第24話 虚無

ぼんやりと、ただぼんやりと、娘さやかの顔を見た後、さやかの実父トヤマは静かに息をひきとった。


全部、ガレキのように崩れていく。疲れ切った土屋トヤマにとって、この人生は独りの人間が背負うには重すぎた。



土屋トヤマ、さやかの父親は 両親が、トヤマが幼稚園の頃から別居をしながら、トヤマが1年に1度ずつどちらかの家で過ごす不思議な家で育った。


もともと内向的なトヤマは、めまぐるしく変わる家庭環境と1年に1度しか会えない父親と母親に心を開ける事も生涯なかった。



大学卒業後、母親が躁鬱病をトヤマが産まれた時から患っていた事を父親から聞く。


確かに、母親と同居する時、トヤマの母親はいつもテンションが他の母親より高く、落ち着きがなく、やたらトヤマに話しかけては、自分の話しかしない。


しかし、母親はトヤマにいろんな世界を見せてくれる。


もともと外交的な母親の気分が良い時には、手をつないでデパートや自炊ばかりの父親とは違い外食もさせてくれ、当時、流行したアニメキャラのおもちゃも山ほど買ってくれた。




母親と過ごしたちょうど1年後くらいに、母親の瞳はまるで虚無感に満ちた虚ろな目をしてトヤマに話しかけすらせず、幼いトヤマは別人になったような母親に怯えながら、迎えに来る父親を待った。


外出が好きな母親が突然、家にこもり、トヤマが何を話しかけても「そう」「勝手にしなさい」など生返事しかかえってこない、話すら出来ない。


逆に父親は、トヤマと同じように、無口で食事の用意や学校の行事など参加するも母親の事はいっさい話さない無口な男だった。


淡々と毎日を生き、1日が終わる父親とジェットコースターのような激動の毎日を生き、1日が終わる母親。


父親には、テンションが高いかと思うと、別人のように虚ろになる母親の元に戻りたくないと、幼いトヤマは言えなかった。


社会人になってから両親共に疎遠になってしまったが、休日のある日、ふらりと図書館に寄り精神の病の専門書に目をとおす。



躁鬱病は、ハイテンションまたは万能感を抱いた状態が続いた後に、何も動けず疲れきり無力感でいっぱいになるうつ状態を繰り返す事を知る。


父親が、トヤマを母親に会わせたのは必ず躁状態の母親だった。幼いトヤマをうつ状態で自分の事でやっとの母親に預けられなかったのだろうと納得した。


納得したと思っていた。

だが、本当は逃げていた。本当は明るい母親とずっと居たかったのだ。



そんな時、さやかの母親であるトヨコに出逢う。職場の取引先で働いていたような気がするが、毎日を仕事と家の往復だけで虚ろに生きていたトヤマには、今となっては思い出せない。


ただ、元気で明るい母親の面影がトヤマには重なって見えた。


あまり話さないトヤマに若い女性特有の明るさで、話しかけ、笑いかけてくれた。


元気だった頃の母親とますます重なり、トヤマはトヨコを好きになる。もちろん、結婚する頃には女性として愛していた。


付き合った1年後に結婚し、数年後にさやかが産まれる。


家族という家族を持った事のないトヤマにとって毎日が幸せだった。


しかし、日を追うごとにトヨコの表情が、うつ病の時の母親のようにかげる。


何度かさやかについて相談されたが、トヤマにとって、さやかが無口だろうがはしゃぐ子供だろうが、元気でいてくれさえば良かった。


どこかで、トヨコから逃げていたのかも知れない。


子供の時、虚無感に飲み込まれていく母親から逃げたかった幼い自分と同じように。



さやかが幼稚園にあがった頃に、そのつけは回ってきた。


トヨコの帰りが遅くなり、明らかに男の影がちらついた。女性との付き合いが少なかったトヤマにですら分かるほど、トヨコの表情が晴れたのだ。


無口だが無邪気なさやかが、愛しくてしかたなかったトヤマだが、ある日、職場で倒れ、癌のステージ4を医師から告げられる。


冷めてきた関係のトヨコとの離婚も密かに考え、さやかを引き取り暮らそうとすら考えていたが、自分の命にさやかと長く暮らす時間の余裕すらない事を知り、希望は絶たれた。


さやかが、一番幸せになる方法。


トヤマは、治療しながら休みを増やしながら職場に行き、必死に考えた。


自分のような、両親の間を幼い身で行ったり来たりさせるのは酷すぎる。ましてや自分には、そんなに時間がない。


トヤマは、ある日トヨコから離婚を言い渡される。再婚する事も遠回しに告げられた。


幼いさやかは、まだ何も知らない。トヨコの再婚相手が良い男だったら、いずれ自分の事は過去になっていくだろう。



養育費だけをトヨコが再婚するまで送り続けたある日、トヤマの体に限界がきて倒れた。


入院費は貯めていたが、今は疎遠になってしまった両親も親戚も分からない。


病室で、毎日ぼんやりと自分の人生を振り返っては、高熱や痛みにうなされて眠れない日々を送った。


体力もなくなり、うつらうつらと眠る毎日が続いた。


病室の窓から差し込む、夕日のオレンジ色がゆっくり自分のまぶたに落ちてくるのがトヤマに分かった。


そばに誰かいる。


ゆっくり目を開けると、小さな女の子の背中が見えた。さやかだ。サイドテーブルには、トヤマの好きな缶コーヒーが置かれていた。


子供が親の事をいつか忘れてしまうなんて、なんて勝手なんだろうか。自分ですらあの両親を忘れたことはないのに。


「さやか?」

何とか声をしぼりだすと、泣きべそをかいた女の子が振り向いた。夕日に照らされ、最後に別れた頃よりずいぶん大人びていた。


「また来なさい」

トヤマは、「また」がない事を知りつつ最後の嘘をさやかについた。何度も娘がうなずくのでトヤマが安心して眠りについた。それがトヤマがこの世界を見た最後の風景だ。


また来なさい、そして幸せになりなさい。














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