ジェミニ村の老夫婦-03(004)



「奥様、旦那様の部屋に毛皮の密売人が」


「ああ、来てしまったのね。分かったわ、支度しましょう」


 女性はパトラッシュの頭を撫でながらゆっくりと頷き、老婆らしからぬ灰色のつなぎへと着替え始めた。旦那が密売人と繋がりのある悪人だと知っているようだ。


 パトラッシュは女性の行動を見つめながら、絶望のまなざしを向けていた。


 自分を救ってくれた優しい貴婦人が、まさか旦那と共に悪事に手を染めていたとは思ってもいなかったのだ。


 しかし、パトラッシュの頭の中には先程の「旦那様」の言葉が疑問となって残っていた。彼はまるでこの老婦人が何も知らないかのような口ぶりだったからだ。


 それに、パトラッシュの毛皮を狙うのなら、助けずそのまま殺すことも出来た。何故そうしなかったのか、それも分からない。毛艶が良くなるで待つのだろうか。


「奥様、この猫ちゃんをどうしましょう」


「そうね、あなたの部屋に。主人には私から話します。元気になっているかしら」


「ええ、廊下に出たり、自分で扉を開ける程には」


「まあ、本当に賢いのね。そのままお利口に、分かったわね、猫ちゃん」


 猫呼ばわりされることに不満はあったが、パトラッシュは返事の代わりに口を開けた。マーシャは自室に戻ろうとするが、その時「旦那様」の部屋の扉が開き、廊下にはゆっくりと歩く靴音が響き始めていた。


「仕方ないわね、猫ちゃんをベッドの下に、早く!」


 マーシャが慌ててパトラッシュをベッドの下に押しやる。マーシャがシーツをそっと下げる瞬間の祈るような顔を見れば、流石にパトラッシュも声を出そうとは思わなかった。


 その頃、長身で額の狭い白髪の老人は、紳士と呼ぶにふさわしい姿勢の良さを保ったまま、優雅に歩いていた。服装はこれから狩りにでも行くかのようだ。


 これでもし人相が悪くなければ、およそ悪事を働く者とは思えなかっただろう。


 廊下には鹿の頭の剥製、熊の毛皮の絨毯、鳥の羽毛を並べて描かれた額入りの芸術作品もある。それらは全て密売人から買ったに違いない。


「ガルシア、入るぞ」


「……モーガンなの?」


「ああ。密売人が来た」


 女性はガルシア、旦那はモーガンという名のようだ。モーガンは既に支度を済ませているガルシアに驚きつつも、調度品に紛れた上品な受話器を取り、どこかに電話をかけ始めた。


「ああ、そうだ。ああ、そうだと言っただろう。黒い服の男だ、灰色髪、黒いスカーフを顔に巻いている。屋敷から出て行った。そうだ、今さっきだ」


 どうやら先程の密売人の動向をどこかに連絡しているらしい。


「よし、役場から各戸に連絡が行く。森の入り口ではいつもの通りに」


「分かりました、屋敷の事はマーシャが」


「お任せ下さい、旦那様、奥様」


 マーシャは忠誠心を前面に出し、不自然さを一切見せずに頭を下げる。ガルシアはあまり遅いと怪しまれると言って急かすが、モーガンはその場で腕組みをしたままマーシャに視線を向けていた。


「ところでマーシャ。お前、部屋で猫を飼っているそうだな」


「わ、私がですか!? 滅相もない!」


 マーシャはやはり知られていたかと焦りつつも、顔色にも声色にも出さずに驚いて見せた。だが、モーガンには通用しなかったらしい。


 モーガンは部屋のランプに火を点け、マーシャの桃色の部屋着に近付ける。そして白く細い糸くずのようなものをつまみ上げると、意味深な笑顔を浮かべた。


「これは何だ? 自分で気付かないか? ほら、沢山ついているぞ。黒髪のお前にしては妙だな」


 それは紛れもなくパトラッシュの毛だった。マーシャが腕に抱いた際、びっしりとついていたのだ。


「あ、あの……これは」


「俺がここから動かなければ、村の全てが明るみに出るかもしれんな。そうだな……召使いの募集も始めなければ」


 マーシャは追い込まれ、ギュッと目を瞑り部屋着の裾を握りしめる。けれど元々拾ったのはガルシアだ。ガルシアはため息をつくと、自分が拾ったと名乗り出ようとした。


「にやーん」


「駄目! 今鳴いては……!」


 ガルシアが口を開いたと同時に、パトラッシュの下手くそな猫の鳴きまねが聞こえた。


 パトラッシュはいくら相手が悪者一家であったとしても、自身を助けてくれた以上、自分を原因とした争いを招きたくなかったのだ。


 マーシャとガルシアが悲し気な目でパトラッシュを見つめるも、パトラッシュの心は決まっていた。


「コホン……あ、これは決して風邪ではございません。注目して頂きたい時のあれですのでご心配なさらずに」


 パトラッシュは二本足で立ち、ふらふらしながらお辞儀をした。当然のことながら、モーガンもガルシアもマーシャも、突然喋り始めた猫に開いた口が塞がらない。


「わたくし、以前はパトラッシュと名を頂いていた使い魔でございます。決して怪しいものではございません。私の全てだったご主人様が亡くなり、こうして新たなご……うぐっ」


 怪しさ以外何もないパトラッシュに、3人が警戒し、恐れ、悲鳴を上げるかもしれない場面だった。もしくは密猟者と繋がりがある者なら、使い魔の剥製となれば是が非でも欲しいと思ったかもしれない。


 パトラッシュは相手を落ち着かせつつ、即射殺などとならないよう、慎重に言葉を選んだつもりで挨拶をしていたが……その挨拶は途中で遮られてしまった。


「ああ、あなた……やはりこうなってしまうのね」


 ガルシアがため息をつき、マーシャがモーガンに慌てて駆け寄る。


「旦那様、旦那様! 落ち着いて下さい、旦那様!」


 パトラッシュは抱き上げられ、モーガンにしっかり捕らえられてしまった。老人のわりに腕の力は強く、パトラッシュは逃れようとするも成す術がない。


 絶体絶命の大ピンチ。


 こうして主探しをしていた可哀想な使い魔は、その生涯を終えて可愛らしい剥製に……は、どうやらなりそうにない。


「ああこの感触、このフワフワ! 温かくて、この柔らかい腹の毛に顔を埋めて深呼吸する幸せ! 嫌がるような表情で、それでも抵抗に加減をするいじらしさ! 何故早く猫を拾ったと言わなかったんだ! 何故隠していた!」


「こうなると分かっていたからです」


「旦那様、はやく出発なさらないと怪しまれます!」


 パトラッシュはなんとか上半身だけ腕から抜け出し、顔を近づけるモーガンに対し、両前足の肉球でそれを全力で拒否した。


 だが少し硬くもつぶらな肉球が頬を押す感触がたまらず、モーガンはわざと顔を近づけては拒否されることを楽しむ。モーガンは無類の猫好きなようだ。


 普通の野良猫なら、引っ掻いてでも暴れて大声を出してでも逃げ出しただろう。衰弱していたパトラッシュに、何故会わせようとしなかったのか。パトラッシュはそれをようやく理解した。


「あの、あの! わたくしの話を聞いていただく事は……あの、わたくし猫ではございません、ぶっ……むにゃ、あの、猫呼ばわりはお止め下さい!」


 パトラッシュが喋りながら拒否する事で、モーガンはようやくハッと気が付いた。目の前の猫が喋っているのだと。


「ね、猫が喋った!? ど、どういう事だ! この可愛い猫が、ふわふわでもう可愛い……スゥー、ハァ、可愛い猫が喋るなんて……スゥー……」


「あの、わたくし先程から申しております通り……あの、わたくしのお腹の毛に顔をつけて深呼吸なさるのはお止めいただけないでしょうか」


 モーガンは最後に1度だけと言うと、パトラッシュのお腹の毛に顔を埋めた。


「今更だが、お前はもしかして魔族なのか?」


 モーガンはパトラッシュの肉球を触り、背中を強めに撫でながら、キリっとした表情で問いかける。


 黙っていれば人相が少し悪く、老紳士を装った悪党なのだが、どうにも行動が伴っていない。


「いえ、わたくしは先程申しました通り、使い魔なのです。ご主人さまを探すべく、はるばる……おや、ここは一体どこの村でしょう? とにかく多分北の、ずいぶんと先からやって参りました」

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