Chapter9 魔性の歌姫

Episode 11-1 春の前触れ

「ティナ殿、『りさいたる』とは一体何だろうか」


 春が間近に迫った、とある日の昼下がりのこと。モーファの街中を歩いていた又三郎が、隣にいたティナに尋ねた。


 その日はティナと二人で、市場へ買い出しに出かけていた。ここ数日分の食材の買い出しが主な目的だったが、街中を歩いているとあちらこちらに、同じ言葉が書かれた紙が貼られているのを見かけた。


「ああ、今度モーファの街に来るっていう、ジャニス・コールのリサイタルの話だね」


 又三郎が立ち止まって目にしていた張り紙を見て、ティナが答えた。


「リサイタルっていうのは、簡単に言えば音楽や歌をみんなに聴かせる催しのことだよ。この張り紙の内容は、ジャニス・コールっていう歌姫が王都イシュタリアからモーファにやってくるっていう宣伝だね」


「歌というのは、あれか。ナタリー殿の誕生日の時に、子供達が披露していた」


 音楽に合わせて歌うものと言えば、又三郎が知っているのは端唄や長唄だったが、子供達の歌は音階に合わせて言葉を紡ぐもので、又三郎が元いた世界では聞いたことがないものだった。


 ティナは思わず苦笑した。


「あの子達の歌とは、全然違うものだよ。ジャニスの歌は、楽器の演奏に合わせて歌う、もっと本格的なものさ」


「なかなか博識だな。ティナ殿は、その者の歌を聴いたことがあるのか」


 又三郎が尋ねると、ティナは右手をはたはたと振って見せた。


「まさか。そういう有名人がいるっていうのを知ってるだけで、ジャニスの歌を聴けるようなお金は持ってないし」


 又三郎が張り紙をよく見ると、確かに歌を聴くための席の料金が添え書きされている。その金額を見て、又三郎は目を剥いた。


「歌を聴くのに、金貨一枚が必要なのか」


 又三郎が口にしたのは、観客席の中でも一番安い席の金額だった。


「ジャニス・コールって言えば、イシュトバールでも超有名な歌姫だからね。それでも、この街のお金持ちの人達からすれば、それほど高い金額でもないと思うよ」


 歌姫というものがどういうものなのかは又三郎には理解出来なかったが、おそらくは人気のある歌舞伎俳優のようなものなのだろうと勝手に想像した。


「おそらく、そのジャニスとかいう者の歌を聴くというのは、とても価値があるものなのだろうな」


 ぼんやりと呟いた又三郎の言葉に、ティナが満面の笑顔で頷いた。


「そりゃあもう、聴けるものなら、ぜひ一生に一度は聴いてみたいよね」

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