第54話 駿河平定と対北条軍

「大殿が小田原に派遣した武井夕庵殿により、無事に北条家との講和が結ばれました」


「この辺が潮時かな?」


「大殿の命に逆らうわけにもいきませぬからな」


「まあ、現状維持なら十分に勝ちだな」





 元亀三年の春、光輝は改築中の駿府城にて本多正信からの報告を聞いていた。

 浜松城における信玄との決戦に勝利したあとから始まる、予想外の混乱がようやく収まったからだ。


 光輝は、信玄を討つべく追撃を開始した。

 だが補給路などを考えると東遠江と駿河の平定も必要であり、清興に一部隊を預けて追撃をさせる事となる。


 新地家の誰もが信玄は駿府に逃げ込んだと思っていたが、実際には二俣城から大井川を遡っての山越えで甲斐へと逃げ込んだ。

 光輝も清興もこの動きに気がつけず、二俣城 、掛川城 、横須賀城、高天神城、諏訪原城と順番に落としながら武田軍の留守部隊を殲滅、遠江国人衆に織田家への従属を誓わせてから駿河へと向かうと、先に駿府城を落とした清興から信玄がいないと報告を受けた。


 それではと江尻城を落とし、甲斐に属していたが身延山南部も平定、駿河東部の興国寺城まで行くと、そこでは北条軍が武田軍の城代が守る興国寺城を攻撃していた。


 駿河侵攻で同盟関係がなくなった武田家に対し、関東の雄北条家が東駿河を奪うべく攻撃を開始したのだ。


「正信、この場合、北条軍に退けと言うと退いてくれるかな?」


「まさか、そんなに甘くないでしょう」


「だよなぁ……念のために聞いてみただけ」


 織田家と北条家の間には、同盟関係どころか交渉ルートすら碌に存在しない。

 相手がどう思っているのかは知らないが、光輝とて必死に武田軍を殲滅して駿河を取ろうとしているのだ。

 北条家に横取りされるわけにもいかず、それでも全面対立は不味かろうと、先に使者を送ってこちらの意志を伝えた。


「駿河はうちで、相模と伊豆は従来どおり北条家という条件で」


「向こうも手間と費用をかけて大軍を出している以上、手ぶらというわけにもいきません。受け入れないでしょうな」


「それでも、一応交渉したという事実は残したいんだよな。だが、使者が危険か?」


「いきなり使者を斬るような真似はしないと思いますが……北条家は、それなりに世間の風聞を気にする方ですし……」


「うーーーん、それなりねぇ……」


「殿、私が使者として北条軍本陣へと赴きましょう」


 ここで手を挙げたのは、新地家では地味な存在である岸教明であった。

 特別優れた人物ではないのだが、人があまりやりたがらないような仕事でも嫌がらずに引き受ける、縁の下の力持ち的な人物なので光輝は優遇している。


 本人も自分の能力が理解できているので、今の待遇に満足していた。

 あまり我を張るような人物でもなく、人付き合いも上手いので他の新地家重臣達とも仲がいい。


「しかし、危険ではないか? 教明殿」


 大丈夫だとは言ったが、同じ三河組である教明が使者役に志願してしまったので、正信は少し心配になってしまった。


「新地家の知恵袋である正信殿が大丈夫だと思っているのだから、大丈夫でしょう。私に万が一の事があっても、孫六がいるから岸家は安泰ですし」


 孫六とは教明の嫡男で、光輝の嫡男太郎とは一番仲がいい親友同士の関係にあった。

 まだ子供だが才能の片鱗も見せており、光輝と今日子は孫六が太郎の有力な側近になると思っているほどだ。

 それを知っているから、教明はもしここで自分が北条軍に殺されても大丈夫だと断言したのだ。


「あまり挑発をしないで、淡々と条件を伝えてきてくれ」


「殿、私にそんな才能はありませんよ。普通に使者として赴くだけです」


 教明は北条軍本陣に使者として赴いたが、すぐに提案を突っぱねられたと戻ってきた。


「殿、すみません。失敗しました」


「こちらこそ、無駄な交渉を押しつけて悪かったな。交渉をしたという事実が必要だったんだ」


「なるほど、それは大切ですな」 


 北条軍は使者を殺すような真似はしなかったが、新地家からの提案に激怒し、『弓矢にかけてその意思を押し通すべし!』と返答。

 話し合いによる解決は失敗し、北条軍との戦闘になった。


「大将の氏邦は激高しやすいのかな?」


「若いので、血気に逸る事があるのかもしれませんな」

 

 北条軍は、北条氏邦を大将に松田康郷、大道寺政繁、大藤秀信、清水康英、垪和氏続なども兵を率いていて合計一万八千人、相対する新地軍は一万五千人ほど。

 新地軍の情報がほとんどない北条軍は、交渉の間に準備を整えていた新地軍によって散々に討ち破られ、総大将の北条氏邦、大藤秀信、清水康英、垪和氏続が討ち死に、大道寺政繁が残存兵を率いて相模に逃走する羽目になった。


「一体何なのだ! あの新地家の連中は!」


 新地軍の異常な強さに驚きながら、大道寺政繁は決死の覚悟で敗残兵を率いて相模へと撤退する。


 そんな北条軍に執拗な追撃を加えて大きな戦果をあげたが、問題は北条家と交戦状態になってしまった件だ。

 光輝はついでのように興国寺城を落として駿河を平定したが、これは北条軍との決戦の間に、数少ない武田軍守備隊が城を捨てて逃げ出してしまったからでもあった。


 だが、彼らの最期は悲惨であった。

 武田家の凋落に気がついた地元の百姓達による落ち武者狩りによって、その大半が討たれてしまっている。


「信玄は出てくるかな?」


「そこまで余裕はないと思いますが……」


 北条家となし崩し的に戦になってしまったが、この件に対してなぜか賛同というか応援の手紙を送ってきた者がいた。

 それは、あの将軍義昭である。


『北条家は古河公方を傀儡とし、足利将軍家を蔑ろにする逆賊である!』


 義昭からの手紙にはこう書かれていて、なぜかこのまま攻撃を続行する事となった。

 ただ、攻勢の終わりが見えないのは困ってしまうので、信長に北条家との交渉を頼む事も忘れない。


「伊豆を落とすか……」


「その辺が落とし所でしょうな」


 小田原を攻めると総力戦になりそうなので、伊豆衆の有力者であった清水康英が討ち死にして混乱が続く伊豆へと攻め寄せる。

 伊豆南端の下田城まで一気に占領し、伊豆水軍の梶原景宗は新地水軍に降伏した。


 彼は紀伊国の出身で、紀伊が新地家の領地になっているのですんなりと恭順している。

 

 伊豆まで押さえた新地軍は、それからは北条家と武田家を牽制しながら遠江、駿河、伊豆の統治を行って講和を待った。


 最初、北条家は伊豆と東駿河の奪還を狙ったが、北条軍惨敗の影響により関東で反北条家の旗を掲げる国人衆の動きが活発となった。

 偉大な父氏康を失ったばかりの北条家四代目当主氏政は、仕方なしに織田家との講和を結ぶ事となる。


「駿河、伊豆の全土は織田側へ。その区分で停戦か……」


 北条家は挟み撃ちを恐れ、織田家優位の講和を結ぶ羽目になった。

 だが、逆襲を諦めたわけではなく、停戦期間については一言も触れていない。


「上杉輝虎との戦いもありますし、この方面だけでも停戦できれば御の字なのでしょう」


 こうして講和が結ばれたのだが、それと合わせて信長から光輝に褒美が与えられた。


「遠江、駿河、伊豆、を与える。その代わりに、紀伊と尾張海西郡の没収か……」


 領地は増えたが、今まで手間をかけて埋め立てを行い、町や新地城を建てた新地家の本拠地が織田家の直轄地となってしまう。

 苦労して平定した紀伊も同様であった。


「まあ、仕方がないか。また頑張って開発しないと」


 石高は増やすが、生来の領地から移封を行う。

 信長はこの手法をよく使う。

 こうやって織田家の力を増すと同時に、主君と家臣との間に差がある事を理解させるのだ。

 新領地の統治を見て、その家臣が戦以外でも使えるかどうか見ている節もある。


 光輝としても、ここで逆らって信長と揉めても碌な事がないと理解して受け入れた。


「今回は、物凄い量の褒美だな」


「ええ、目も眩まんばかりの砂金の山ですか」


 新領地開発の足しにしてくれという事であろう。

 太刀、書画の他に、大量の銀と砂金も褒美として与えられた。

 信長なりに、光輝に気を使っているというわけだ。

 

「移転には時間がかかると思うので、その期間は考慮するか……」


 新地には色々とあるので、それらを移転する時間はくれるそうだ。

 石高でいえば、没収された紀伊と尾張の一部の倍は貰っている。

 

 海沿いで良港も多いし、開発すれば十分に収入が上がるはずだ。

 

「というわけだから」


「了解。兄貴、本拠は駿府に移そうよ」


「そうだな」


 船で新地に引き籠る清輝に会いに行くと、彼は本拠地の駿府移転を提案した。


「大殿は、伊勢湾の海運を全部握りたいんだろうね。伊勢の没収もあるよ、これ」


 もし光輝が関東を取れば、伊勢を織田家に返還してという事態もあるかもしれない。

 そこで、新地の機能をとりあえず駿府に移す事を清輝は提案する。


「清輝に任せるよ」


「任されたよ。移せる物は全部移してしまおう。僕は今度は駿府で引き籠るんだ」


「たまには外に出ろよ……」


「気が向いたらね」


「そんな時が来るのか疑問だな……」


 こうして、本拠地の移転と拝領した新領地の開発が始まった。

 織田家は石山との交戦を続けていて、光秀も丹波の赤井直正と死闘を演じている。

 浅井長政は丹後の一色義道を降し、但馬の山名祐豊も同じく織田家に降った。


 畿内は比較的安定しているが、一向宗による定期的な蜂起でその鎮圧に翻弄されてもいる。

 加賀も同じで、越前から加賀に侵入した柴田勝家は一向一揆の討伐を続けていた。


「駿府も風光明媚でいいね」


「温かいですね」


「武田軍によって荒らされたと聞いていましたが……」


 今日子、お市、葉子も、子供達を連れて移転してきた。

 新地の設備や建物を移転中の新駿府城を生活の拠点とし、これでようやく再び家族で暮らせるようになった。


 新しい家臣の登用、兵員の補充なども忙しいが、光輝は同時に甲斐侵攻作戦も立てている。

 南信濃にいる秀吉と一益も呼応して、両者は北信濃に攻め入る予定になっていた。


 信長も、早く脅威である武田信玄を滅ぼしてほしいと思っているのであろう。

 作戦の許可を出していた。


「また戦なの?」


「信玄を放置ってどうよ?」


「嫌、物凄く危険」


「だからだよ」

 

 今日子も、武田信玄の存在は性質が悪いと思っているようだ。

 戦ばかりに出かける光輝に文句を言うのを止め、作戦に賛成する。


「甲斐を落とせば、暫くは静かな生活になるって」


 今日子にそう言いながら、光輝は甲斐侵攻の準備を進めるのであった。

 勿論、そんなわけはないのであるが。

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