かませ犬は牙を剥く
今日、俺は負けるためにリングに上がる。
なにも八百長試合をやろうってわけじゃない。
単純な話だ、相手が俺より強いのだ。
それもおそろしく。
勝負の世界に絶対はない。
だがこの若き怪物、井下と戦えば100回やって100回負ける。
1000回戦っても1000回負ける。
10000回やれば……止めよう。
どうやったって勝ち目はないんだ。
俺のパンチは絶対に当たらない。仮に当たっても天才的にディフェンスが上手い井下は有効打を浴びたりはしない。
生涯で一度も顔に傷を作った事がないなんて冗談みたいな伝説を持ってやがるんだ。
まったく参っちまうよな。
今日俺は初めて息子を試合会場に呼んだ。
きっとこれから無様に負ける父の姿を目にするだろう。
嫁のはらはらした心配そうな顔と、息子の能天気そうに鼻水を垂らしている顔が思い浮かぶ。
息子には酷な場面を見せてしまうだろう。
不甲斐ない父親で本当に申し訳ない。
◇◇◇
俺が井下の対戦相手に選ばれたのは、過去に日本チャンプに輝いた実績があるからだ。
もっともすぐに王座陥落して、以降は一試合数十万円のファイトマネーに縋る貧乏生活。
普段はアルバイトをしながらプロボクサーとしての現役生活を続けてきた。
結婚して子供も生まれ、気づけば30を過ぎていた。
ここらが潮時かもしれない。
引退して、きちんとした定職につこうと考えていた矢先、降って湧いた最後の晴れ舞台。
それが将来のスーパースター候補井下との試合だった。
◇◇◇
会場は千葉ウルトラアリーナ。収容人数は一万五千人。
これまでキャパ千人程度の小さな市民体育館などでしか試合をしたことがない俺は、緊張でちびりそうだった。
だが、こんな大きなリングで試合出来る機会は今までだって無かったし、これからだってあり得ないだろう。
俺はここで死花を咲かせるつもりだ。
会場は超満員。
メディアで散々喧伝され、それに見合う実績を伴ってきた井下だ。
ここに集まった客はすべて井下のKO劇見たさに集まったものだ。
俺のファンなんてよくて二桁くらいだろう。
リングアナウンサーが俺の名前をコールする。
パラパラとした拍手が聞こえる。
俺は花道を小走りで駆け抜けた。
ゆっくり練り歩く度胸なんかない。
誰も俺のことなんか見に来てはいないんだ。
さっさとリングに上がるのが俺の役割だ。
ふと、リングサイドを見る。
妻の由紀が目に涙を溜めて、両手を組んで祈っていた。
そんな泣きそうな顔をするな。
まだ試合が始まっていないんだぞ。
負けるのは決まっているが、なにも死にに行くわけじゃない。
5歳の息子、猛は退屈そうな表情で鼻をほじっていた。
俺のことをみとめると、パパ~と手を振った。
アホな息子だ。
嫁から説明を受けてもこれから行われることを何一つ理解していないだろう。
だが俺にとっては目に入れても痛くないほど可愛い存在だ。
息子よ。よおく見ておけよ。
これがパパの一世一代の晴れ舞台だ。
これから、俺は負けるためにリングに上がる。
井下はこれまでの試合すべて1ラウンドでKOしてきた。
ならばせめてその記録を打ち止めにしてやる。
最後にひとつ見せてやろうじゃないか。
かませ犬が牙を剥く瞬間をな――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます