第21話 ワンタイム~天使の鼓動は、とても暖かった~

 密着した左肩が、物凄い暖かった。

 体育座りで、濡れているであろうスカートを抑えながら縮こまっている結夢がとても暖かった。

 その暖かさは、儚さはとても青空やミモザどころではなかった。

 

 俺は、何も考えられなかった。

 生まれたての子供に生誕の感情以外は、脳の中は空っぽであるのと同じように。

 恥ずべきことに、俺は三歳も年下の少女に心が奪われていた。

 

 俺の白い長袖は、絵画でよく見るような天使の羽衣になっていた。

 何でこの子は、こんな天使みたいに育ってしまったのだろう。

 どうしてこの子は、俺なんかの為に赤く頬を染めてくれるのだろう。

 

 今この天使に、俺はどんな魔法をかけられているのだろう。

 この一時は、決してピクニックとかの範疇に収まる物じゃないのは間違いない。

 

「……いや、いいよ」


 しかし、不躾な事に俺は被されたコートを返したのだった。

 俺のだけど、今は結夢のものにしてほしかったから。

 

「実際、髪の毛だってまだびしょびしょだし、スカートやパンツもずぶ濡れだろう? 俺に被せるくらいなら、このコートで髪の毛拭いてくれ」

「……ちょっと失礼します」


 そういうと、結夢は恐る恐ると言った様子で俺の左腕に触れてきた。

 

「礼人さんの体も、どんどん冷たくなってます……私ばかり暖まるのは、駄目です……!」


 そこから先の言葉は、恐ろしいぐらい震えていた。

 まるで品行方正を体現した優等生が、初めて規律を破っているようだった。

 

「だ、だだだだ、だだだ、だから……」

「どうした、落ち着け」

「ここここここここ、こここ、ここ、こうい、いうのは、……どうでしょう」


 再び結夢が俺の背中にコートを駆けてきた。

 同時に、結夢自身の小さな背中にも、コートはかかっていた。

 

 結構俺のコートは左右にも広く、全力で広げれば俺と結夢二人分入る事は出来なくもない。実際今なってるし。

 しかし結夢らしくもない。

 コートが伸びるという事を考慮に入れないなんて。

 何より、俺達の距離が完全にゼロにならざるを得ない事を想定できないなんて。

 

「ゆ、結夢……」


 俺の腕は、結夢の右半身に密着していた。

 右肩から腰、スカートの横尻。

 俺の左側の、結夢に密着していた部分の感覚はもうなかった。

 どんな感覚を覚えるべきなのか、そんな邪な感情を覚える資格は俺にはなかったから。

 

「俺の事なら気にするな……そんな恥ずかしい思いをしてまで……」


 離れようとしたら、左腕を全力で引っ張られた。

 弱い力だったけれど、全身で抱き着かれていた。


 つまり。

 俺の腕は、結夢の胸と溶けあっていた。

 

「……いかないで」

「……」

「今だけ、今だけ、今だけ……今だけ……今だけ……」


 なに、してるんだ。

 そこまで、するのか。

 待ってくれ。

 そこまで、しなくていい。

 そこまでしちゃ、だめなんだ。

 

 しかし俺を離すまいと引き込んだ左腕の素肌は、確かに触れていた。

 どうしてなんだ。どうして俺はこの腕を離せないんだ。

 

 と、理性が訴えかけても情けない事に、俺は腕を動かせなかった。

 左腕から伝わるくすぐったさとむず痒さが、腕から俺を芯まで、暖めてくれたから。

 子供の頃にはなかったふくらみは、二つの布越しにも関わらずとても柔らかかった。


 限界突破した赤らめ顔の額も、俺の上腕二頭筋を癒してくれている。

 濡れた髪も乾かす様な魔法に包まれた額は、俺に密着したまま離れない。

 結夢の表情は、だから分からない。

 しかし、きっと恥じらいに耐えられていない顔になっているのだろう。

 

「れ、礼人さん……お、お御加減、いかがですか……」


 俺が先生の立場だからと話さないのは。

 ただ、俺が結夢の乳房の感覚を覚えていたいのと、もう一つ。

 きっと、結夢がここまで出してくれた勇気と愛に、答えたかったから。

 

 それを無理矢理突き飛ばす事が、きっと柊先生としては正しかったかもしれない。

 でも礼人さんとしての自分が、それを許さなかった。

 例えばここに生徒が着て、塾に報告されようとも、それもきっと間違いだと思っていたから。

 

 だから、俺は答える。

 

「ありがとうな。すごい、結夢、暖かい」

「……はい」

「結夢の心臓、めっちゃ脈打ってる……」

「……」


 返事はなかった。

 埋めた顔を、少しだけ頷かせただけだった。

 

「こここ、これなら、二人ともコートに包まれて、更にお互いの体で暖かく、なるかと……」

「……ただ、結夢が恥ずかしくないかなって思うんだ」

「…………凄い恥ずかしいです」


 結夢は、やっと顔を上げた。

 可愛くて、どうしようもない笑顔だった。


「礼人さんが、暖かいって言ってくれたら、私はそれでいいんです」




 一体、どれだけ時間が経ったんだろう。

 とっくに煙に紛れていた空は、青く冴え渡っていた。

 太陽は俺と結夢と、ミモザを照らしていた。

 

 結夢はその胸に、未だ俺の左腕を閉じ込めていた。

 俺は、それに甘えていた。暖めてもらっていた。

 しかし結夢にそのお礼を言えば、きっと暖めてもらったのは私の方ですって、返ってくるのだろう。

 

 ……誰か、この無知な先生に教えてください。

 今、俺が抱いている感情は、どんな名前ですか?

 どんな方程式ですか?

 どんな記号ですか?

 どんな法則ですか?

 

 

 ……帰るその時になるまで、秘密基地を出てからも、俺はその答えを見つける事は出来なかった。

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