美香子と香子

海月

美香子と香子(短編)

私たちに子供ができたら、名前は「美香子」にしようと密かに決めていた。


もちろん女の子ならだけど。


私に最も近しい人。「香子」に「美」しいをつけて「美香子」。


我ながらいい名前だと思う。


香子よりも美しく、香子のように凛々しく、香子みたいに優しくなってほしい。そう願いをこめて。


そんなことを望むのは贅沢だろうか。


健康に生まれてくれればそれでいい、そう言うのが普通のはずなのに。


でも、そんな子供が欲しい。


私が考えているのは、いつでも香子よりも優れた想像の中の美香子だ。


香子よりも美しい、というのはおそらく大丈夫。


だって真行さん、かっこいいもの。


私だって今はくたびれかかっているけれど、昔はよく香子と似ているって言われていたものだ。


だからきっと香子よりも美しい子になってくれるはず。


 そんなことを考えると真行さんはよく私と結婚してくれたな、という思いが心の内側から溢れてくる。


彼は社内一の人気者なんだから。でも、確かに真行さんは私を選んでくれた。


その他大勢の中から私を。


それだけが自信となる。


 最初はただの憧れだった。


職場の上司だった真行さん。


私より三つばかり年上で、失敗ばかりの私を励ましてくれた先輩。


後から知ったんだけど、私のミスを肩代わりして部長さんに謝ってくれたこともあるみたい。


そんな優しい、私の大切な人。


四年前のバレンタイン。


勇気を出して私からチョコレートを渡したのが始まりだった。


本当は日ごろの迷惑料のつもりだったんだけど。勢いあまって告白してしまったのだ。


初めての手作りチョコレートは、そんなに上手にできたわけでもないし、ラッピングもぐちゃぐちゃだったのに。


それでも、いつもみたいに微笑んで喜んでくれた。


はにかみながら包みを受け取る姿が昨日のことのように思い出される。


それからは夢のような時間が過ぎていった。


三年前にプロポーズされて、結婚式を挙げた。


私の希望によって憧れのハワイで。


それからマイホームを買って、専業主婦になって。


誰もが羨む理想の家庭。


なのに、どうしても子供ができない! 


不妊治療もがんばっているのに。


私の体が悪いわけでも、真行さんが悪いわけでもない。


なのに、どうして? どうして子供ができないの?


最近、あの人の帰りが遅い気がする。


なんでもお仕事が忙しいのだとか。


私も同じ職場に勤めていたから、多少は事情を理解できる。


でも、私がこんなに参っちゃっている時に、そんなに家を空けるなんて。


昔の私はそんなことを想像してはいなかった。


真行さんが私を蔑ろにするなんて。


私は別に、


「私と仕事どっちが大事なの?」


 と彼に詰め寄って、


「規子だよ」


 なんて言わせたいわけではないのだ。


だって、仕事がないと「私」を養えないから。


仕事はお金だ。


なんと言ってもお金は生きていく上で必要なものだ。


愛だけで生きていくことなんて不可能。


私はそのことをよくわかっている。


かつての友人が貧しい男と駆け落ちしたが、苦労が絶えず別れたという話も聞いている。


それにお金がないと不妊治療もできないし。


そもそも私はお金のことで言い争うことほど無駄なことはないと思う。


それにギスギスとした空気は苦手だし、そんな暇があったら働けばいいだけだから。


だけど幸か不幸か、少し前に真行さんは昇進したばかりでお給料が上がっていた。


だから言い争うこともないし、家計簿と睨み合いをすることもない。


とは言っても、私はこの状態が決して幸せなものだとは思えなかった。


だって働きに出て気を紛らわすことができないもの。


真行さんは、女を働きに出す夫ほど情けないものはないと思っている、らしい。


私は真行さんが望まないことをしたくない。


真行さんを不甲斐ない人なんかにしたくない。


だから働かないのだ。

もし、家計が苦しかったら私はパートでもしていたのだろうかと想像してみる。


しかし、その様子を上手い具合に思い浮かべることはできなかった。


 私の寿退社を恨めしく思っていた同僚が懐かしい。


いつも励ましてくれた数少ない友人に会いたい。


彼女たちは今、私がこんなにみっともない姿だということを知らないのだろう。


そういえばこの間、高校の同窓会のお知らせがきていた。


ちょうどいいのかもしれない。


彼が望んでもいない外に出るということをしないでいたし。


夜まで家を空ける口実もできた。


たまにはお化粧して、うんとおしゃれをするのも悪くない。


たしか一ヶ月後だから、今からお洋服を新調しようかしら。


「それがいいかもしれないわ」


 何を着ようかとか、どんな髪型にしようかなんて考えていると、真行さんとのデートのことを思い出した。


まだ結婚していなかった頃はよく公園なんかに行ったものだ。


お弁当をこしらえて、ピクニックをした。


そのときのことが鮮明に思い出されてなんだか笑えてきた。


「そういえば真行さんあのとき……」


大きな犬にすごく吠えられて怯んでいたのに、なんでもない風に振舞っていておかしかったな。


あのあと、噛み付かれたのはいい笑い話だ。


「絶対に犬は飼わない!」


 と宣言していた姿が可愛らしくて、思い出し笑いしてしまった。


 今からでは考えられないくらい幸せだった。


 家の中に籠ってばかりいたら、こんな風に思い


出に浸ることしかできないでいたみたい。


だからちょっと羽を伸ばすくらいならいいじゃない。


自分へのご褒美ということにして。


不妊治療を始めてそろそろ一年がたつし。


「真行さんが帰ってきたら相談しなくちゃ」


 気分はだんだんと明るくなってきた。


お洗濯をしていても、お料理をしていても、いつの間にかるんるんと鼻歌を歌っている。


やがて玄関の鍵がガチャリと開いく。


エプロンを翻して急いで主人のもとへ向かった。


「あなた、おかえりなさい。今日もお勤めお疲れさまです。もうご飯にしましょうか?」


 カバンを受け取りながら尋ねる。


いつものやり取りの中に高揚感を隠しきれなかった。


けれど、一方でずっしりと重たいカバンはお仕事の大変さを物語っていて、同時に申し訳なさに苛まれた。


おかしな罪悪感だ。


「いや、いいよ。取引先の人と食べてきたんだ」


 ずいぶんと投げやりな言い方だった。


もうシチューはお鍋で温まっている。


優しい香りはもうすぐそこまで流れきていた。


「先に連絡してくれてもよかったじゃないですか」


そう言いたかったけど、言えなかった。


私は我が侭なのだろうか。


ずっと夢見ていた結婚生活とはあまりにかけ離れた日常。


たったそれだけのことに不満を持ってしまうなんて。


彼と結ばれただけでも十分幸せなことなのに。


「そうだったんですか。じゃあ、お風呂をすぐに沸かしますね」


 いい妻であろうと努力するのは当たり前のこと。


それが女に生まれた者の勤め。


そう自分に言い聞かせる。


真行さんに釣り合う女になりたいから。


「ああ。頼む」


 だからこんなに素っ気ない言葉にも、


「はい」


 とにこやかに返事をすることができるのだ。


 真行さんの食事を一つの皿にまとめていく。


きっと明日の私の昼食。


ラップをかけてから冷蔵庫にしまうと溜息が出た。


私以外の誰も知らない、ささやかな溜息。


今までお腹は空いていたはずなのに、胃に閉塞感がもたらされ食欲は一気にいなくなった。


 一人の食事は何の楽しみも生まない。


自分で自分が用意したものを食べる。


その行為に虚しさを感じさえする。


よそうご飯の量を少なめにした。


いつものことだ。


ここ一年で体重は五キロ近く減っている。


「そういえば」


 と一人寂しく食事を終えた後、同窓会のことをふと思い出した。


真行さんに相談をしようと思っていたことをすっかり忘れてしまっていた。


ソファに腰掛けて本を読んでいる真行さんに恐る恐る声をかける。


「あのぅ、同窓会のお知らせが届いたのですけど。一ヶ月後なんですって。行ってもいいですか?」


私の言葉に無言でコーヒーを啜るだけだったので、何かまずいことを言ってしまったのかと、


「高校のです。ほら、前に言った女子校です」


 とさり気なく付け加えてみた。


するとそれが功を奏したのか、


「いいんじゃないか」


 という返事をもらえた。


やはり気がかりはそこらしい。

小学校は共学であったが、中学から大学は私立の女子高だ。


だから女子校での同窓会の方が確率的には高い。


心配するようなことは何もないのだけど、そのちょっとしたことが妙に嬉しかった。


「香子さんも一緒か?」


 珍しい真行さんからの問いかけが香子のことというのが少々気に食わないが、


「さあ、どうでしょう。今度会う時にでも聞いてみますね」


 と言っておいた。


どうして香子のことを気にしたのかは疑問だが、しばらく考えてやっと答えが出せた。


きっと香子が私と一番仲のいいからだ。


もしかしたら真行さんが話したことがある人の名前は香子だけなのかもしれない。


そう思って納得した。

 香子と真行さんが初めて会ったのは、私との結婚が決まって少ししてからだ。


真行さんは私と香子を見比べてはしきりに、


「確かに似ているな」


 と感心していた。


私は綺麗な香子に似ていると言われて嬉しかった。


でも、やっぱり香子のほうが美しいと思ってしまう。


香子はバリバリのキャリアウーマンだ。


結婚なんてものには縛られないだろう、伸び伸びとしたしなやかな女性だ。


同姓の私から見ても十分魅力的な女性。


それが香子だ。


私とはやはり大違い。


とはいえ卑屈になることなんてない。


香子は香子、私は私だ。


そう自分に言い聞かさる。


 なんだか香子もちょうどお仕事が忙しい時期らしいので、同窓会のことは電話で聞くことにした。


「同窓会? うーん、ちょっと迷い中。でも、たぶん行かないんじゃないかしら。規子は行くの?」


 パチパチとキーボードを叩く音が受話器の向こうから聞こえてくる。


日曜日なのに自宅でもお仕事なんて大変だ。


きっと肩で受話器を支えながらの作業なのだろう。


でもそれすら羨ましいと思ってしまう。


「私は行こうと思っているの。だから香子も一緒にどうかしらって。きっと香子がいると思って真行さんも許してくれたんだと思うの」


 すかさず香子が返事をする。


「真行さん、真行さんって。規子は本当に真行さんのことが好きねぇ」


 それを言われると、どうしていいかわからなくなる。


からかうような口調であれば尚更。


「いいわよ。行くわ、同窓会」


 意外にもあっさりと香子は合意してくれた。


頑固な彼女を何が動かしたのかはわからなかったが、私としては何よりだ。


これで後ろめたい思いをしなくて済むし、万が一にでも一人になることはない。


ちょっとした安心感が生まれた。


「それじゃあ、またね」


 私が言葉を発する前に香子は電話を切ってしまった。


そういうところは相変わらずだ。


しかし、同窓会行きが決定したことには変わりない。


「さっそくお洋服でも買いに行こうかしら」


 うきうきとした気分でそんなことを口に出してみた。


おしゃれなショップで買おうか、それともゆっくりできるデパート? 


どちらにしても久しぶりのお買い物だ。


明日あたりに街に出よう。


うん、そうしよう。


善は急げというやつ。


ちょうど真行さんも遅くなるらしいし。


いい機会だ。


そろそろ冬物が安くなりかけているかもしれない。


真行さんはセールとかがあまり好きでないけれど、安く買えるに越したことはない。


それにもうすぐ香子の誕生日だし。


早めにプレゼントを選んでおくのもいいかもしれない。


そうと決まれば早速準備をしよう。


 住宅街を抜けて駅の方へ出ると、そこはもう私の知っている日常とは違っていつもドキドキする。


息苦しさとは無縁の自由な世界に近づいていくような気がして。


知り合いなんて、いたとしても気づかない。


そんな世界。


例えるならば、籠からの脱出に成功した鳥みたいな気分。


その例えがしっくりときて、多少の高揚感が私の中に生まれた。


趣味のいい、落ち着いた雰囲気のお店を見つけては足を止める。


その無計画さが私は好きだった。


一人での買い物ならではの充実感がそこにはある。


ぷらぷらと当てもなく歩いては品物を手に取った。


それは透明な香水入りの小瓶であったり、ころころとしたキャンディーだったりした。


私の目に留まるのは我が家のシンプルな空間に似つかわしくないものばかりだった。


香子なら何がいいのだろう。


先ほどまで夢中でウィンドウショッピングを楽しんでいたが、ふと香子の誕生日のことを思い出した。


昨年はハンカチ、一昨年はネックレス、その前は……チョコレートだったかしら。


そんなことを思いながら歩みを進める。


すれ違った高校生からきつめの安っぽい香水の匂いがした。


スカートもあんなに短くして、見ているこちらが恥ずかしくなる。


そのくせマフラーをしっかりと巻いていて、スクールコートを羽織っているので、矛盾しているように思えてならない。


でも、これがあの子たちの普通なのだと思うと不思議だった。


苦労知らずの世間知らず。


そんな女学生だった私が惨めだった。


あの子たちは私なんかよりもずっと世慣れているように見える。


何が違うのだろう。


その子たちの行方を見守っていると、カフェに吸い込まれてしまった。


平日の午後三時。


ちょうど今年最後の期末テストの頃だからか、街のカフェはどこも学生さんで賑わっている。


「せっかくだし、入ってみようかしら」


 平日の昼間からカフェへと足を運ぶ。


昔憧れだったことを今になって実行する。


そのことが気分をさらに高揚させた。


どこに入ろうか少し迷って、一度だけ真行さんと行ったことのあるお店にした。


大きなマグカップにたっぷりのココアが、こんな冬の寒い日にぴったりだと思ったからだ。


そこにはたくさんの本が置いてあるのも魅力的だった。


 私はいそいそと店内に入り、案内されたテーブルについた。


ほどよく混でいて、居心地がいい。


注文したココアがくるのを待ってから、選んでおいた絵本を開いた。


かじかむ手をココアで温めようと思っていたのも忘れて。


それは『ぐりとぐら』だった。


これを読むといつもパンケーキが食べたくなる。


メープルシロップが惜しみなくかかった上に溶けかけのバター! 


なんて最高な組み合わせなのだろうと、うっとりしてしまう。


これこそシンプルな贅沢というやつ。


ああ、パンケーキも注文すればよかった。


そんなことを思ったが、いつも全部食べきれないので我慢する。


「ねえ、『ぐりとぐら』と言えばパンケーキだけど、それって『バムとケロの日曜日』でも一緒よね」


「それを言うなら『チビクロサンボ』もだろう」


 楽しそうな男女の声が不意に耳に入ってきた。


なんだか聞き覚えのある声だ。


店の奥を覗き込むようにして見つめてみた。


視線の先にいるその男女の姿を見て、


「あっ」


 と声をあげてしまいそうになった。


香子と真行さんだ。


慌てて口を両手で押さえてから、また目線をそちらへ移動させた。


どうしてこんなところにいるの? 


なんで二人きりなの? 


テーブルの上のパンケーキは一つだけなのに、なんでフォークは二つもあるの? 


「なんで……」


たくさんの疑問が頭の中に浮かんでは消えていった。


幸い二人とも私のことには気づいていないようだ。


もはや二人だけの世界。


こんなに近いところにいるのに気づかれないとは。


私はまるで二人のためのお芝居の脇役のようだった。


やや冷静になって考えてみる。


私と香子はよく似ている。だけど私がくたびれかけている一方で、香子は輝いている。


そりゃあ、同じ顔の私たちからどちらかを選ぶなら、間違いなく香子だ。


香子は賢いし、話もおもしろいから尚更。


香子の方が先に真行さんと出会っていたら、きっと二人は結婚していただろう。


これはたぶん浮気というやつだ。


今すぐ二人を問い詰めたくなったが、なんとか思い留まった。


はたから見ればすごくお似合いな恋人同士みたいだったから。


なんだか私が怒るのも申し訳なくなってしまうような。


私たちは似ているから、男性の好みまで似ているのかもしれない、とさえ考えた。


余裕があったわけでなく、混乱を通り超して冷静になっているだけだ。


ただ目の前の出来事は全く現実味を帯びっていない。


一瞬、私と真行さんが結婚しているという事実が嘘ではないかと思えた。


しかし、確かにある左の薬指のダイヤの存在がそれを否定してくれる。


リングをそっと指で撫でた。


銀色のそれはプロポーズのときにもらったもの。


真行さんはもう忘れているのかもしれないが。


それでも、私には大切な意味のあるものだ。


そのことを再確認すると、今度はだんだん腹が立ってきた。


私は不妊治療から逃げることができないのに、


「真行さんは私から逃げるのですか」


そんなことを言ってしまいたくなった。


でも、そんなことを実際に言えるはずがない。


不妊治療はお義母さんの言いつけによって始まった。


別にまだ妊娠を焦るような年ではないし、結婚生活二年目で子供がいないのも普通なことだ。


しかしお義母さんにとってはそうでなかったらしい。


まるで私が悪いみたいに、半ば強制的に始まった治療は想像以上に辛かった。


そんな私に彼は何も言ってくれない。


それどころか、こうして密かに香子とデートを楽しんでいるなんて。


「こんなことってある?」


ひどいとか悲しいとかという以前の問題だ。


でも、私は知らないふりをすることにした。


これは決定的な証拠ではないもの。


もしかしたらちょっとした相談事かもしれない。


香子は昔から人にあまり弱みを見せない子だったが、どういうわけかほどよい距離の他人には話すことができていたから。


きっとそうだ。


私はそっと店を後にすることにした。


それからの数日間私は何度も真行さんのケータイを覗こうとしてしまった。


決して、してはいけないことだとわかってはいるのだけど、どうしても気になってしまう。


今日の休日出勤は実は嘘で、本当は香子とデートなのではないのだろうか。


そんな考えが頭からはなれなかった。


私はただはっきりとさせたいだけ。


私と香子のどちらが大事なのか。


うっかり真行さんのケータイに手を伸ばそうとしている自分を諌めているうちに、同窓会の日はやってきた。


私と香子はやっぱり似ているのだと思い知らされた。


示し合わせたわけでもないのに同じワンピースを着ていたのだ。


「さすが双子ね!」


 と言われたが、急にあの日買ったベージュのワンピースがひどくみすぼらしく思えた。


だって、香子のセンスのいいネイビーのそれがとてもステキだったから。


いや、きっと服の問題ではない。


着ている本人の問題だ。


体型も顔もほとんど同じ私たちだけど、何かが違う。


それを探り当てるように香子を見つめた。


するとわずかな変化に気がついた。


コートの上からでもじっくり見ればわかる。


お腹が微かに膨らんでいたのだ。


私の視線に気づいたのか、


「四ヶ月なの」


 と香子は耳元でささやいた。


甘くて優しい「お母さん」の声だ。


幸福そうな笑みが頭にこびりついて離れなかった。


だけど、お腹を撫でるその手には、指輪なんて存在しない。


はっきり言って気が狂いそうだった。


ずるい。


私があんなにがんばっても手に入れることのできない幸せを、彼女はいとも簡単に実現してしまった。


あの膨らみの中に胎児が丸まっている姿を想像するだけで嫉妬してしまう。


もしかして真行さんとの子供なの? 


そんな不安が一気に胸に押し寄せてきた。


もしそうならば香子はシングルマザーになってしまうのか。


たしか結婚はしたくないとよく言っていたはず。


それとも方針転換をして私と立場を逆転させるのか。


そんな恐ろしい想像が頭の中を埋め尽くした。


 香子の子供が私のお腹に宿ればいいのに。


そうして私がその子を、お腹を痛めて産んであげられたらどんなにいいだろう。


きっと乳の匂いでいっぱいの、小さな赤ん坊を。


そのふにふにの体を私の両腕で支えてあげたい。


そして「美香子」と名付けられたら……。


どうしても生命の神秘を感じたかった。


 あんなに楽しみにしていた同窓会のことはほとんど覚えていない。


香子の妊娠があまりにも衝撃的過ぎて。


疲れ果てて家に辿りつくと、真行さんが玄関で待ち構えていた。


「どうしたんですか?」


 と尋ねると同時にクラッカーのパンッと弾ける音がした。


わずかに辺りが煙たくなる。


その発生源は他でもない真行さんだ。


「あの、本当にどうしたんですか?」


 何があったのだろうかと段々心配になってきた。


「どうしたって、ほら。今日は規子の誕生日だから」


 そこでようやく私は合点がいった。


当の本人である私がすっかり忘れていたのに、よく覚えていたものだと感心してしまった。


差し出された包みを受け取ると、恥ずかしそうに、


「こういうのはきっと香子さんのほうがセンスがいいと思って、選ぶのを手伝ってもらったんだ」


 と告げた。


なんだ、どうやらこの間のことは誤解だったようだ。


ありがとうを伝えると同時に涙が溢れてきた。


なんだ、私は十分幸せ者ではないか。


こんなステキな人の奥さんになれたのだから。


 後日。


香子は女の子を産んだが、私はもう嫉妬なんてしなかった。


心から姪の誕生を祝うことができたことに安心する。


香子は嬉しいことに子供の名前を私から取って「美規子」にした。

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美香子と香子 海月 @jellyfish27

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