第74話 「結夢は、俺も幸せにします」~square meaning~
結夢の母親が帰ってきた。
玄関に出てきた俺に対し、予定調和で変わらぬ励まされる笑顔を見せてきた。
「……どうも」
「おや、まあ。結夢の看病、ありがとうね」
見てもいないのに、俺がちゃんと看病したという判定になっているらしい。
再び寝付いた結夢の寝顔を見て更に安心すると、俺をリビングに招く。
「昔と変わらず、本当に頼りになる子だねぇ」
「たまたま年長だったもので、そういった所だけは成長してしまったようで」
「ただ君に風邪がうつらないか心配だよ」
「見ての通り馬鹿ですから、風邪は昔からうつらないんですわ」
「馬鹿が先生なんかやるかい。今じゃ免疫が強い人は風邪にならないって、科学的に証明されているだろ?」
そう返されては、ぐうの音も出ない。
「折角だ。結夢の夕食作ると同時に、礼人ちゃんへ久々に私の手料理振舞っちゃおうかな」
「僕のはいいですよ。ただ、結夢のものを作ってください」
「……手料理を振舞うと言った手前あれだけど、料理は下手でね。いつも結夢に任せっきりだった。礼人ちゃんの方が旨く作れるんじゃないかな」
台所に向き合うなり、弱音が零れていた。
疲れているんじゃないか? おばさんこそ、風邪にかかっていないか心配だ。
「いえ、おばさんには敵わないっすよ。だっておばさんは、結夢のお母さんじゃないですか」
「礼人ちゃん、哲学的な事を述べるようになったね」
「これは持論です。教育に関する仕事をやっていると分かります。先生よりも、幼馴染よりも、結局母親の方が影響力は強いんですよ。いい意味でも悪い意味でも」
「……」
「そこまで負い目を感じているのは、別に自分が本当の結夢の母親じゃないからとか、そういうものではないでしょう?」
俺は結夢の様子を見る。
ちゃんと寝ているようだ。狸寝入りという訳ではなさそうだ。
俺達の話も、聞こえていないだろう。
結夢に訊かなければならなくとも、今の結夢にはとても訊けない内容の悪夢を。
「札幌で、何かあったんですよね」
「……菜々緒ちゃんから聞いていなかったのかい?」
「菜々緒が? ……いいえ」
あいつ、何か知っているのか?
と怪訝に思ったが、大体俺の数倍菜々緒の方が長くいるんだ。そういう情報が入って然るべきだろう。
「こうなりゃ、その内分かる事か。それにしても、ノーヒントでさては辿り着いたんじゃないだろうね」
「そういう節は前々からありました」
「流石礼人ちゃん」
観念して、少し伏し目がちにおばさんは話してくれた。
「……あの子は、中学三年になって、1回も中学校に行っていない。不登校になっちまったんだ」
「どうしてですか」
「いじめさ。もしかしたら想像は着いているかもだけどね」
勿論、想像はついていた。
そういう仮説はあった。
「中学二年の頃に、酷いいじめにあってね。あまり深くは、言えないけどね……一時期は人を見る事さえもあの子にとっては恐怖の対象だったんだ」
「……そんなに」
「高校に行けていて、ほっとしたよ。最初はね、学校でトラウマがフラッシュバックして、またベッドの上でしか生きていけない生活に戻ったらどうしようと、勝手に心配していたもんだよ。でも幸運にも、同じクラスに菜々緒ちゃんがいて、そして塾に礼人ちゃんがいて、無事あの子は今も学校に通う事が出来ている」
「……」
そんなに、だったのか。
学校に行けている事すら、奇跡。
おばさんの口調からは、そう聞き取れた。
「父親の仕事の都合が間に合う前でも、無理矢理に神奈川に返ってきたのも、あの子を北海道から引き離す為さ。あの中学校がある空間から、何としても遠ざけたかった。あのふざけた学校から、結夢を守りたかった」
「何やらいじめた子達だけではなく、その中学そのものが酷かったみたいですね」
「ああそうさ。生徒も最悪だったし……何より大人達も、皆極悪だった。自分の学校で例えば自殺者が出た時に、保身にしか走らない様な学校がマスコミに映るだろう? あの学校は間違いなく、そういう施設だったのさ」
「否定はできません」
「すまないね。教師を目指す礼人ちゃんを詰った訳ではないんだ」
「教育学部にいると、教職員が汚い大人になりやすい環境なのも頷けちゃいますから」
それでも、俺は教師になりたい。
生徒を傷つけ、死に追いやるような教師にはならない。
『天成先生』のような、死に瀕した誰かを助けるような教師になりたい。
……生徒と付き合っている人間が、なれる物かどうかは分からないけれど。
「私があの時……もっとちゃんとしてあげていれば。結夢ちゃんの傍に、もっと居てあげていれば。本当の母親なら、こんな事態になる前に手を打てていたのかもしれないと思うと」
俺はそれ以上、おばさんに詳細を聞くのを憚った。
結夢に対して負い目のある古傷を開くような真似になると思ったからだ。
そのいじめで、心に傷を負ったのは結夢だけではない。
紛れもなく、おばさんも――結夢のお母さんもなのだ。
「じゃあ、今日はありがとうね」
暫くして、お礼の粗品を渡すいらないの問答を繰り返した後、まだ起きない結夢には今度こそ安らかに休んでもらうとして、俺は玄関から失礼する事にした。
「礼人ちゃん。娘を、……恋人よりも深い家族みたいに、これからもよろしくね。こんな我儘を言う大人を許してね」
去り際に聞いた言葉。
この人、俺と結夢が付き合っているという事に勘付いたんだろう。
いつもなら必死に誤魔化す言葉を考えていたのだけれど、この人も話したくもない暗い過去を話してくれたんだ。
だから俺は否定せず。
代わりに、今おばさんに必要な言葉を必死に考えた。
「結夢は、おばさんの事大事に考えてますよ」
「……ありがとう」
「慰めじゃなくて。直ぐに分かりますよ」
そして、おばさんが安心する言葉を精一杯考えた。
こんな言葉しか出てこなかった。
「結夢は、俺も幸せにします」
俺はこの言葉を口にした時。
教師と生徒の恋愛がどうとか、答えがどうとか。
そんな事さえ、頭から抜けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます