第86話 聖女の矢②
四本目の聖女の矢は戦場へと向かっていた。
ぐんぐんと速度を上げて、高度を上げる。そして一本が分かれて二本へ、二本が分かれて四本へ、四本が分かれて八本へ。次々と細胞分裂するかのように増殖していった。
戦の真っ只中へ到着する頃には、何万という数の黄金の矢の群れとなっていた。
それはまるで大海を泳ぐ鰯の群れのようでもあり、巨大な飛行物体のようにも見えた。
「何だあれは?!」
「矢?!・・・なのか?!」
「こ、こっちへ来る?!」
剣を交わしていた兵達は異様な光景と空を切る大きな羽音に思わず攻撃する手を止めた。
敵味方の関係なくその場にいる全ての者が、上空に飛来してきた黄金の矢の大群を見上げた。
そして信じられないことが起こった。
黄金の矢の大群は、矢先を下方に向けると急降下し、次々とナディル帝国軍の兵士や騎士達の心臓目がけて突き刺さっていった。
不思議なことに、矢はナディル帝国軍の者ばかり心臓を射抜いていき、ナディール王国軍の者には誰一人として刺さらなかった。
パニックを起こす帝国軍勢と呆気にとられる王国軍勢。
「何だ?!うわっ!!」
「ああっ!!」
「どういう・・・うっ!!」
しかし何万という帝国軍の兵は、心臓に矢を受けたにもかかわらず、倒れる者は一人もいない。
そして傷も痛みもないと気が付くと、胸に刺さった矢は消滅し、まるで何もなかったかのように矢が飛来してくる以前の景色が目に映る。
「あれ?矢・・・は?」
「俺、生きて・・・る?」
「一体何だったんだ・・・。」
何万という帝国軍の兵達は、エリザベートの殺害に何も関与していなかったため、ほとんどの者が『女神の審判』による罰を受けることはなかった。
ただ二名、エリザベートに懸賞金をかけることを提案した帝国軍の参謀役のザッケロニウスと、それを許可し指示を出した帝王のアレクサンダーを除いて。
ザッケロニウスの心臓を射抜いた矢は一瞬発光すると根元から鎖が顕れ、顔の方へとうねりながら纏わり付く。
鎖は喉に巻きつき声を奪う。
そして次に両耳へ巻きつき聴力を奪っていった。
こうしてザッケロニウスは声と聴力を失ったのであった。
アレクサンダーを射抜いた矢からも鎖が顕れた。そして鎖はアレクサンダーの喉に絡みつき、声を奪った。
鎖はそこで止まり、矢と共に体に溶け込 むように消えていった。彼はザッケロニウスと違い、失ったものは声だけだった。
アレクサンダーの失ったものが声だけで済んだのには理由があった。
それは本心では、エリザベートを生かしておきたいと思っていたからだった。
たとえそれが人質として利用しようとしての考えからだったとしても。
『聖女の矢』を受けたことで、パニックになった帝国軍の兵達は戦意を失い、戦どころではなくなった。
それも当然だった。訳も分からずいきなり伝説の『聖女の矢』を受けたのだ。
しかも何万という数え切れない黄金の矢が帝国軍の兵の心臓だけを次々に射抜いていく。何とも言えない恐怖が、帝国軍を襲った。
体の異変が何もないことに少しは安心したものの、誰しも二度とその矢を受けたくはなく、女神から罰を下されたくはなかった。
そしてそんな伝説の『聖女の矢』を放つ大聖女を味方につけた王国軍と戦いたくなかった。
「もう嫌だ、俺はこの戦から降りる!」
「俺ももう止めた!」
「大聖女相手に戦えるか!!」
帝国軍の兵達は次々と逃走していき、とても戦を続けられる状態ではなくなっていた。
潮が引いていくように帝国軍勢が引いていく様子を、ライオネルは自軍の後方から見ていた。
「一体、何が起こったのだ・・・。
『聖女の矢』が何故こんな所で・・・。」
「ライオネル王太子殿下、緊急事態です!─────。」
理解し難い目の前の現象に戸惑っていると、伝令係の兵が青い顔をしてライオネルに近付いた。
「何だとっ!!」
そこで後方陣営で起こったことを聞き、ライオネルは血相を変えてエリザベートの元へと馬を駆けたのであった。
伝令係のエリザベートの訃報を一緒に聞いていた将軍のグレゴールは、ライオネルの後ろ姿を心配する眼差しで見送ると同時に激しい怒りを覚えた。
そして前を向き直り指揮を執った。
「皆の者、好機である!!
追撃の手を休めるな!!
行けー!!」
「「「おー!!」」」
ここで帝国軍を易々と逃がすはずもなく、二度とナディール王国へ攻め入る気をなくすほど、好機とばかりに追撃するのであった。
こうしてネストブルク荒野での戦いは、ナディール王国軍が勝利を納め幕を閉じたのであった。
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