五話 森の中で

「はっ……はぁ……」


 息を切らし、流れる汗を風で振り払いながら、倫を森の中をひたすら走っていた。もう村からはだいぶ離れたのか、煙の匂いはあまりしなくなっていた。敵の気配も感じない。

 そろそろ森を抜けてもいい頃なのだが、周囲一帯は木々に視界を塞がれている。

 通信機で連絡を取り、場所を確認しようとするが、何故か反応が無い。ノイズばかりが聞こえてくる。


「まずいな……」


 早く少年を救護班に預けて、あの再生能力を持つ化物のもとへ戻らなくてはならない。

 既にリアンに続いて別の部隊も応援に来ているだろうが、あれを相手にどこまで持つか分からない。だが、焦りは禁物だ。今はこの少年を安全な場所へ送ることを第一に考えなければ……


「あ、あの……そろそろ、お、おろして……」


 出口を探しながら走っていると、脇に抱えた少年が声を上げた。どうやら目を回しているらしい。

 倫は足を止めて、少年を地面にゆっくりと下ろした。少しふらついている。


「すまない……大丈夫か?」

「……うん」


 倫は少年の背中を支えながら、再度通信機を使おうとしたが、やはり機能しなかった。魔力によって起動する通信機であるため、倫が魔力を使い果たさない限りは正常に機能するはずだ。いつの間にか故障してしまったのだろうか。

 そう考えているうちに、少年は支えが無くともまっすぐ立てるようになっていた。あたりをキョロキョロと見渡している。


「近くに敵の気配は無い。大丈夫だ」


 倫がそう言うと、少年は安堵したように深く息を吐いた。

 敵がいないと言っても、ここを抜け出せなければ少年を避難させることも、自身が帰投することもできない。魔術を使って来た時のように跳躍して確認するしかないか。だが、流石にこの少年を抱えて跳ぶのは危険だ。間違って落としたりでもしたら確実に無事では済まない。確認だけはともかく、足で帰るしかないだろう。

 その前に聞くだけ聞いておこうと、倫は少年に問いかけた。


「この森は深いのか?かなり走ったはずだが、出口が見えない」

「え?えっと……そんなことはないと思う、けど」


 少年はあの崩壊した村で暮らしていたのだから、ある程度このあたりの地理は分かるはずだ。深い森でないのなら、案外出口は近いのかもしれない。


「そ、そんなことより、あの黒いのは何なの!?」


 上空から位置を確かめようと魔術を使おうとした瞬間、少年は押し留めていたものを吐き出すようにそう叫んだ。

 苦しげな表情で、少年は行き場のない感情を目の前にいる倫へぶつける。一度は危機から脱して安心を得たが、それ以上に少年は喪いすぎている。情緒が安定しないのは当然のことだ。

 少年は村の惨状を思い出すようにうめく。


「いきなりあらわれて、全部壊して……ぼくの家も、みんなあいつが……」


 子どもならあれを知らないまま生きていくことが普通だ。こんな森の中にひっそりとある村ならば尚更。だが、倫はその「普通」ではなくなる者の気持ちをよく理解していた。

 少年の目線に合わせるように、倫はしゃがんで次の言葉を待った。


「……おかあさんが、たまに言ってたんだ。悪いことばかりしていると、黒いお化けがやってくるよって。絵本の中のお化けのことだと思ってたのに、なのに……」


 涙をこぼし、嗚咽を上げ始めた。しゃくり上げながら、少年は吐き出し続ける。倫は黙って聞いていた。


「お化けが本当にいるなんて、思ってなくて……少しだけ、ほんとうに少しの間だけ、おかあさんたちに秘密にしてた遊び場に行っただけで……帰ってきたら、帰るところが無くなってて……あんなことになるなんて、思ってなくて……」


 倫には少年をどう慰めるべきなのかは分からなかった。だが、昔の記憶を掘り起こすようにして、少しずつ言葉を紡いだ。


「……あの化け物は、いつでも、どこにでも現れる。君が悪いことをしたから来たわけじゃない。だからこそ……奴らは理不尽な存在なんだ」

「りふじん……?」

「誰にも何の罪も無くても、あの化け物はああして生きている者を……壊す」

「理由もないのに……?そんなの……ひどいよ…………」

「それがあの化け物なんだ。……納得なんて、できないよな」


 泣きじゃくる少年を見ていると、倫は過去の自分を見ているような気分になった。帰る場所を失ったあの孤独感を思い出す。

 だから、倫には少年が次に何を自分に言うのか分かっていた。いや、分かっていたというのは間違いだ。それはただの願望だった。この少年に、どんなに暗い色でも糸のようにか細いひと筋だったとしても、光があることを見逃してほしくはなかった。

 まるで自分の願いを押し付けているようだ、と倫は己を嘲笑った。

 そして、徐々に涙がおさまってきた少年は、倫の期待通りの言葉を口にした。


「あの怪物のことを……お兄さんたちのことを……教えて」


 そう言った途端、背後で木々が不自然にざわめいた。


「ひっ!」


 少年は短い悲鳴をあげて、倫の右腕をつかんだ。ちょうどまくられた袖と手袋の間にある、わずかに肌が露出している部分に触れている。手に力が入りすぎて、爪が食い込んでしまっていた。

 倫は咄嗟に立ち上がり、少年を庇うようにして音のする方へ注意を向ける。迫るざわめきの正体を推し量らんと、意識を集中した。


「さ、さっきの化け物が追いかけてきたの!?」

「いや、これは……」


 例の怪物の気配ではないことに、倫はすぐさま気がついた。だが、自分が正確に読むことができる気配はあの怪物だけだ。魔物の類である可能性もある。

 武器を構えようと腰に下げた双剣の柄に手を伸ばすと、ざわめきが唐突に消えた。


「あれ……?」


 少年が不思議そうに辺りを見る。夜明けの近い時間帯だが、空がほとんど枝葉で覆われている森の中では、真夜中と変わらない闇が広がっている。

 だが、静寂が森を包んだのも束の間、それは目にも止まらない速さで倫に向かってきた。

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