金メッキの額縁に入れられ、それが扉と扉の間に1枚ずつ掛けられている。屋敷と言われるだけあって、かなりの資産家なのだろう。


 メイジは誰に声を掛けるわけでもなく、そのまま回廊を時計回りに歩き、2階へと上がった。


 パトラッシュはメイジほど素早く駆け上がる事が出来ない。ようやく赤い絨毯が掛かった段差をゆっくりと上った時、2階の回廊の奥から大きな声が響いた。


「あらメイジ! 朝食も食べずにあなたって子は……」


「あっ、マイヤーさん! ……見つかっちゃった」


 メイジがびくっと肩を竦め、その場で立ち止まる。パトラッシュも驚いたせいで思わず尻尾が膨らんでしまった。視線の先には腕組みをした女性がいる。


 歳は30代くらいだろうか。面長な痩せ顔で、髪をポニーテールにし、黒縁の細長い眼鏡をかけ、紺色のブラウスに黒いスカート。恰好からしてただの召使いではなさそうだ。


「学校が休みの日でも、朝食をしっかり食べなさい。それと、行き先を告げずに外に出てはいけません。あなたはもううちの子なのだから……」


「違うわ! すぐにお婆さんの家に戻るの! 学校に近いからいるだけよ!」


 メイジは逆らうように声を荒げ、そのまま左手にある部屋に入ってしまった。まだ8歳の少女にとって、今の生活を大人しく受け入れるのは難しいようだ。


 マイヤーは困った表情のままため息をつく。しかし、困っているのはマイヤーだけではない。


「困りました……わたくしは一体どうすれば」


 パトラッシュは家に招待されたにも関わらず、部屋から閉め出されてしまった。しかもまだ家の者に何の説明もしてもらっていない。このままではどう見てもメイジが連れ込んだ野良猫だ。レバーを下げて入る事も出来るが……


「んまああの子、猫を屋敷の中に!」


 女性はウェッジソールパンプスの踵をややきつめに鳴らしつつ、ゆっくりとパトラッシュに歩み寄って来る。怯えて逃げ出さないようにと思っているのだろう。


 しかし、至近距離で対峙した後はどうだろうか。反応を見るからに、パトラッシュは歓迎されていない。


 きっと猫のように抱きかかえられ、猫のように追い払われるのだ。こうなったら先手を打つしかない。


 パトラッシュは得意の2本足立ちで少しよろよろしながらお辞儀をした。右前足を後ろに回し、左前足は胸元に当て、まるで地位の高い者に対して行うような礼だ。


 普段ならば帽子を取ってその中を見せるように右前足を下げ、頭を下げると同時に右後ろ足を下げる。今日は最上級のお辞儀だ。快く思ってくれていない相手に対しては、最大限の敬意を示そうと思ったのだ。


「わたくし、パトラッシュと申します。ご主人様から……」


「んまあ、なんて猫なの! お行儀がいいわ、それに何故喋っているの? あなたは……」


「わたくし、ご主人様より旅の許可をいただいて、こうして旅をしております」


「んまあ、あなたがおとぎ話に聞く精霊なのね! あの子ったら、精霊さまを何のもてなしもなく屋敷に」


 マイヤーは目を丸くして驚くが、パトラッシュの事をあっさりと受け入れた。メイジと出会った際の女性に対してもそうだが、パトラッシュは嘘を言ったわけではない。勘違いされただけだ。


 少々重たいヒールの音は気持ちばかり軽くなり、マイヤーはふっと雰囲気も明るくなった。厳しい女性だと思っていたが、一辺倒ではないらしい。


「メイジが招いたのですね。せっかくですから、パトラッシュさんはメイジの機嫌が直るまでゆっくりされて下さい。旦那様は夜にしかお戻りになりませんから」


「ご厚意に甘えさせていただきます、有難うございます


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