第6話 迷い子の涙
黒と奴隷馬車付近に行ったことは辛うじて覚えている。
黒が奴隷馬車に入っていくその後ろ姿も覚えている。
だがあとは何も思い出せなかった。
・・・
いつものように召集がかかり、偵察部隊としてコロル国境付近を警邏していると、不意に斥候と出くわし、反応が遅れて逃げられた。
初めてのことだった。
「スガヤ姉、追わないと、」
「あ、ああ、そうだな。フラーウムは急ぎ戻ってカーヌスの指示を仰いでくれ」
「了解」
フラーウムが後退し、スガヤは消えた斥候を追尾する。
しかし、結局斥候も、控えていたであろう敵小隊も発見できなかった。
本陣に戻り、団長のカーヌスに、カーヌスの声が枯れるほど怒鳴られたが、スガヤは心を取り戻すことができないままでいた。
「スガヤ、ちょっといい?」
帰る間際、副団長のエブルに捕まった。
カーヌスに怒鳴られた時などに助けられることはままあったが、こうしてサシで話をする機会が皆無だっただけに、スガヤは驚いた。
「今日のミスのことか?」
「まあ、それもあるけど、・・・これからのことかな」
エブルが顎で付いてこいと、人気のない小道の脇へと誘う。スガヤは素直にそれに従った。
「単刀直入に言うけど、あんた、これ以上団の規律乱すようなら、身の振り方を考えてもらわないといけないよ」
「は?」
スガヤは、思ってもいなかった話に少々面食らった。
幼少の頃より在籍するこの傭兵団にて、返り血を一身に浴びながら、先陣切って敵を駆逐してきた。
そんな自分の行いを、否定される日が来るとは思ってもみなかった。
「何を言ってるんだ。それはカーヌスも同じ意見なのか。」
弱り目に祟り目とはこのことかとスガヤはあからさまに憤った。黒い目が光る。
「カーヌスはこんなときでもあんたを庇うさ。自分が目をかけられてるっていう自覚、あるんだろ?」
「はあ?」
「これ以上、カーヌスの負担を増やすなと言っているんだ。報酬を減らしただけではわからないようだから、直接言ってやってるんだよ」
「報酬を減らした?報酬が減っていたのは、お前の差し金だったのか」
スガヤは唾棄せんばかりに呟いて、失意の溜め息が漏れた。
だがエブルは意に介することなく言った。
「今日のところは保留にしてやるが、次はないからな。」
エブルは顎を上げ、あからさまにスガヤを蔑視している。
スガヤは舌を打ち、「好きにすればいい」と踵を返した。
・・・
しばらく足を向けないと決めていた。
だが、弱った心が無意識に黒を求めた。
気がつけば、全力で街を走り抜けていた。拘束されている黒を見るのは辛かったが、どうしても一目でいい、黒に会いたいと心が切望した。
荒れた息を整える余裕もなかった。
持っていた荷物がドスンと落ちた。
「・・・なんで?」
あまりのことに目が眩む。
昨日まであったはずの奴隷馬車が、もうどこにも見当たらなかったのだ。
「あの、ここにあった奴隷馬車がどこに行ったか知らないか」
なりふり構わず、道行く人に聞いていた。だが誰も奴隷馬車の行き先を知らなかった。
「なにが、どうなってるんだ、」
走ってきたためなのか焦りによるものなのか、止まらない汗が背中を冷やす。
息が荒れて過呼吸気味になり、スガヤは辺りを見回し、人目を避けて街の片隅にしゃがみこんだ。
「どうして、どうして、」
恐怖に近い焦燥感に吐き気が収まらない。口に手を当て、スガヤはひどく落胆し、途方に暮れた。
「・・・黒、どこだ、黒、」
ふらふらと立ち上がり、スガヤは街をさ迷った。
すれ違う人がスガヤの姿に驚き、眉をひそめる。
止めどない涙が流れていた。
スガヤは絶望の縁で暗い空を見上げて、街の真ん中で子供のように泣いた。
・・・
夜半過ぎ。
黒塗りの馬車が、闇に乗じてルーベンとの国境付近、コンセンススの峠を越えていく。
暗いだけの荷台の中で、微かに漏れる外界の光は満月からのみもたらされていた。
その光をぼんやりと眺めながら、黒は諦めという言葉の意味ばかり考えていた。
もう思い出せないほどの長い長い月日は、黒にとって、ただ毎日過ぎ去るだけの無益な時間の積み重ねだった。
そんな日々に昨日、光が差した。
それはまばゆい程の尊い光で、自分の生きる糧となった。
スガヤの幸せのみを祈り生きよう。
この檻の中から、スガヤの姿を遠くに見つめながら生きよう。
そう思えた時、黒の毎日が少し色付いたように見えた。
だが、そんな希望はすぐさま打ち消された。
黒の買い手が決まったのだ。
移送される先はコロル領。
有翼人が唯一生息し、有翼人を「害獣」と忌み嫌う国。
「・・・」
黒はこっそり嘆息した。同時に脱力し、両手足の鉄の重みが身体にずしりとのし掛かる。
(・・・スガヤ、)
スガヤと共に過ごしたあの数時間が、自分に生きる希望を与えてくれた。
だがあの数時間を体験したがために、今の絶望は深くて辛い。
悪路に揺れる馬車の中で黒は、心の中を照らしていた灯火を消し去るように固く目を閉じた。
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