本屋
この大型書店の三階は参考書コーナーになっている。
俺たちはまだ二年生になったばかりだが、逃げ回っていてもそろそろ進路を考えていかなければいけない時期ではある。
七瀬が何を思ってここに来ているかはわからないが、俺は受験を意識して何度も来たことがある。
とはいっても、進路が決まっているわけでもない。
ただ日々過ごす無色の時間を、自分の選択肢を広げるために活用しているだけのこと。
散々勉強したくせに、二年後には就職しているかもしれない。
まあ、それはそれ。必要な無駄というやつだ。
「――おっ、と」
エスカレーターを降りる瞬間につま先が引っかかってしまい、少しだけ焦ったが、難なく着地できたようだ。
周囲を眺め、七瀬を探す。
「………………」
無言の空間を、ハイテンポな俺の靴音がかき乱してしまっていた。
周囲には迷惑かもしれないが、急いで通り抜けるためには仕方ない。
七瀬は、国語の参考書のコーナーにいた。
そこまでは良かったが、そのコーナーはエスカレーターの地点から見て手前側にある。
さすがにエスカレーターの前に立ちっぱなしというのは、他の人達の邪魔になるわけで。
そうなると必然的に、七瀬から距離を取って自然な位置に収まるためには七瀬の背後を通り過ぎるしかない。
「いや……ミスったなこれは」
国語の次にある英語のコーナーまで来たところで、俺はようやく自分の失策に気づいた。
よくよく考えれば、別に七瀬の背後を通り抜けなくても、回り道をして裏側からここまで来ても良かったわけだ。
むしろ、その方が合理的だ。ここぞという時に限って自分の頭が悪くて嫌になる。
採点後の答案用紙でニアミスを見つけた時のような嫌な気持ちのまま、横目で七瀬の様子を伺う。
「うーん…………」
七瀬は棚を見て唸りながら、こちらに向かって少しずつ歩いてきていた。
自分に合った参考書がなかなか見つからないのかもしれない。
まだ時間はあるんだから好きなだけ悩めばいい。
そう思いながら、七瀬とは反対方向に身を動かす。
英語のコーナーの奥は、社会のコーナー。
歴史と政治、経済の参考書が並んでいる。
「――あれ、桜井じゃないか」
急にかけられた声にびっくりして振り向くと、そこには村上がいた。
服装は俺と同じくTシャツにジーンズでミニマリズムを丸出しにしているが、俺とは違って長身なのもあって雑誌のモデルみたいに理不尽なカッコよさを備えている。
スタイルの良い奴は、何を着ても似合うというやつだ。
「え、村上か? びっくりした」
学園なら嬉しい遭遇だが、今日のように他人に見つかる心の準備ができていない状態では、喜びはすぐ消えて気まずさにすり替わる。
特に今はマズイ。村上は俺の目の前で静止、七瀬は俺の後方でこちらに向かって移動中。
あとは、小学生でも学ぶような計算結果が待っている。
「こんなところで会うなんてなぁ。でも……桜井って社会得意じゃなかったか?」
棚を眺める村上の姿を見つつ、俺は一安心する。
というか、そもそも俺が考えすぎなだけで、別に問題はないような気がしてきたぐらいだ。
よく覚えていないが「嘘だと疑うのは嘘を吐いてる人」とか、なんかそういった類のものからくる妙な焦燥感であって、前に七瀬が言っていた通り大したことではないだろう。
大丈夫。変な動揺は消えた。
「うーん、どうだろう。毎回テストのたびに必死に勉強してるだけだからなぁ」
「何言ってるんだ。テスト以外でも勉強してなかったらあんな点数とれないって」
「俺より成績の良い村上に言われても皮肉しか聞こえないけどな」
たまらず二人で笑いだす。
場所が変わったところで、男子学生の会話のレベルはちっとも上がってはくれない。
しかし、このまま自然に会話が終わってしまうのは困る。
後ろの様子は伺えないが、七瀬が無事に通り過ぎるまで時間を稼ぎたい。
会話の取っかかりがない時は、とりあえず相手に質問をすると意外と話が発展したりする、というのが俺の経験則だ。
「村上は、今日は何を目当てに来たんだ?」
「うーん、特にこれっていうのは……僕は出かける時に必ず書店に寄って、偶然の良い本に出会えないかなっていうのをやっているだけだから」
要約すると、村上も実質的には七瀬と同じでウィンドウショッピングをしにきたということになる。
これは思いつく中では最悪に近いことで、村上が俺の後ろを通ろうとしたら最後、有名人の七瀬に気づくことは必然だ。
下手をすればその流れに俺も巻き込まれ、三人の間に微妙な空気が流れることになるかもしれない。
何より、七瀬の時間が無駄に拘束されてしまう。
「あー、あのさ」
だから、俺は村上に提案をする。
頭の中では、ここから村上と一緒に別の列にある理科の参考書のコーナーに行く予想映像が再生されている。
七瀬の時間を稼ぐために、村上の時間を奪うという、最低なことをしようとしているのを心の中で謝りながら。
「どうした?」
「理科の参考書なんだけどさ――――うっ」
「あっ」
選ぶの手伝ってくれないか、と言おうとしたところで、口の中の言葉は意味を失ってただの息として吐きだされた。
背中には衝撃を感じ、自動的に身体が倒れそうになる。
しかし、先天的に備わった生物的な本能が、俺の足を勝手に動かしてバランスを取ってくれる。
身の安全さえ確保できれば、あとは先天的に備わった人間的な知能が、好奇心を生み出して俺の頭を後ろに振り向かせる。
「――――え」
そこには七瀬がいた。
ただ、相手が誰であるかを認識するよりも先に、俺の身体は動いていた。
手が勝手に伸びていく。
今しがた自分にぶつかって倒れそうになってるその人に。
「よし」
遠ざかる七瀬の手を握りしめる。後は簡単なこと。
俺が杭となって代わりに倒れればいい。
「い…………ってぇ」
結局のところは俺も長年道徳教育を受けてきたわけで、与えられた倫理感には打ち勝てなかったということだ。
自分が代わりに痛い思いをしたことで、別に世界は何も変わったりはしない。
痛みの総和は常に一であり、下手に相手を助けようとして失敗すれば二になる。
ただ、少なくとも気分はすっきりする。
あのとき手を伸ばしていれば、という罪悪感を抱え込まずに済むから。
「ご、ごめん! ごめんなさい!」
上から降ってくる謝罪の感情を浴びながら、そのあまりの勢いに苦笑いしてしまう。
そんなに謝られると、なんだか自分の足が骨折しているんじゃないかと心配になってきた。
「桜井! 大丈夫か!?」
「ああ、うん。大丈夫」
心配の言葉と共に差し出された村上の手を借り、重たくなった尻を上げる。
ついでに足を浮かせたりブラブラさせてみるが、特に骨折はしていないようで安堵した。
「本当に申し訳ありません!」
「あー、大丈夫ですよ。気にしないでください」
七瀬は一流ホテルマンも顔負けの角度で頭を下げるも、彼女の長い栗色の髪はそれに連動して俺の顔に向かってくるものだから、立ち上がりで半歩後ろに下がる恰好になる。
こんな状況で何だが、ここにきてようやく七瀬がいつものストレートロングではなく、後頭部に少しだけ編み込みを入れていることに気づいた。器用な奴だ。
それにしてもたいしたことじゃないんだから、何も髪の毛が地面に着きそうなぐらい頭を下げなくたっていいだろうに。
「七瀬さんも、大丈夫だった?」
この硬直した状況に対して、気の利く村上が見かねて七瀬にフォローを入れてくれる。
今は当事者の俺が何を言っても変な感じになるので、これは正直助かる。
「私は……さ……そこの方に助けて頂いたので」
「桜井。ほら、七瀬さん。このあいだ会ったよな?」
「このあいだ……?」
「ほら、連絡先交換した時に教室の外にいた――」
「――あー、あの人か」
村上がいる手前、自分でも驚くほど器用にとぼけることができた。
俺と七瀬はお互いに面識がないという舞台設定は、案外とそんなに複雑なものでもない。
この程度なら、簡単に演技できる。
「はじめまして……になるのか? 桜井です」
「あ、え、あっ……七瀬です」
「よろしくお願いします」
一度スイッチが入れば、心にもない言葉がスラスラ出てくるもんだ。
自分でもびっくりする。
「よろしく……その、さっきのことなんですけど」
「ああ、あれなら何ともないから」
「いや、でも後で怪我してるってわかるかもしれないので……もし何かあったら言ってください」
七瀬のこの言葉は本心であるに違いない。
おまけに七瀬の実家は裕福な方だから、実際に何かあれば親御さんが本当に何とかしてくれるだろう。
まあ、よっぽどのことじゃなければ頼るつもりもないけれど。
そんな心とは裏腹に、今の俺は形だけの綺麗事を言わなければいけない。
「同じ学園なんだし、もし本当に何かあったら声かけるよ」
嘘。同じ学園でも、絶対に声をかけたりなんてしない。
「この度は本当に――」
「あー、やめてくれよ。あんまり謝られると困る」
七瀬のネガティブ感情の熱量があまりに強すぎて、俺の消火活動ではどうにもならない。
「――じゃあ、僕は帰るから。二人ともそのぐらいにしたら?」
見かねた村上が、もう一度この雰囲気に助け船を出してくれる。
正直にありがとうと口に出したいところだが、そんなことをすればせっかくの助け舟が台無しだ。
「そうだな。俺も移動しなきゃだし、七瀬さんももう気にしないで」
「あっ、はい……さよなら……」
いまだに沈んだままの七瀬の顔から目を逸らして、社会の参考書コーナーの向こう側にあるフリースペースに出る。
村上は俺と逆方向で、七瀬の横を通り過ぎていった。
このぶんなら大丈夫そうだな。
俺はスマホを取り出す。
『一周してくるから、エスカレーター前で』
今すぐに戻るとあまりに不自然すぎるので、俺は少しだけ時間を潰さなければいけない。
それにあたり、七瀬に最低限の連絡を入れておいた。
「どうすっかなー」
時間を潰すといっても、特に目当てのものがあるわけでもない。
念のため棚を見ても、何も引っかからないまま無数の背表紙が過ぎ去っていく。
「――おっ、懐かしいなぁ」
いや、一つだけ目につくものはあった。
中学生向けの参考書のコーナーには、俺が愛用していた参考書が未だに現役で置いてある。
しかも、なんと改訂版になってあの頃よりパワーアップしているではないか。
「はっはっは」
一瞬湧いた興味も薄れ、再び無数の文字列の脇を通り過ぎながらも、頭ではいまだにあの本のことを考えている。
まだ友達だった頃に七瀬の勉強をみたこともあるが、あの時にこの参考書を見せても七瀬は最初さっぱり内容がわかっていなかった。
間違いなく良著ではあるが、かといって万人に合う本というわけでもない。
改訂版になったことで少しは懐が広がっていると、愛用者だった者としては何となく嬉しい。
まあ、改訂版じゃなくても七瀬はすぐに内容に追いついて見事に成績を上げていたけれど。
昔から、努力できる奴なんだ。
だから、彼女の今がある。
「――――さて」
振り出し。エスカレーター前まで戻る。
壁に背を合わせて虚空を見つめている七瀬に連絡をしないといけない。
『戻った』
沈んだ雰囲気を漂わせたまま、七瀬がスマホを取り出す。
輪をかけて俯きがちに画面をタップ。
『上のカフェに行きたいと思います』
『わかった』
敬語に戻った七瀬に距離を感じながら返答し、エスカレーターに乗る。
そして、俺はスマホをしまう。決まりきったルーチンワーク。
そのまま上がって一段、二段。
また、七瀬との見かけの距離だけ縮む。
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