第50話 取り戻した心、名前を呼ぶ君


 ドォーンと空に季節外れの花火が舞い散る。私はそれを日色君と肩を並べて見上げていた。

 まさか冬に花火を見るとは思わなんだ。


 ベランダから眺める花火はきれいだった。

 隣に彼がいるから、フィルターがかかっているのかもしれないが…さっきから私はドキドキしていて、花火の音がなければ心音が彼に聞こえてしまうんじゃないかってくらい心臓の音がうるさかった。

 花火が始まる前まではおしゃべりしていたんだけど、花火が始まってからは会話もなく、ただ花火を見上げていた。


「……なんだか最近、大切なことを忘れているような気がするんだ」


 日色君のボソリとした呟きが耳に入ってきた。私が隣を見上げると、彼は花火に視線を向けたまま、遠い目をしていた。

 確かに最近の日色君は物忘れがひどすぎて『一度認知症外来に行ったほうがいいんじゃないか』と戌井に心配されるくらいである。流石に認知症は早すぎるだろうと思ったけど、それほど彼の記憶は所々欠けているみたいなのだ。


「思い出せそうで思い出せないんだ。思い出しかけると、途端にもやがかかって忘れてしまう。……それが怖い」


 …やっぱり病院に行ったほうがいいのかな。

 日色君の言葉に私が不安になり始めていると、日色君が花火から視線を外してこちらを見下ろしてきた。


「でも、いちばん大切なことは思い出せた気がするんだ」

「あ…そなの?」

「思い出せないことが多くて、人と会話が合わないのはとても気持ち悪くて混乱するけど、一番思い出したかったことだけは思い出せたからそれでいいかなって思うんだ」


 まぁ、彼がそう言うなら…それでいいのだろうけど。根本的な解決には至ってないけどさ。


「ねぇ大武さん、名前で呼んでもいいかな?」

「えっ?」

「名字呼びはなんだか他人行儀だなと思って」


 突然の提案に私は目を点にした。

 名前で呼ぶってことを改めてお伺いを立てられたことに少しばかり驚いてしまった。


「い、いいよ、好きなだけ呼んじゃって!」


 名前で呼ぶ人は勝手に「藤」って呼んでくるから、意識してなかったけど、改めて聞かれると緊張するな。


「…藤」

「…!」


 しかも相手が日色君。

 まっすぐこちらを見つめられて、彼から呼び捨てされた私は胸を撃ち抜かれた。……なに、この殺傷能力。ただ名前呼んだだけなのに。


「なんかちょっと照れくさいね、藤ちゃんでどうかな?」

「す、好きにして…」


 呼び捨ての威力にHPがやられていると、日色君が照れくさそうにちゃん付けを提案してきた。ちゃん付けも可愛い…なによりちゃん付けする日色君が可愛い。どういうことなの。

 私が胸を抑えて震えていると、「僕の名前も呼んでくれたら嬉しいな」と言われ、私はまるで初恋に戸惑う女子のようにうろたえていた。


「えっ、り、隆一郎って?」

「うん」


 日色君ははにかんでいた。あっ…かわいい…。


「…隆一郎君?」

「なに?」


 ただ君付けで呼んでみただけなのだが、彼は嬉しそうに笑っている。私まで嬉しくなってしまってへらりと笑ってしまうじゃないか。

 その間もドーンドーンと空に打ち上がる花火。


 隆一郎君と近づけたと思ったら、ある日を境に距離が生まれた。

 今も元通りというわけじゃないけど、彼も原因がわかってないみたいだし、なんとなく心の整理が付いたみたいだから追い詰めないためにも余計なことは言わないでおこう。

 文化祭は一緒に回れたし、後夜祭でも一緒に花火をみれたし、名前呼び出来たし、また一歩進展した気がするし。


「…花火、きれいだね」

「そうだね」


 きっと隣に彼がいるから更にきれいに見えるんだろうな。

 今告白したら彼はどんな反応するだろう。

 私は何度か考えたけど、あと一歩のところで勇気が出なくて、そうこうしているうちに花火も後夜祭も終わってしまった。




 文化祭も後夜祭も終わったその日の帰り、私は女子寮前でとある人物に呼び止められた。

 外灯明かりに照らされた彼女の顔は泣き腫らしたように目元を赤く腫らしていて、私に対するいつもの敵視がないように思えた。


「…悪かったわね、もう意地悪しないから」


 私を待ち伏せしていたのはあのめぐみちゃんで……また何か言われるのかなと思ったら、謝罪された。

 私は思わず目がテンになる。


「……ここ最近おかしいと思わなかった? 私が隆ちゃんの中からあんたとの思い出を消していたのよ」


 アッサリ自供されたその言葉に私は間抜けにも口を半開きにさせてしまった。

 今…隆一郎君の中から、私との思い出を消したって言った?


「……完敗よ。忘れさせても結局はあんたを選んだのだもの」


 めぐみちゃんは苦笑いしていた。だけどどこかスッキリした風にも見える。私にあれだけ向けていた敵対心が霧散してしまったようである。


「隆ちゃんには明日謝るわ。それで記憶もすべて元通りに戻す。約束するわ。…本当にごめんなさい」


 彼女は言いたいことを伝え終わったからか、それじゃあね、と言って踵を返していった。残された私は、高等部の女子寮前で棒立ちして彼女を見送る。


 そういえば、聞いたことがある。

 めぐみちゃんの能力は人の記憶を改変する能力…トラウマを持つ患者の原因の記憶を取り除くことに役立つ能力だって。

 ……私に関する記憶を消していた。だから彼はおかしかったのか。そう言われると妙に納得した。


 それにしても精神に干渉する能力……能力者が確固たる信念を持っていなければ、悪用されてしまう。

 めぐみちゃんは考え直して、己の非を反省してくれたみたいだけど、人によっては……弱みを握られ、利用される恐れもあるよなぁ……私は自分の隠された能力のことを思い出して身震いした。


 自分の持つ能力に責任を持たなければならない、とちょっと考えさせられた出来事であった。



■□■



 文化祭は週末に行われたので、日曜と振替休日を挟んだ後の火曜日、いつもどおりの学校生活が再開された。


「おおた…藤ちゃん!」


 名字を呼びかけたが一旦止めて、私の名前をちゃん付けで呼んだのは彼だ。私がびっくりして振り返ると、そこにはいつものおひさまの笑顔を向けた日色君、もとい隆一郎君がいた。


「おはよう…隆一郎君」

「うん、おはよう」


 私が挨拶をすると、彼は照れくさそうに笑っていた。


「めぐみから話は聞いた? …ごめんね、色々迷惑かけちゃったみたいで」

「うーん、おかしいなぁとは思っていたけど、迷惑よりむしろ心配していたかな? あの戌井だって認知症外来に行けって言っていたくらいだし……でも元に戻ってよかった」


 あの他人行儀な笑顔より、今の笑顔の彼が好きだもん。

 それに、記憶がなくても彼は彼のままだった。術者本人が非を認めて反省しているんだ。元通りになった今どうこう言っても仕方ない。

 私は大股で一歩先へ進むと、くるっと振り返り、隆一郎君を見上げる。彼は私が通せんぼしたことに驚いてピタッと足を止めた。


「…約束したの、憶えてる? 今度一緒に映画見に行こうって」

「もちろん憶えてるよ」


 彼の記憶が性格なのか心配だったけど、憶えてくれてるみたいだ。よかった。

 くすぐったい気持ちになって笑ってしまった。


 私は彼の手を掴んで先を歩いた。


「旧作もいいけど、新作もいいよね。だけどここに居たら映画の情報全然入ってこないや」


 隆一郎君の手はびっくりしたように震えていたけど、恐る恐るといった感じで手を握り返してくれた。


「街の本屋さんに、映画の上映スケジュールパンフレットが置いてあるよ。…どんなのが好きなの?」

「せっかくだから千と千尋観たいな!」


 私の頭上ではピッピと紙で出来た紙ピッピが仲良く空中飛行を楽しんでいる。あの時見た人形を思い出した私は千と千尋を久々に観たくなってしまったのだ。

 その映画は都市の外で育った私と、中で育った彼が共通で知っていたものだ。知っているものを一緒に見れたら嬉しいもの。幸い、映画館では旧作上映リクエストに応えてくれるらしいので、きっと観れるはずだ。


「期末テストが終わったらスケジュール合わせて行こう! 約束ね!」

「…うん、約束」


 私が振り返って笑うと、隆一郎君は柔らかく微笑んだのである。

 その笑顔の威力よ。ドキッとときめいた私は、顔から火が吹くように熱くなってしまった。みっともない顔を見られたくないため、前を向いて彼の先をずんずん歩いていったのである。その手はつないだままで。

 お陰でその日はいつもより学校へ到着するのが早かった。

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