華の王国〜終末の極楽鳥花〜

月桂樹

プロローグ





静かな夜だった。



視界が霞む濃い霧の中を、荒い息遣いと歩く度に巻き上がる砂埃と共に、僅かに浮かぶ小さな光に吸い寄せられるように鉛のように重くなった足を引きずった。



もはや道と呼べるような道もなく、草木さえ見当たらない真っ暗な土地を静かに月の光が照らし、これからの行く先を導いていく。



飲まず食わずで丸一日酷使した身体は悲鳴を上げていて、小さな光を目の前に、気持ちだけが先走りながら無理やり足を前へと進めた。



無造作に転がる瓦礫やコンクリートの塊。


元々は繁華街だったのだろう、錆びれた飲食店の看板やゴミが散乱し、 踏み込む度に砂埃を上げるそれらは、崩れ落ちてからどれだけ歳月が経ったのかを嫌でも実感させられる。



本来ならば、たくさんの光が灯りたくさんの人々が行き交っていた場所だったはずなのに。


もはやその面影は一切なく、荒れ果てた土地に立つ明かりを頼りに進み、やっとたどり着いた店のドアをゆっくりと押し開けた。





「いらっしゃい」





ギィ、と錆びた鉄が擦れる音と同時に聞こえる低い声。



その声の主である中年の男は、ドアが開く音を聞いて古びたカウンターの奥から顔あげ、今にも倒れ込みそうな俺を見て顔を顰める。



しかしすぐにため息をつき、カウンターの前に並ぶ椅子に座るよう顎でしゃくった。



コンクリートが剥き出しの店内は決して綺麗とは言えない。窓はひび割れ、一つだけあるソファーも至る所が破れ埃を被り、僅かにあるテーブルでさえ少し体重をかけるだけで傾くほど古びている。



それでも数名の男がそれらに点在し酒を飲むところを見ると、辛うじて店としては成り立っているらしい。



明かりと言っても蝋燭や懐中電灯の僅かな光が辛うじて店内を照らしているだけで心許ないが、今はそれだけでもありがたかった。



数は限りなく少ないが、どれだけ世界が変ろうとも根強く商売をする人間はどこにでもいる。


この店もどうやらその類のようで、棚に並べられている酒はかなり少ないが、昔はBARとして構えていた店をそのまま今も引き継いでいるようだった。




「何にする?つっても、ほとんどねぇが……お前、金はあるんだろうな?」



カウンターには俺以外誰もいなかった。


けれどそんなこと気にする余裕もなく、店主の嫌そうな声にポケットから僅かな小銭を取り出し、それを渡す。





「…少しだけ、休ませてください」




それが声になったかはわからなかった。


けれどすぐにバン!!と勢いよく手でカウンターを叩きつける音と同時に、顔面に痛みが走る。



腕で顔を覆おうとしたが、間に合わなかった。

投げつけられた小銭が床に散乱し、思わず顔を伏せる俺の胸ぐらを、店主は容赦なく掴み上げて言う。




「たったこれだけで居座ろうってか?舐めるのも大概にしろよ」



「…それが、全部なんです」



「だったら他所へ行きな。こちとら慈善事業じゃねぇんだ、金のねぇやつはさっさと消えろ」



「お願いします。水だけでも……いや、少し休ませて頂くだけでもいいんです。だから…」



「しつけぇな。叩き出すぞ」





飲まず食わずで丸一日。昨日も口にしたのは下水から湧き出る水だけで、ここを叩き出されても近くに店は一つもない。また探す為に歩くには、もはや身体が限界だった。



水が貴重なことはわかっている。

それでも縋らずには居られない俺に、店主は苛立った様子で「おい」と店内にいた男たちに声をかける。





「こいつを店から叩き出せ」




瞬間、男たちがニヤニヤしながら立ち上がり歩み寄ってきた。


人数にして四人。どれも体格が良く、一人が俺の腕を掴み、容赦なく椅子から引きずり落とす。





「捨てるだけじゃ勿体ねぇな。どうせなら売ったらどうですかい?」



「好きにしろ。本当に身一つで金もねぇ。そんなガリガリじゃ大した金にもならんだろう」



「微々たる額でも金になりゃ儲けもんさ」




一体何を言っているのか。

徐々に理解してくる現実に、足が震えた。



抵抗するにも疲労した身体で男たちに敵うはずもなく、無理やり出口に引きずられる中、男達の首元に見える焼印に絶望する。




ーーーあぁ。




「悪いな。"ご主人様" の命令だ」






もはや、選択肢などなかった。




俺はここで殺されるのだ。



すべては、世界が変わった為に。




貧窮を極めるこの世の中では、人間の肉でさえ金になる。それを食べなければ生きていけない人がいる。たとえそれが人として最悪な行為だとしても。たとえ俺が、食われる側になるとしても。




その時、一体どれだけの苦痛が伴うのだろうか。

もう許しを乞うことも、足掻くこともままならない。




そう悟り、諦めた。その瞬間。








「えらく派手な出迎えだな」





突然目の前に立ち塞がった男に、店内の空気が変わった。


引きずられ這いつくばる俺を見下ろすように、店の出入り口に立ち塞がる一人の男。客として来たのだろうか、たまたま居合わせた最悪な状況に「勘弁してくれよ」と、端正な顔がめんどくさそうに歪む。



背は裕に180は超えているだろうか。

首元まで覆う黒の薄手のジャケットと黒のスウェットのようなパンツに身を包んだ若そうな男は、黒髪から覗く薄い瞳を僅かに這わし、最後に足元に這いつくばる俺の顔を見た。



例えるのなら、毛並みの良い一匹の気高い狼のような。



そんな風貌の男に一人が「誰だおめぇ」と突っかかっていくが、男はそれに答えることなくただ俺を見つめ、何かを告げようと口を開く。



しかしそれが言葉になる前に、「どうしたの?」と男の背中からひょっこりと何かが顔を覗かせた。




フードを深く被っているせいで顔はよく見えないが、体格や声からして女だということはすぐにわかった。きっと俺だけじゃない。この場にいる全員がすぐに気づき、男が舌打ちを溢して女を自身の背に押しやる。



しかし、得体が知れないとは言え相手は女連れの男一人。男たちの標的は、わかりやすく女に変わった。





「へぇ、女連れだったのかお前。つーことはそいつ、奴隷婦か」



「はっ、いいご身分だな。ここら辺の女は狩り尽くして、最近は奴隷婦すらめっきり見かけねぇつーのに。丁度いい、こいつと同じ道を辿りたくなかったら、その女を置いていけ」



「奴隷婦」という言葉に、男の顔が僅かに歪んだ。不快だと言わんばかりに眉間にしわを寄せ、下品に吐き出される男たちの言葉に「女は関係ねぇだろ」と呆れた様子でため息をつく。けれど、そんなことで男たちが納得するはずもない。



噂には聞いていたが、奴隷婦を見たのはこれが初めてだった。


仮に彼女が奴隷婦だとしたら、この男と彼女は"主従関係"が成立していることになる。



主人になるということはそれだけ金や地位があるということだ。 ここで大人しく彼女を置いて行ったところで、男が生きて帰れる保証などなかった。



金を取る為に命をとる。命を繋ぐために金を取る。

たとえ無抵抗で金を渡したところで、人の肉すら金になるこの世界では、もはやどちらを選択しても待ち受けているのは死のみだ。




「…何を勘違いしてんのかは知らねぇけど、俺は主人じゃねぇよ」



「あ?奴隷婦を連れといて何言ってやがる。 そういや、前に自分の奴隷婦をいくらかで貸し出す輩も居たな」



どうだ、悪い話じゃないだろう?と。相手は男一人と女一人だ、男達の方が圧倒的に数で有利な状況で、女を差し出した時点で二人とも悲惨な運命を辿るのは目に見えている。



逃さなくては、と。自分自身最悪な状況にいることは理解しているが、他の人間を巻き込むつもりなんて更々なかった。



けれど押さえつけられた体で身動きが取れるはずもなく、返事を待たずに男たちの一人が女に向かって手を伸ばす。



「やめてくれ」と、声にしたいのに震えて出ない。

助けたいのに、巻き込みたくないのに、身動きが出来ない自分が酷く惨めで。




思わず目を瞑ろうとした瞬間。

空気を裂くように、何かが目の前を横切った。




「なっ、」




何かが割れる凄まじい音と同時に、視界に降り注ぐキラキラ光る細かい破片。その中に僅かに血飛沫のようなものが見え、思わず、呻き声を上げながら倒れていく男を視線で追う。



すべてが、一瞬だったのだ。

すぐ横のテーブルにあったグラスを掴み、躊躇することなく女の腕を掴もうとした男の頭に叩きつけた、狼のような男の冷たい眼差しが。


死んだ、と直感的に思ってしまうほど。

それぐらい容赦のない光景だった。


殴られた男に息があるのかわからない。

一瞬の出来事で何が起きたのか理解できなくて、思考が停止する頭で本能的に残りの仲間が怒声を上げながら男に殴りかかろうとするが、男はそれを軽く受け止める。


目にも止まらぬ速さで足を振り上げ、重い一撃を無防備な首元に叩き込んで。一人がのさばるのを確認する間もなく、振り向き様に割れたグラスの破片を掴み、背後から近づくもう一人の男の太腿に食い込ませる。



本当に一瞬の出来事だったのだ。


気づけば男達が呻き声を上げながら床に這いつくばり、じわじわと辺りに血の匂いが充満する。


今は息があるようだが、この血の量だ。

息絶えるのも時間の問題かもしれない。



そのあまりに無残な光景に、俺を押さえつけている男が慌てた様子で後ろにのけぞった。






「…っなんなんだよ、お前。わ、悪かったよ。何でもするから、見逃してくれ。な?」




その声が、酷く震えていた。

それもそうだろう。男の仲間は、目の前でやられた。数で、圧倒的に有利だったはずなのに。



動揺し、恐怖を覚える。


無様にも、足が震える。


けれど一歩一歩近づいてくる男の目はもう、獲物を狩る目そのものの光を放っていて。


今更、許しなど得られるはずもなかった。




ゆっくりと、男の額に食い込むそれ。


暗闇でも鈍く光を放ち、静かに脅威を見せつけるそれを目の前の男は迷うことなく掲げて、無慈悲にも引き金に指を掛ける。



今にもその引き金を引いてしまいそうな。


そんな雰囲気の中で、男は小さく笑みを浮かべた。






「ひっ…、」



「悪いな。恨むんなら、数分前の馬鹿な自分たちを恨みな」




まるで、追い詰めるように。

憎いほど綺麗な月が男の背を照らし、影が重なる。




「や、やめて…っくれ、」



「あとで仲間にも言ってやれよ。手ぇ出す相手を間違えんなって。お前らが奴隷婦だと蔑んだ女に感謝するこったな」



「ご、ごめんな、さ…っ、」



「あー?馬鹿か、謝る相手がちげぇよ」





キラッと、男の耳元で何かが光る。


「獅子尾」と、男の背後から落ち着いた声が聞こえる。



背後に月が出ているせいで、二人とも影しか確認出来なかった。



けれどゆっくりとフードを外し男の腕を掴む女に、男がまた小さく笑う。





ーーーあぁ、そうか。







「"ご主人様"の仰せのままに」






右耳に光る、ゴールドのリングピアス。


男は、引き金を引いた。





最後に視界に映った女の左耳にはーーー男と同じ、リングのピアスが光っていた。





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