第18話 Dm

 あれから1週間、まだ草深さんは花を取りに来ない。

 可愛らしいシロツメクサも枯れてしまったので、バイトの帰り道、私は道端に咲いたカラスノエンドウを摘んでキッチン横の花瓶に活けた。


 私の部屋は相変わらず静寂が耳を割く様で、たまに聞こえる近くの家のピアノの音がなんだか無性に悲しく聴こえた。


(こんなことなら花瓶なんて受け取るんじゃなかった)


 いつ来るか分からない相手を待ち続けるのがこんなに辛いなんて知らなかった。

 気持ちを切り替えるために、夕ご飯を作ろうとキッチンに向かう。

 イヤホンをしながらでは危ないので、不本意ながら携帯で音楽を流しながら背中でエプロンの紐を結んだ。


 今日はスーパーでキャベツが安かったので、春キャベツと鶏肉の和風パスタを作ることにした。

 鶏もも肉を1口大に切って醤油に漬け込んでから、甘みとコクを出すために、玉ねぎをみじん切りにする。

 音質の悪い音楽が鳴っている中、規則的な包丁の音がキッチンに響いた。

 一人暮らしを始めて3週間。

 大学生活もアルバイトも勉強も何もかも順調なのに、何故だか時々無性に寂しくなる瞬間がある。

 夕暮れの家から香るカレーの匂いとか、仲睦まじく手を繋いで歩く親子の姿を見たりすると、時々胸が苦しくなる。

 ホームシックなんていう年齢じゃないのに、玉ねぎを刻みながら私は急に実家に帰りたくなった。

 まるで心を切り刻む様に赤い夕焼けのせいで、包丁が滲んで前が見えなくなったので沸騰し始めた鍋の火を止めてその場に座り込む。


(やばい、ダメだ。あとでお母さんに電話しよう)


 鍋から立ち上る湯気が揺らめきながら換気扇に吸い込まれていく。

 次第にその量は少なくなって、携帯から流れる音楽も今では聴こえなくなっていて、窓から刺す光はオレンジから人工的な白に変わっていた。


 どれくらいの時間そうしていたのか分からないが、滲んだ景色が元どおりになったので立ち上がろうとしたその時、インターフォンが鳴った。

 鳴ったどころか3回も鳴り続けた。


 

「ニャン丸いるー?花もらいにきたんだけどー」


 私のことをニャン丸と呼ぶのは世界で一人しかいない。

 返事もせずに急いで玄関のドアを開けると、草深さんが立っていた。


「誰が来たか確認ぐらいしましょーね」


 廊下の電灯はチラチラと瞬きながら、暗い夜を照らしている。

 安物の蛍光灯の明かりが虹の様に七色に見えるのは、きっと玉ねぎのせい。

 私は出来るだけ明るく、さっきまでの気持ちなんてまるで嘘だったかの様に振る舞った。


「こんばんは。いいお花仕入れてありますよ」


 今の私にできる最大限の微笑みを作った。


「何かあった?」


 一瞬、ほんの少しの間を置いて、草深さんは真面目な顔をして私を見つめた。


「玉ねぎ切ってたら、染みちゃって」


 私は無理やり笑顔を作って対応をする。


「違うだろ、どうした?」


 涙も拭いて、笑顔も作って、声のトーンも上げたのに、どうしてこの人には気づかれてしまうんだろう。

 最悪な隣人だと思っていたのに、会いたくないとさえ思っていたのに、どうしてこの人に会うとこんなに胸が高鳴るんだろう。


 止まっていた涙がまた溢れてきそうで、私は必死で顔に力を入れた。

 入れても入れても、喉が熱くなって草深さんの顔が涙で滲んでいく。

 私の両肩を抱いてその場に座らせると、草深さんは靴置き場から1段高くなった玄関に腰を下ろして、着ていたジャケットを私に羽織らせて何も言わずに私の背中をゆっくりと優しく叩いてくれた。

 ジャケットから微かに香る香水の匂いが、私の心を落ち着かせてくれる。

 背中に草深さんの手が触れるたびに、涙が引いていくのが分かる。

 

「ごめんなさい。私、泣いてばかり」


「泣きたい時は泣いときな。どうした?」


「ううん、さっきまでは何か急に実家が恋しくなっちゃって。今は、草深さんの顔みたら安心して急に涙が出てきて」


 口に出してから、しまったと思った。

 こんなことただの隣人に言われても困るだけだ。

 せっかく引いていた涙が、後悔に引っ張られてまた溢れそうになった。


「実家さ、小岩井農場の近く?」


 少しの沈黙の後の草深さんの問いかけに、私は無言で頷いた。


「今度、一本桜見に行ってくるよ」


「……いつ?」


 懐かしい言葉の響きにつられて、私は涙目で草深さんの方を向いた。


「ゴールデンウイーク中」


 私もゴールデンウィークには実家に帰らなくちゃ、なんてぼんやりと思っていると、


「……一緒に行く?」


 いつもの冗談でからかわれているのかと思ったが、隣で私を支えるその瞳は静かに真っ直ぐに私を見つめていた。

 考える時間なんて必要なかった。

 ニャン丸のくせに、私はよく訓練された犬が瞬時にお手をするように、瞬間的に返事をした。


「うん」


 また涙が出そうになったが、今度は笑顔で答える。

 キッチン横の窓では2本のカラスノエンドウが佇んでいた。

 気のせいか、その花の色は摘んできたよりも少しピンク色に見えた気がした。

 

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