第31回 手も足も出ないとはこのことか

 加賀友禅を題材にした小説を書くためには、実際の友禅絵師にインタビューをするしかない。そのため、金沢にいる友人へと電話をかけた。定宿にしている旅館の、自分と年の近い若旦那だ。以前、必要であれば知り合いの友禅絵師を紹介できるかもしれない、と言っていたのを憶えていた。


 しかし、話はそう簡単には進まなかった。


 紹介は出来るが、今は時期が悪い、とのことだった。季節的に春先から夏のお盆あたりまでは、特に友禅絵師は仕事で忙しくしているから、頼みづらいというのだ。


 それならば仕方がない、と思った。

 原稿の締切は、一旦八月末となっていた。とりあえずは書籍等から得られる情報をベースに物語を書いていき、ディテールについては盆休み明けに取材をして整えるようにしよう、とスケジュールを立てた。


 あとはひたすら書くのみ――ところが、その他のことであまりにも多忙を極めていて、落ち着いて執筆できるような環境ではなくなっていた。


 まず会社の仕事のことがあった。朝九時から夕方五時過ぎまで出社しているため、その間は執筆作業をすることは出来ない。

 そして家に帰れば、今度は拳法関係の雑事が待っている。代表者ともなると、様々な書類作業をこなさなければならない。特にこの年は、自分の道場の中学生がスポーツ推薦のために大会に出る、ということがあったのだが、その大会は今まで参加したことが無かったため、出場するための手続きをどのようにすればいいのか、一から調べる必要があった。その他にも、東京都全体の道場を管理する業務もしていたので、夏に行われる東京都大会の出場者受付対応や出場者データベースの作成等、仕事の後も休む暇もなかった。


 休日はといえば、土日も拳法の予定で潰れることが多かった。

 それでも一ヶ月の内数日は空いている日があったのだが、この2018年は、その空いている日も必然的に埋めざるを得なかった。

 彼女が出来たからだ。

 忙しい隙間を縫って、デートの時間を設けていた。もちろん、楽しい時間ではあるし、いい気分転換になっていた。唯一のいいことだったと言えると思う。


 だけど、執筆にかける時間は、ほぼ皆無に等しいような状況だった。


 ストレスがどんどん溜まっていっていた。やりたいことがやれない。自分は文章を書いて、生きていきたいのに、それが許されない。


 何よりも、会社の仕事でも、拳法の道場でも、自分が必要とされている実感が湧かないままに、周りからあれをやれ、これをやれ、と要求されている感じであるのが、より精神的に負荷をかけていた。


 会社の仕事では、周りからの当たりが強かった。もう三十六歳にもなろうというのに、今さら新入社員に対するような扱いを受けていて、プライドはすっかりズタズタにされていた。2017年から所属し始めた新しい部署なので、不慣れなのは仕方がないのだが、同じ部署の上司や先輩社員達からキツい言葉を浴びせられ続けているうちに、まるで自分が無能であるかのような錯覚に陥っていた。


 拳法の道場では、一応は代表者の一人であったのだが、まるでリーダーシップを発揮できずにいた。その道場では、自分は群を抜いて古参メンバーの一人であるが、そんな自分の言葉は、他の幹部達にはちっとも伝わっていなかった。

 ある時、道場の中学生が大会に出る、というのに当たって、リーダーとして方針を定めてほしい、と求められた。ならば、とばかりに、自分の考えを述べた。それは、ただキツいだけの指導はしたくない、というものだった。「楽するのはよくないが、楽しいのは正しい」という信念を持っている自分は、「どんな形であれ、何よりも彼には楽しんで大会に臨んでもらいたい。その楽しいという前向きな気持ちが最高のパフォーマンスに繋がると思う」と述べた。

 ところが、反発が生じた。「それは違う」とまで言われた。辛く厳しい指導をしてこそ到達できる領域がある、と他の者達から言われた。

 ショックだった。方針を定めてほしい、自分達はそれに従う、という姿勢を見せてきたのは、あなた達ではないか、と裏切られた思いだった。だったら最初から方針なんて聞かないでほしかった。

 対話、をする余地は無かった。なぜなら、私の言っていることが間違いだ、と言わんばかりの周りの態度だったからである。その瞬間、私の心は凍りついた。いいだろう、誰も頼らない。どうせ直接指導に当たるのは自分だ。みんなは何やかんやと意見を言うけど、彼のために一番時間を割くことになるのは自分なのだ。一人で全部やってやろうじゃないか、と開き直った。

 そういったことは過去にも何回かあった。リーダーとしての意見を求められる。意見を述べれば、必ず反発がある。自分の考えは間違っていると言われる。だから心を閉ざして何も言わなくなる。そうしていると、ある日、文句を言われる。「リーダーとして方針を示してほしい」と……悪循環だった。

 これは、私にリーダーとしての資質が無かったのか、周りにリーダーを補佐する能力が無かったのか……何が悪かったのか、いまだに自分でもわからない。外野から見ている何人かの人達は、「逢巳さんに対する扱いが酷すぎる」と同情を示してくれていた。せめて、そういう観点を持つ人が、一人でも幹部の中にいてくれれば、私の心的負担も少なかったのかもしれない。


 そうやって、何もできないまま、七月を迎えた。原稿はほとんど進んでいない状況だった。手も足も出ないとはこのことか、と思った。


 会社の仕事は相変わらずズタボロだったし、拳法のほうはくだんの中学生がギリギリ八月に行われる全国大会への切符を手にしたので指導の日々はまだまだ続くこととなった。


 友禅絵師のインタビューをする余裕など皆無であり、このまま時間切れになってしまうのか――と思っていた矢先、ひょんなことから、チャンスを得ることが出来た。


 それは、毎年行っている、金沢の友人達とのバーベキューの場でのことだった。

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