第5話 そして空は白み始める
夜半過ぎ。
徐に立ち上がると、スガヤは玄関の鍵を開けた。
そしてドアを開け放つ。
翼を広げて見せてほしい。
そう懇願するためだった。
そのスガヤの願いは、同時にそのまま飛び立って逃げてほしいとの言葉を含んでいた。
スガヤの思いがわかっていたからか、スガヤと共に出た家の外で、月明かりの下、黒は漆黒の翼を一気に開いてみせた。
それはさながら一服の絵画のようだった。
スガヤは息を飲み、無意識のうちに熱くなる胸を片手で押さえていた。
「黒、今にも飛べそうだな。」
震える声でスガヤは言う。スガヤの言葉に応えるように黒い瞳を細め、黒は大きく羽ばたいた。
だが、羽ばたいても羽ばたいても、風が巻き上がるのみで黒の身体は宙へは浮かない。
「・・・本当に、飛べないのか?」
「まあな。羽根が切られてしまえば、飛べないのは道理だ」
そして黒は羽根を畳んだ。
「もう一度、もう一度挑んでみよう。きっと飛べるぞ。」
泣きそうな顔ですがるスガヤを見て、黒は薄く微笑んだ。微笑むだけで何も言わず、黒はスガヤの肩をポンと叩いて家の中へと戻っていった。
「黒、今しかないんだぞ!飛ぶなら今しかない!夜が明ければ、お前はまた拘束されるんだぞ!」
どんなに言葉を紡ごうとも、黒は決して飛ぼうとしなかった。
・・・
もうすぐ夜が明ける。
テーブルを挟んで向かい合わせに座っていたが、スガヤも黒も、言葉少なにじわりじわりと白んでいく窓の外を眺めていた。
東の空から太陽が登ってしまえば、もうこの家を出なければならない。
「そういえば、」
静寂の中で、不意に黒が言う。
スガヤは黒を見た。
黒も真っ直ぐスガヤを見ていた。
そして黒は穏やかな笑みを浮かべてスガヤに語を紡いだ。
「お前の名前を、聞かせてくれないか。」
今さらかと、スガヤは笑う。
「スガヤだ。」
「スガヤか。そうか。」
黒は嬉しそうに二度三度頷き、
「俺の命が尽きるその瞬間まで、お前の名だけは覚えていよう。」
強い決意を込めた黒い瞳でスガヤを見つめた。
「・・・」
スガヤは驚き、そのまま身動ぎ一つ取れなくなった。
ただ一筋、暖かい涙だけが頬を伝って床に落ちた。
その涙の跡を黒は身を乗り出して掌でぐいっと拭い、
「こんなに素晴らしい夜なのだ。泣くなスガヤ」
愛おしそうに笑った。
・・・
薄汚いマントを羽織って翼を隠し、鉄でできた拘束帯を、黒が自ら装着していく。
まずガチャンと鉄の音を響かせ足首を固めた。
そして太い鎖のついた鉄の首輪を付ける。
「・・・」
その様を、スガヤは怒ったような顔でずっと見据えていた。
スガヤには一つ固めた決意が胸にあり、だが何度も口淀む。それでも意を決し、スガヤは静かに言った。
「黒、人間にならないか?」
それが何を意味するのか。
スガヤは強い意思を持って自身の服のボタンに手をかけた。
そのスガヤの手の上に、熱く大きな手が重なる。
「やめておこう。今の俺が人間に堕ちても、お前の糧にはなれない。寧ろ足手まといだ。この細くなった四肢では、お前を守り通す自信がない。」
「馬鹿にするな!私は私の身ぐらい自分で守れる!お前に助けてもらいながら生きることなど考えていない!」
悲鳴のような声だった。
意地になって服のボタンを外そうとするスガヤの手を、黒はギュっと握った。
「俺が耐えられないのだ。今さらこの羽根など惜しくはないが、俺の代わりにお前が奴隷として生きることも、追手に追われながら生きることも、させるわけにはいかない。それは耐えられない」
「今だって、私はまともに生きてはいない。お前が思うほど、私は綺麗な人間じゃない。」
スガヤは俯き、震えていた。握られている黒の手の上に自分の手を乗せ、胸にしっかり押し当てた。
「お前が欲しいんだ、黒」
「・・・」
黒はゆっくりスガヤを抱き寄せた。
愛おしそうにスガヤの背を擦る。
そして顔を上向かせ、唇を重ねた。
一度離れ、そして再び深く。
「スガヤ、お前は十分、綺麗だ」
黒は愛おしそうに微笑んで、スガヤの頬を撫でると、ゆっくり離れていった。
「黒、どうしても、駄目なのか、」
離れかけた黒の腕を掴む。
だが黒はその手を優しく剥がした。
「すまんな。俺は不甲斐ないな」
自嘲気味に黒は笑う。
「お前は不甲斐なくなどない。黒は優しいだけだ。優しすぎるだけだ。でもそんな優しさ、私はいらない。私はいらない!」
「スガヤ、生きてくれ。俺はそれだけが望みなのだ。希望なのだ。こんな人生で初めて見つけた希望なのだ。夢を、見させてくれないか」
「お前がいないなら、私にとっては夢でも希望でもない!お前となら、一緒に死んだって構わないんだ!こんな命なんて、捨てたって構わない!お前が欲しいんだよ!」
スガヤは駄々っ子のように泣きながら訴えた。黒は声をたてて笑いながら、スガヤから離れ、自身の腕に拘束帯をはめた。
「どうして、」
「愛しいものには幸せになってもらいたいと願うのが道理だ。それは譲らん」
「そんなのは嫌だと言ってる!」
スガヤは黒の胸に飛び込み、声をあげて泣いた。
黒は拘束された腕をスガヤの背でだらりと下ろし、もう抱き寄せることはしなかった。
「スガヤ、行こう。もう時間だ」
窓から差し込む光が白い。
黒はスガヤを引き離すと、太い鎖を引きずりながら、自ら外へと出ていった。
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