珈琲
七瀬はカフェと言っていたが、この大型書店の四階にあるのは平凡なコーヒーチェーンであって、カフェというキーワードで想像するような気取ったものではなかったりする。
まあ、どちらにせよお洒落な空間であることには変わりない。
俺なんかよりはるかにお洒落な服を着こなした男女がウロウロしており、香料の匂いがなかなかキツイ。
七瀬の趣味は知らないが、やはり俺はこんな場所に来るなんて御免だ。
コーヒーは家でゆっくり飲む派だから。
「さーて」
店内は混雑しているため、残る席はあまりない。
七瀬が窓側の席に座ったのに合わせて、俺はそこから一番距離が離れているトイレ近辺の席に座る。
他の席はほとんど埋まってしまっていたが、ここはわりと不人気なのでこんな時でも融通が利く。
それにここは開けた場所なので、七瀬が遠くにいてもよく見える。
それなら、できる限り距離は離れておいた方がお得だ。
コーヒーが入ったブランド感のあるカップと、昼飯代わりのサンドイッチ二切れをテーブルに置く。
一方の七瀬は、同じくコーヒーとなんとサンドイッチ一切れで注文を済ませていた。
俺にはおよそ理解できないが、女子というのはみんなこんなに燃費が良いのか、はたまた七瀬が輪をかけた努力家なのか……。
「――あれ、桜井」
本日二度目の思わぬ呼びかけに、思考が中断される。
「え、滝川か」
視線を上げると、そこには滝川がコーヒーとサンドイッチ四切れを持って立っていた。
まさか一日で二人も友達と遭遇するとは思わなかった。
他のみんなも休日によく遭遇しているのだろうか。
「桜井こんな店来るんだ? コーヒーとか絶対家でしか飲まないタイプだと思ってたわ」
「ははは」
その指摘は当たっているが、どうでもいいことなので肯定も否定もせず曖昧に笑って返す。
「ここ、いいか?」
「ああ、いいよ」
俺の隣を指差す滝川に、俺は頷いて見せた。
滝川が俺の隣に座る。
二つのコーヒーと六切れのサンドイッチは、テーブルの上から零れ落ちそうな質量感だ。
俺を見る滝川の楽しそうな表情に、俺の方まで楽しくなってくる。
「そういやさ」
「ん?」
「あそこにいるの、七瀬さんだよな。あの窓側の」
そう言って、滝川は七瀬を指さして見せる。
まあ、この流れは予想通り。
「そうだな」
「あれ、反応薄くね?」
「さっきたまたま会った」
俺と七瀬が知り合ったことは、村上が立会人となって表立った事実になっている。
だから、ここで知り合っていないと滝川に言っても、ボロが出るのは時間の問題だ。
「あれ、知り合いだっけ?」
「いや、さっき知り合った」
「なんだよそれ」
滝川が笑う。でも、それが事実なんだからしょうがない。
「たまたまぶつかってな。村上と話している時に」
「へー、そうなんだ」
村上の存在を巻き込んでしまえば、これでアリバイは完成。
何一つ嘘は言っていないんだから、これは疑いようのない真実だ。
「それで、桜井は村上と別れてから一人で七瀬さんを追いかけてきたってわけか?」
「ははは、そんなわけないだろ」
これは嘘。そんなわけある。
「隠すな隠すなー。俺は応援してるぜ」
「いや、俺がストーカーってことになるから勘弁して欲しいんだけど」
「あはは、冗談冗談。桜井はそんなことしないもんな」
「さすがにな」
これも嘘。本当はしている。
まあ、悪意はないからギリギリセーフということにして欲しいけれど。
「――あれ、こっち来たぞ」
「え?」
滝川に注意を向けている間に、いつの間にか七瀬が立ち上がっていたようだ。
まさに言葉通り、七瀬がこちらに近づいてきている。
「――――」
何か言いたいようで言えない気持ちを抱えながら、スマホに目をやる。
通知はなし。これは完全なアドリブ。
「おー」
「…………ふぅ」
こっちには目もくれず、七瀬は俺たちの前を通り過ぎ、トイレに入っていった。
なんだかよくわからないが、変に焦ってしまった。
そりゃあトイレぐらい行くだろ……自分の無神経さが恥ずかしくなってくる。
「桜井、充電やばくね?」
「あ、本当だ」
いつの間にか一つ目のサンドイッチを完食中の滝川の言葉を受けて、俺は脇に置いたリュックサックからモバイルバッテリーを取り出す。
今日は七瀬との連絡と念入りなアラームで、かなりバッテリーの消費が早い。
こうなってくると、七瀬の方も心配だな。
モバイルバッテリーを持っていそうな雰囲気はなかったけれど。
「滝川は今日何してた?」
「んー」
俺がモバイルバッテリーのケーブルをスマホに挿している横で、滝川はコーヒーを飲みながら曖昧に相槌を打つ。
視線を追えば、そこにはトイレから出てきた七瀬が元の席に戻ろうとしているところだった。
「なに。滝川、七瀬さんのこと好きなの?」
これは当然の疑問。
実際に好きなのかはわからないが、滝川なら七瀬のことを幸せにできるだろうと思うぐらいには、俺は滝川を信頼している。
「げほっげほ」
俺の言葉が図星だったのかはたまた不満だったのか、滝川はコーヒーを誤嚥して咳き込んでしまう。
「ごめん、大丈夫か?」
「――げほ、ああ、いや、大丈夫。突然変なことを言うから」
「変……かな」
滝川の背中をさすりながら、俺はその言葉について考えていた。
もしかしたら七瀬や瀬戸といった女子の恋バナ展開の速度に翻弄されるうちに、俺の感覚がおかしくなってしまったんだろうか。
「ないよ。ないない」
「本当に?」
「俺、もうちょっと友達みたいな子が良いから。そもそも七瀬さんはヒエラルキー高すぎて俺とはあり得ないわ」
「何言ってんだよ」
うろ覚えであろうカタカナ用語を駆使する滝川が面白くて、笑ってしまう。
それで言うなら、お前も十分ヒエラルキー高いだろと言いたいところだが、今はやめておこう。
「おお、動くぞ」
「え?」
動画の読み込みが完了した時みたいな言葉を発する滝川と俺の目の先で、確かに七瀬紗花という動画が動き始めていた。
食べかけのコーヒーとサンドイッチを持って、そのまま窓側を離れて別の席に座り込む。
結果的に、七瀬は俺たちにより近い席に座ることになり、本日のトピック「七瀬紗花」からは逃れられそうにない雰囲気が漂っている。
「いやー、好きでもないけどついつい見ちゃうよなー。あれがオーラってやつか」
「はいはい」
「つーかさ、桜井の方はどうなんだよ」
「なにが?」
ニヤニヤした滝川の顔に、なんだか嫌な予感がする。
「七瀬さんのこと、好きじゃないのか?」
「そんなの考えたこともないな」
まあ、このぐらいは慣れたもんだ。
誰が好きとか、そういった話を振られることには慣れている。
男子学生も恋バナからは逃げられないのだから。
「ほぉんとぉにぃ~?」
「うっざ」
さっき放った俺の言葉が、十倍の鬱陶しさで木霊してきた。
お前は滝と川だろ。
「じゃあさ、想像してみろよ」
「は?」
滝川は二つ目のサンドイッチと三つ目のサンドイッチを交互に食べながら、訳のわからないことを言ってきた。
「七瀬さんと付き合ったらどうなるか……とかさ。みんな考えてるぜ、学園のアイドルだから」
「…………」
無言で返し、考えたフリをする。
これはあくまでフリ。本当は、何も考えてなんかいない。
答えは最初から決まっているから。
「うーん、想像もつかないな」
「マジで?」
「俺にはまだそういうのはよくわからないみたいだ」
構文のように決まりきったテンプレートを、淀みなくスラスラと並べ立てていく。
さっきの村上との件といい、俺にはどうも役者の才能があるのかもしれない。
題目はお察しだけど。
「ま、俺も考えたことないんだけどな」
「おいおい、さっき言ってたのはなんだったんだよ」
「いや、だけどさ~七瀬さんだぜ? 遠すぎて想像もつかねーよ。みんなよく想像できるな」
「はっはっは」
滝川のこんがらがった会話がツボに入り、大笑いしていると目の端に七瀬が映った。
反射的にそちらに視界をズラすと、七瀬と目が合ったが――そのまま、七瀬はトイレに入ってしまった。
「桜井も、七瀬さんのこと気になってきたか?」
「あっ、いや……」
サンドイッチを食べるのに集中しているのかと思えば、意外と目ざとい奴だ。
こんな時、どうすれば返答するのが自然だろうか。
目で追っていたのに否定するのは、逆に不自然か。
「まあ、ちょっとはな」
「はっはっは。告白で玉砕しても骨は拾ってやるからな」
不本意にも今日一番のツボに入っている滝川の笑い声を割いて、七瀬がトイレを出てきた。
そして、そのまま下りエスカレーターの方に向かっていく。
そろそろ移動の時間か。
スマホの時刻を見れば、あっという間に十三時。
そろそろ昼飯は終わりの時間だ。
「あり得ねーよ」
俺が七瀬に告白するなんてあり得ない。
俺が七瀬に恋するのは、もっとあり得ない。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
「ういー」
滝川に断りをいれ、スマホをポケットに入れてから男子トイレに向かう。
別に用を足したかったわけじゃない。
ただ、ほんの少しでも一人になりたかっただけだ。
「…………ふぅ」
何となくのため息を吐きながら蛇口を捻り、手を洗う。
それをハンカチで拭いてから、スマホを取り出す。
『一階で待っててくれ。十分程時間を潰してから行く』
今日何度目かわからない七瀬への事務連絡。
さっきまでの滝川とのやり取りのせいで、「恋人同士みたいだ」という感想を頭が勝手に連想する。
それを振り払うように、もう一度手を洗う。
さっきよりも念入りに、備え付けのハンドソープを手首や指の隙間という隙間まで塗り付けていく。
少しでも綺麗になってくれるように。
「よし」
目の前の作業に集中することで、単純な脳はすっかり連想をやめてくれた。
これでリセット。また大丈夫だ。
顔をあげて、鏡を見る。
「…………ふふ」
鏡には、マネキンのように無表情な男の顔が写っていた。
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