ひとみとほっぺ

向日葵椎

ひとみとほっぺ


 一 ひとみとほっぺ


 校内――昼休みまでもう少し。

 秋の日差しが外の澄んだ空気を通って、窓から廊下に差し込む。

 お手洗いから教室へ戻る廊下を歩いていると、四時限目の予鈴が鳴った。

 ふと、前を歩くクラスメイトの肩に目をやる。


「あら、たずなさんたずなさん、肩に髪の毛がついています」


 高校二年、クラスメイトのたずなさんが振り向く。

 たずなさんの肩、グレーのブレザーの肩に髪の毛が一本ついていた。

 小走りに近づく。


「ちょっと待っててね」

 髪の毛を手にとって、たずなさんに見せる。


「あ、本当。ひとみさんありがとう」

 わたしより少し小柄なたずなさんの大きな瞳がまっすぐに見上げる。


「いいのいいの」

 差し出された小さな手のひらに、そっと髪の毛をのせる。


 たずなさんは受け取ると、手のひらを眺めながら教室へ歩いていった。

 そんなたずなさんを眺めながら、わたしはその場で立ち止まり、ほんのりした後悔のようなものを感じる。


 肩についた髪の毛に気づいて教えたことは、もちろん良かったと思う。

 しかしそれは裏側から考えれば、他人の細部を気にしすぎのようにも思える。

 たずなさんはそうは思わないと思うけれど、わたしは、そんなわたしを少しだけ気にしている。


 多感な年ごろだからでしょうか。

 窓の外の澄んだ空へ視線をやり、小さなため息をつく。


「うへーん、腹いてー」

 うしろから声がして振り向くと、隣のクラスの女の子が腹部を手でおさえながら歩いていた。


 そのまま彼女は奥の教室へ向かって歩いていく。

 最近ちょっと冷えるからかもしれない。

 そう思いながらじっと見てしまっていると、彼女はブレザーのポケットに手を入れてスマホを取り出した。

 そのとき、スマホに引っかかった何かが落ちるのが見える。


「あ――」

 言いかけて、開いたままの口が止まる。

 わたしの視線は落ちたものをとらえていた。


 ……どうしよう。

 それは好き嫌いがハッキリわかれるキャラクターのストラップだった。どちらかと言えば好きだと言う人のほうが少ないことは知っている。

 たしか「ユリ・オブ・ザ・ダークネス」というちょっぴりバイオレンスな漫画のキャラクターで、かわいらしい女の子の口元からは真っ赤な血がだらだら――いや、ドバっとあふれているのだ。もちろん血は樹脂を固めた作り物だが、そのストラップはお腹のところを押すとさらに血が飛び出す仕掛けになっている。

 声をかけようか。


 ――でも、彼女がそれの持ち主、もしくはそのキャラクターのファンだということを隠したがっていたら。

 ――でも、好きなものなら教えてあげないと。

 ――でも、偶然誰かからもらっただけで、好きでもなんでもなかったら。


 そう考えてわたしは固まってしまった。

 どうしよう。


「お嬢さん、落とし物ですよ」

 またうしろから声がした。聞き覚えのある声。


 わたしが振り向く間もなく、声の主は視界に現れ、落とし物を拾い上げた。

 鬼島きじまあかりさん。クラスメイトだ。すらっと背が高いのと、ショートヘアと日に焼けた小麦色の肌からはボーイッシュなスポーツ男子の感じを受けるけれど、そのどれもが整っていて、全体としての雰囲気は美しく、どこか気高いような印象がある女生徒だった。

 それでいて――あまりお話したことはないけれど、クラスメイトとも談笑したりするような明るい性格の持ち主であることは知っている。


 前を歩く腹痛の女の子が振り向く。

 鬼島さんはストラップをその子の両手に渡して、そのあともストラップを持つ女の子の手を下から支えるように添える。


 女の子は腹痛がおさまらないのか、ストラップが恥ずかしいのか、それとも手が触れ合っているのが恥ずかしいのか、うつむきながら、

「あ、ありがとうございますっ」

 と言って、隣のクラスまで走っていってしまった。


 それを見送った鬼島さんは、ふいにわたしのほうへ振り向いた。

 微笑んでいる……

 どうしてだろう。

 わたしが首をかしげたそのとき、廊下の先からジャージの先生が歩いてくる。


「ほら席につけー」

 こちらに向かって口を開いた。


 鬼島さんとわたしは教室に戻り、四時限目を受ける。

 さて、空腹だったこともあり、鬼島さんの表情の意味や黒板に書かれる古文の意味よりもお弁当のことを考えているうちに授業は終わってしまった。


 食欲の秋のせいだろう。

 ノートの端っこに栗の絵を描いてしまったのも、きっと秋のせいだ。

 でも栗が微笑んでいるのはなぜなのだろう。

 芸術の秋だから?

 いや、それよりお弁当だ。


 わたしは教室の皆が勉強道具をしまったり、食堂へ向かうため席を立ったりするのを確認すると、カバンから弁当箱を取り出して机へ置いた。

 楕円形の黒い弁当箱のフタを開けると――素晴らしい。栗ご飯と栗の甘露煮と栗きんとんが私を待っていた。

 ああ、素晴らしきかな栗。

 昨晩からお母さんと準備した栗尽くしの弁当だ。


 そのとき、

「網野さん、席借りても大丈夫かな?」


 聞き覚えのある声だ。

 前の席の網野さんは、

「うん、わたしこれからたずなと学食だから。お昼?」

 と、声の主へ返す。


「そうそう。今日ちょっと冷えるように感じてね、日のあたる窓際にお邪魔しようかなって思ったんだ。ありがとう」


 視線を向けると、鬼島さんだった。

 それから網野さんは学食へ向かい、鬼島さんは小さく手を振って見送る。

 網野さんが見えなくなると、鬼島さんの視線がわたしのほうへ向いた。


 ――さて、さて、どうしよう。

 何か声をかけたほうがいいだろうか。

 ――そう、きっとそのほうが自然。

 でも何を。


 先に口を開いたのは鬼島さんだった。

「ひとみさん、一緒にいい?」

「それはもちろん。鬼島さん冷えるの」

「うん。ほら、今日って朝から肌寒かったじゃない? だから肌着を冬用の厚いやつにしたんだけど、そうしたら汗をかくくらい暑くなっちゃって。汗が冷えたんだね」

「こういう季節の体温調節って難しいよね」


 鬼島さんは弁当箱をわたしの目の前へ置いた。

 アルミかスチールの四角い弁当箱。

 網野さんのイスを横向きにし、鬼島さんがこちらを向いて座る。

 日の光が鬼島さんの横顔と手元を照らす。

 光と影で生まれたコントラストは、微笑を左右で違った印象に見せる。


 そのまま鬼島さんが弁当箱のフタが外すと、中には白米とから揚げとミニハンバーグとエビフライが隙間なく詰まっていた。

 鬼島さんは特に気にする様子もなく、箸をとって手を合わせる。


「じゃ、いただきます」

「いただきます」わたしも手を合わせた。


 クラス内ではところどころで雑談の花が咲いている。

 いつも通りの楽しい時間。

 わたしの目の前はいつも通りではないけれど……


 鬼島さんは白米から食べ始めた。

 わたしも栗ご飯から食べ始める。

 ――ああ、なんて素晴らしいのでしょう。ほんのり甘いかおりに、口に含んだ瞬間のかすかな塩味、栗の食感と噛むうちに広がる甘味。

 思わず顔がほころぶ。

 お弁当箱がもう一つあってもよろしくてね。

 うんうんとうなずいてから、ふと、視線を上げる。


「あ――」

 鬼島さんと目が合った。


「なんだか楽しそうだね」

 長いまつ毛の下の目を細めて微笑んでいる。


「えっと、はい……」

 じっと見つめられていたかと思うと恥ずかしくなってしまい、シュンと縮こまって視線を落とす。

 視線の先には、鬼島さんの弁当箱。


 そのとき、ふいに鬼島さんは箸で白米をつまんで口へ運び、

「あっ」と驚いたような声を出した。

 鬼島さんを見ると、頬の片側に手を当てている。


「どうしたの……もしかして、虫歯かしら」

「ううん、違うの。おいしくてね」

 お米が大好きなのだろうか。


 そう思っていると、

「ねえねえ」鬼島さんが言った。

「どうしたの?」

 見ていると、鬼島さんは頬に両手をあてて、そのまま何かをつかむようにしながら顔から離した。


「ほっぺたが落ちたみたい」

 鬼島さんはそう言って、手を広げて見せた。


 するとそこにあったのは――

「まあ、栗だわ」


 丸っとした栗の実が一つ、手のひらにのっていた。

 どうしてだろう。

 もしかして本当に鬼島さんのほっぺたなのだろうか。

 視線を上げて鬼島さんのほっぺたを見る。

 きめの細やかな小麦色の肌に、変わったところはない。

 そんなわたしの視線に気づいたのか鬼島さんは、


「大丈夫大丈夫、すぐに治る体質だから」と笑みを浮かべた。

「不思議な体質なのね」

「そうそう。あ、これあげるね」

 鬼島さんは栗をつまんで差し出す。


 それを見てわたしがとっさに両手のひらで皿をつくると、鬼島さんはそこへ栗をそっとのせ、それから栗ののったわたしの手を下から支えるように両手を添えた。

 わたしの手よりも大きくて、お皿の上にお皿が重なったみたいになる。

 下のお皿からは温もりを感じる。


「いいの?」

「うん、一緒にお弁当食べてくれたお礼」

 鬼島さんはそう言って、またにこやかな表情を見せた。


「ありがとう」

「うん」


 ……あれれ。


「…………」

「…………」


 ……鬼島さんが微笑んだまま動かない。

 ……それから添えたままの手も。


「鬼島さん?」

「ひとみさん、なんともない?」

 どういうことだろう。


「ええっと……」

 わたしは鬼島さんの言葉が何を指しているのかわからず、右へ左へ、首を傾げて、説明を求めるようにした。


「放熱してるの。手、熱いかな」

 どういうことだろう。

 手の甲から鬼島さんの手が温かいのを感じる。


「いえ、熱くはないけれど――」

「よかった」

「……よかったの?」

「うん」

 わたしはやっぱりよくわからなくて、じっと鬼島さんを見る。


 クラス内の雑談が、あたりに咲き乱れている。

 わたしがまた首をかしげたときだった。

 鬼島さんの目じりが、きらりと光った。

 差し込んだ日差しのせいではないように見えた。


「鬼島さん、涙が」

 微笑む鬼島さんは、日の当たるほうの瞳で涙を流した。


「今は暑いの。もうちょっといいかな」

 わたしはただ、涙が頬を伝うのを見ていた。


 二 秘密


 鬼島さんは指先でそっと涙をぬぐった。 

「ごめんね、急に」

「いいのいいの。でも、どうしたの。やっぱり虫歯が痛いの」

 口元に手を当ててささやくように言った。

 虫歯は隠し事だったのかもしれない。


「違うの。虫歯じゃないよ」

「じゃあ、どうして? よかったら聞かせて」

 鬼島さんは窓の外へ視線を向けて、またわたしを見た。


「わたしね、なんだか恐いみたいなの」

「鬼島さん、何か恐いの?」

「あっ、そうじゃなくて、わたしね、恐がられてるみたいなの」


 わたしは考えた。

 しかしわからない。

 誰に恐がられてるのだろう。

 それに、鬼島さんのどこが恐いのだろう。


「鬼島さんはちっとも恐くなんかないわよ」

「うれしい」

 鬼島さんが目を細めて微笑んだ。


「どうして恐がられてると?」

「ほら、さっきひとみさんも見たでしょ? わたし、誰かに触ると、その子が恐がっちゃうみたいで」

 四時限目の前、ストラップを落とした腹痛の女の子のことだ。

 恥ずかしがっていたからでもなく、腹痛でもなく、鬼島さんを恐がっていた、ということだろうか。

 しかし触れると恐がられるというのはどういうことだろう。


「鬼島さんの体温が熱すぎたり、冷たすぎたりするということかしら。それで触ると驚かれちゃう、みたいな」


 鬼島さんは首を振る。

「んん、違うみたい。こうなったのは二年になる前からだったかな。それで、やっぱりおかしいなってことに気づいてからは、いろんな人に触ってみたんだ。そうしたらさ、みんな何も言わずに離れていっちゃって――でも、そんなときに触った相手の一人が言ったの、『恐い』って。なんだかおびえた顔をしててね。ああ、この異変はそういうことかって思ったんだけど、その表情が忘れられないの」


 もう十月だった。

 鬼島さんはもう半年くらい、それに悩んでいたということになる。


「どうしてかしら……それと、わたしは大丈夫みたいね」

「もう一度いい?」

 鬼島さんが言う。


「もちろん」

 両手を差し出す。

 鬼島さんはわたしの手を取って、ぎゅっと握った。


「……どう?」

「なんともないわ。なんともないのがこわいくらいにね」

 目の前に、綺麗なお花が咲いた。

 冗談が好きなのかもしれない。


「よかった」まだちょっと噴出しながら鬼島さんは言った。

「さて、お弁当、食べちゃいましょうか」


 それぞれ弁当をつつき始める。

「わたしね、栗になったんじゃないかと思うの」

 から揚げを口に放ってから鬼島さんは言った。


「まあ、それは大変ね」

「うん。なんでかって言うとね、触るとトゲが痛いから」

「それで栗を持ってたの?」

「んん、それは家の庭にある木から落ちたやつ」

「まあ、お家に栗の木があるのね」

「そう、大きいんだ。今度見に来てよ」

「うれしい、わたし栗好きなの」

「お弁当、栗だらけだもんね」


 ちょっと恥ずかしかったけれど、鬼島さんが話してくれた悩みに比べればどうということもない。

「そうよ。わたしにかかれば木に実った栗を全部たいらげることなんか、造作もないことなんだから」


 向かい側で鬼島さんが噴出して笑った。

 口の中は、栗の甘さで心地よかった。

 瞳の中は、綺麗な花が揺れていた。

 耳の中は、鈴が笑うのを聴いていた。


「じゃあ一緒に拾って全部食べよう」

 そう言って、鬼島さんはときどき噴出しながら弁当をつついた。


 それからふいに、

「でも、どうしてひとみさんは大丈夫なんだろう」

 そう言った。


 やはり、そういう話になったか。

「もしかしたら、だけどね。実はね」


 わたしは言葉を区切って、つづける。

「わたしが、ロボットだからかもしれないの」

 視線を鬼島さんに向ける。


「ロボット……なの?」

「そう。ロボット、マシン、メカ、アンドロイド、ひとみ一号。そういうわけで、人間じゃないからかもしれないわね」


 わたしはロボットだった。

 視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚を感じ取れるセンサーは備えている。

 ただ味覚がちょっと好きなだけのロボットだった。

 花を美しいと感じるように学習したロボットだった。

 これが、わたしの秘密。

 学校の誰にも言ってなかったわたしの秘密。


「じゃあ、栗とロボットが向かい合ってお弁当を食べてるんだね」

「ちょっと、もうちょっと疑ったらどうなのかしら。『あっ、この人ちょっと電波っぽいな』とか、思ったでしょう」

「そんなことないって。わたしだって急に泣き出してちょっと変なこと言ったしさ、まあお互い様って感じよね」

「そうね。……あれれ、お互い様ってそれ、わたしもちょっと変わってるってことじゃないかしら」

「いいじゃない。ちょっと変わってるからいいんだと思うよ」


 わたしは、五感のほかにどこかが甘くなったのを感じた。

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