第2回 「文才」について

小説家としての才能、いわゆる「文才」は、世間一般では優れた文章を書く力のことを指すと思われている。しかし、私はそうではないんじゃないかと思っている。


何をもって優れた文章とするかは読んだ人それぞれの感性で異なってくる。


かの文豪泉鏡花先生の小説にしても、「美しい日本語」と評する人もいれば、「ダラダラと長ったらしくて読みにくい」と酷評する人もいる。もちろん文章として最低限守るべき体裁はあるけれども、一定の水準以上であれば、評価がその人の感性によって変わってくる以上、文章に優劣なんて存在しないはずだ。


そもそも「才能」とは何か?


それは「継続してチャレンジできる能力」のことだと私は考えている。「継続してチャレンジする」こと自体は、よく「努力」と呼ばれるけれども、その「努力」は気合いだけでは長続きしない。自分には何が足りていないのか、どのように取り組めば効率よく進められるのか、目指すべき目標は何か。そういった、現状認識や計画立案、ゴールの設定をスムーズにこなした上で、継続して取り組む力を持っていることこそが「才能」だと思う。


となれば「文才」とは何なのだろうか。


それは、「書き続ける力」のことではないだろうか。


どんな逆境も、批判の嵐も耐えしのぎ、たとえ読み手がたった1人だけでもめげることなく続きを書き、責任をもって作品を仕上げていく。それこそが「文才」なのだと、私は考えている。


小説を書き続けている人は、誰でも小説家としての「文才」があり、たとえアマチュアでもその気があれば「小説家」を名乗ってもいいものだと、私は思う。


しかし書いてない人は小説家でも何でもない。ただの人だ。


こうして振り返ってみると、昨年の秋から10ヶ月近く、私は全然小説を書いていなかった。ただの人、へと戻ってしまっていた。


だからいま再び書いている。今ではもう、私に注目し、応援してくれている人は数えるほどしかいない。それでも書き続けることで、自分にも「文才」があることを証明するしかない。


また胸を張って「小説家」と名乗れるようになるためにも。




逢巳

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