新月の夜。レグルスが月の代わりになろうと煌々と光っていた。

私は指で星を繋ぎ、空に獅子座を描いた。

私はライオンが好きだ。優雅を体現したかのようなオスの大きなたてがみやメスによる猛々しい狩りの様子。ライオンに限らず私は猫が好きだ。

しかし猫のように気まぐれな人はあまり好きではない。自分のペースを乱されるのは苦手だ。

こんなことはしてられない。私は気を取り直して店を開ける用意を始めた。


いつも通りの時刻、いつも通りに私は店を開け、そしていつも通り本棚から本を取り出し、いつも通り店の奥にある椅子へ腰を下ろした。

今日は『吾輩は猫である』。猫の目線で描かれたこの作品を読んでいると人間の生活が新鮮に感じられる。

静かな室内に外の雨が響いてきた。さっきまで晴れていたのに今ではダダダダと大粒の雨が路地の地面を撃っている。


24時。カチャと小さくドアが開く音がした。私は読み終わった数冊の本を積み、ドアに向かった。

そこには傘もささず、濡れねずみのようになった女性が立っていた。私はタオルを女性に渡した。

「すみません」

女性は弱々しく言い、床にへたりこんだ。

私は仕舞うのが億劫になって置きっぱなしにしてあったストーブをつけ女性をストーブの前に案内した。

「ありがとうございます。こんな夜遅くに」

そう言うと女性は静かに涙を落とした。

「どうしたんだ」

私が聞くと女性は首を横に振った。

「分からないんです」

とんちんかんな答えに私は少し混乱した。わからない? 自分のことなのに泣いている理由が分からないなんてあるのだろうか。困惑している空気を感じ取ったのか、女性は続けて言った。

「私、何か悲しいことがあってふとした瞬間に涙が零れちゃうんです。でもなんでかわからなくて」

補足を受けてもまだ分からない。女性はさらに大粒の涙を流しながら言った。

「私、昨日までの記憶がないんです。バッグの中も身分を表すものは何も無くて」

そう言って女性はバッグを開けて私に見せてきた。

バッグの中は、リップと宇宙飛行士のキーホルダーがついた鍵、ペンのインクにルービックキューブと意味不明。しかしその中でも一際異彩を放つものがあった。

「これは君のものか」

私は慌ててバッグの中に入っていた懐中時計を女性に見せた。

女性はそれを見た途端ハッと血相を変えてそれを奪い取った。

「そんなにすごい時計なんですか。豪華な宝石がついているわけでもありませんし」

女性が表情をころりと変え、おずおずと聞いてきた。

「すごいなんてものじゃない」

これは非常事態だ。私は腕を組んだ。あの様子から彼女の持ち物であることは間違いないだろう。私は女性に尋ねた。

「なあ、記憶を戻したいのか?」

女性は神妙な顔をしてうなづいた。私は奇妙な女性を仕事場へと導いた。


仕事場に着くと女性はサッと時計を私に差し出した。私は戸惑いながら受け取り、作業を始めた。

女性は懐中時計について質問してきた。

「この時計って実はすごいものだったりするんですか?シルバーで綺麗ですけど別に特別高価なもののようには見えないです」

「まあな、人によっては喉から手が出るほど欲しいやつもいるだろうな」

その答えに女性は納得したようにうなづいた。

「そうなんですね。じゃあなんで私はこんなもの持ってたんだろう」

確かに。私はそんなに詳しいわけではないが、知る限りでこの時計を持っている人の中にこんな女性はいなかった気がする。悩みながらも私は作業を進めた。


「できたぞ」

思いのほか手こずってしまったが私は作業が完了した時計を女性の前に置いた。

「ありがとうございます」

女性は少々待ちくたびれた様子だったが、時計を見て目を輝かせた。

「これから見せるのはあんたにとって悲しいものかもしれない。もしかしたらもっと辛いものかもしれない。それでもいいか?戻るのなら今しかない」

「わかりました」

私の問いに女性はしっかりと答えた。

私は龍頭を押した。


パシャパシャとうるさいシャッター音。好奇心に満ちた記者の声。写真や雑誌で何度も見た事のある大物作家の姿。

その光景は女性には眩しすぎて思わず目を細めた。

『金子リアさん。桜川賞受賞おめでとうございます!』

司会者が女性はに言った。女性は戸惑いながらも『ありがとうございます』と口にした。

そして大物作家、金子雷の手から懐中時計を手渡された。

『素晴らしかったよ』

嬉しそうに金子が言ったところで映像は止まっている。


私は慌てて女性に言った。

「桜川賞作家だったのか」

「え?ああそうなの、私は金子リアっていうの。桜川賞を獲ったのは嬉しかったけどさ、あんな眩しくて退屈な場所にいるのが苦痛で苦痛で抜け出してきちゃった」

女性は人間が変わったように話し始めた。今年の桜川賞だったのか、道理で知らないわけだ。

女性はさっきまでのしとやかな雰囲気はどこへやら、すっかり気の抜けた表情をしている。

「それでこんなオシャレなお店でおじ様が本を読んでたからちょっかいかけたくなっちゃった」

女性はそういうと私の手から懐中時計を取り返した。

「んー、このカワイイ時計が貰えたのは良かったけどね」

女性は立ち上がるとくるっと踵を返して出ていこうとした。

「ちょっと待ってくれ」

私が呼び止めると「はい?」と女性が振り向いた。

「ちょっかいかけたくなったってことは記憶喪失っていうのは」

「ああ、それ嘘」

女性は得意げにウインクをした。

「もっと上手く行くかなって思ってたんだけど、即興は私に向いてないみたいね」

そして女性は一人で反省会を始めてしまった。

「なんでこんなことを」

私は思わず問いかけた。女性はとびっきりカワイク言った。

「だって私は小説家だよ?」

どういうことだ。私は首を傾げると、女性は小さくため息をついてこう付け足した。

「だから私は小説家。小説家って世界一カワイイライアー《LIAR》なのよ♡」

女性はうふ、と笑ってとびきり大きく、そしてとびきりカワイク、目配せをして去っていった。

なんだったんだ。私は疲れて椅子の背もたれに身を任せた。

気まぐれで自分のペースをかき乱す、まさに猫のような女性だった。

「はぁー、疲れた」

そうつぶやき私は店を閉めた。

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