Episode 8-2 いつもの朝

 又三郎は、目を覚ました。


 目の前には、見慣れた教会の部屋の天井があった。思わず手を伸ばして、ゆっくりと虚空を掴んだ。


 無貌むぼうを名乗る神の力で蘇り、こちらの世界へと飛ばされてから、何度となく見続けてきた夢だった。又三郎が、元いた世界を去った時の夢。それが気のせいなのは分かっていたが、血と硝煙の匂いがまだ鼻の奥に残っているように感じた。


 窓の外は、うっすらと空が明るくなっていた。古く固いベッドから身を起こし、一つ息を吐く。又三郎は手早く身支度を済ませ、ベッドを整えると部屋を出た。


 庭に出る為に勝手口へと向かう途中、通りかかった炊事場には既に人の気配があった。炊事場の部屋の扉を開けて中を覗くと、いつもの見慣れた後ろ姿があった。


「あら、マタさん。おはようございます」


 振り返ったナタリーが、にこやかに笑った。どうやら朝食の支度を始めたところのようだった。


 ナタリーは豊穣の女神エスターシャを祭るこの教会の若き祭司見習いであり、亡き父の跡を継いだ教会の主であり、又三郎の居候先の家主でもあった。


 まだ陽が昇って間もない頃だったが、彼女の身なりは既にきちんと整っていた。一体いつ身体を休めているのだろうかと思うぐらいに、常日頃からよく働く娘だ。


「おはよう、ナタリー殿。今朝もまた早いな」


 挨拶を返した又三郎の顔を見つめていたナタリーが、僅かに首を傾げた。


「そういうマタさんは、昨夜はあまりよく眠れなかったのですか?」


「どうしてそう思われるのか」


 怪訝な顔をした又三郎に、ナタリーが小さく笑った。


「だって……マタさんの目つきが、いつもよりもちょっと険しいから」


「む、そうだろうか」


 又三郎は思わず自分の頬を撫でた。今朝の寝覚めが悪かったのが、顔に出ていたのかも知れない。


「まあ、マタさんの目がちょっと怖いのは、いつものことですけれど」


「これはまた何とも、朝から手厳しくないか」


 目元に険があるとは、又三郎が日頃よく言われることだった。だが、生まれ持った身体的特徴については、どうしようもない。


「うふふ、冗談ですよ。すみませんが洗顔が終わられたら、子供達の面倒を見ていただけると助かります」


「相分かった、そうしよう」


 又三郎は小さく頷いた。ナタリーの笑顔が見られたことで、寝覚めの悪さは幾分良くなったような気がした。


 又三郎は庭の井戸へ足を運び、水を汲んで顔を洗った。秋も随分と深まっていたので、桶の水に手を入れただけで身が引き締まる思いがした。腰に下げていた手拭で、顔を拭った。


 それから又三郎は時間を見計らいつつ、教会の子供達が眠る部屋へと足を運んだ。この教会には身寄りのない孤児達六人が、一つ屋根の下で共に暮らしている。


 まずは男児達の部屋の扉を開けて中に入ると、子供達のうちで一番年長のケインが目を覚ましたところのようだった。ベッドの上でぼんやりと身を起こしていたケインに声を掛け、もう一つのベッドで眠るダニーの肩を軽く叩いて起こす。


 女児達四人が眠る部屋については、扉を軽く叩いて返事を待った。おそらく目を覚ましていたのであろうミーシャの返事が中から聞こえてきたので、他の子供達を起こしてくれるよう頼み、その場を離れた。


 最後に、もう一つの部屋の扉を叩いたが、こちらはなかなか返事が無かった。何度か扉を叩いて、ようやく中からくぐもった唸りのような女の声が聞こえてきた。又三郎は中にいる人物に起床の時間であることを告げ、炊事場に戻った。


 炊事場に戻ると、ちょうどナタリーが朝食を盛りつけようとしているところだった。又三郎を含めて九人分の食事の準備となると、なかなか大変な作業である。


 自然じねんと、又三郎も彼女の手伝いをするために食器棚へと手を伸ばした。男所帯の中で暮らしていた期間が長かったため、炊事や洗濯は特段苦にならなかった。手際良く並べられた食器に、朝食が盛り付けられていく。


 ナタリーと二人で食卓の上に朝食を並べていた途中で、六人の子供達と、まだ眠そうに目をこする一人の娘が食堂にやってきた。


 それぞれが互いに朝の挨拶を交わす中で、ナタリーが微かに眉をひそめた。


「もう、ティナったら、また夜更かしをしていたの?」


「んー、ちょっとねー……エミリアの冬用の手袋、今ここにいるうちに仕上げちゃいたくって」


 ティナと呼ばれた若い娘が、大きなあくび交じりの返事をした。元々はこの教会で育った孤児の一人で、時々ふらりと教会に帰ってくる彼女は、冒険者と呼ばれる職業を生業としている。


 ティナは自由奔放な性格だが、一方で教会の子供達への面倒見がとても良い娘だった。教会の子供達の中で一番年下のエミリアと、おそらくは以前から約束をしていたのだろう。数日前に教会へ帰ってきた夜、毛糸と棒針を手にした彼女がエミリアの掌の大きさを計っていたことを又三郎は思い出した。


 ナタリーも、それ以上は彼女を追及することもなく、皆の配膳を終えて食卓の席に着いた。又三郎も彼女に習い、食卓の一番隅の自席に着く。目の前にあるのは豆を煮たスープに、焼いたベーコンと炒り卵が少量ずつ、そして子供の握りこぶしぐらいの大きさのパンが二つ。


 ナタリーが両手を胸の前で組み、食事の前の神への祈りを始めた。子供達やティナもそれに習って、両手を組んで静かに目を瞑っている。


 又三郎は神に祈るという柄ではなかったが、いつものように両手を合わせて目を瞑った。この世界における作法とは異なるものだったが、神に仕える身のナタリーも、その辺りのことについては特段何も言わなかった。


 神への祈りの時間が終わり、ようやく皆が揃って朝食を食べ始めた。先程までは静かにしていた子供達も、食事が始まってしまえば、とても賑やかなものだった。


 平穏無事ないつもの朝を皆で迎えられることが、どれだけ幸せなことなのか……元新選組六番組隊士の大江おおえ又三郎またさぶろうは、心の内でしみじみとそう思った。

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