痛みが沁みていく

あざらし

虫歯と母について

 味付けの濃い、濃すぎるくらいの惣菜パンをかじっていると、不意に奥歯のあたりが痛んだ。めちゃくちゃな激痛というわけではなくて、なにか沁みるように疼くように、しくしくと痛む。俺は思わず咀嚼するのをやめた。舌の先で痛みを感じるところをなぞってみたけど、特に変わった感触はないように思える。

「どうかした?」

 机をくっつけて一緒に昼飯を食っていた里美が不思議そうな顔をする。俺は「なんでもない」と答えた。そのあとで少し考えて、やっぱり「虫歯かもしれない」と言い直した。

「虫歯」

 里美はまるで自分がそうなったかのように、痛そうに表情を歪めた。

「痛い?」

「ん……それなりに」

 少なくとも、パンのような柔らかいものを食べることにさえ多少の影響はある。ただ、思っていたより痛くはないなと思った。フィクションに見る虫歯は大の大人に涙を浮かせたりする。それほどの痛みはなかった。そこまで考えて、これまで虫歯になったことがなかったことに、俺はふと気が付いた

 食べかけの焼きそばパンを口に放り込み、大まかに噛み砕いて喉へ流し込む。水が患部に触れると、やはり痛い。いままではまったく何も感じていなかったのに、一旦異常を自覚してからはやたらズキズキと気にかかる。頬を押さえると、里美がまた少し痛そうな顔をしていた。


 午後からの授業はまるで集中できなかった。耐えられないほどの痛みではないけど、そもそも不足がちな俺の集中力を乱れさせるには十分だった。眠ることもできずうわの空でいたら、担任に注意を受けてしまう。まったく踏んだり蹴ったりだ。

 とにかく、虫歯になったからには歯医者に行かねばなるまい。昼の様子を見るに、里美はたぶん虫歯になったことがあるはずだ。帰り道、俺は里美に「歯医者ってどこにある?」と訊ねた。

「駅の近くにあるよ。ロータリーの奥……白い建物、見たことあるでしょ」

「ああ」俺は頷いた。「あれ、歯医者なのか。宗教施設かなんかだと思ってた」

「歯医者さんだよ。あそこ、先生が優しい人だからいいよ。うちらの家の裏手にもあるけど、あっちはちょっと……ね」

「へえ。詳しいな」

「大事なんだよ、先生がどんな人かって。怖い人だったらトラウマになるよ」

「里美は、トラウマになった?」

 なんとなくそうなのだろうと予想しながら訊いてみると、里美はやはり深く頷いた。すると里美は二回以上虫歯になっていることになる。昔から甘いものが大好物な彼女なので、それも納得ではあった。

 里美とはマンションのエントランスで別れた。階段で三階まで上がり、家の鍵を開ける。うちはあまり日当たりの良い部屋ではなくて、日中でも明かりを付けなければ薄暗い。リビングの電灯にスイッチを入れ、通学鞄を適当に放り出して押入れの中を探った。里美が言うには、歯医者にかかるのにも保険証がいるらしい。そういったたぐいのものはまとめて母さんが管理していたので、どこにあるやら見当も付かなかった。電話して親父に訊いてみようかとも思ったが、たぶん仕事中だろうし、そもそもあの親父が把握しているかは怪しい。なにせ酒と煙草を愛好する昔気質の粗野なおっさんである。

 やみくもに探してみたが、それらしいものは見当たらない。どうしたものかと思って俺は母さんに目を向けた。正確には、母さんの遺影に。

 母さんは死んだ。ほんの一年ほど前、俺がまだ中学一年だったころの話だ。聞いたこともないような病名だった。あとで聞いた話では、母さんは生まれつき身体の弱い人だったらしい。俺の前ではいつでもガミガミと口うるさく、そんな素振りはちっとも見せなかった。聞いたときには随分驚いた覚えがある。

 俺は母さんとの仲があまりよくなかった。かといって親父と仲良くしていたわけでもなく、つまりきっと反抗期と呼ばれる時期だったのだろう。通夜のときも葬式のときも、泣くこともできなかった。

 俺がリビングの角にある仏壇に手を合わせたのは、ほとんど気まぐれのようなものだった。この手の作法についてよくは知らないが、親父の真似をして線香など灯してみようと思い、仏壇の前の抽斗を開けた。すると、そこに通帳があった。名義人は親父で、取り出してみるとその下からキャッシュカードやら年金手帳やら車検の案内状やらが出てきて、ついでに三人分の健康保険証も見つかった。俺は思わず少し笑ってしまった。母さんが死んでもなお、親父はこういうものを母さんに管理してもらっていたらしい。

 時計を見ると、まだ夕飯まではかなり時間がある。とはいえ駅前まで行くのは面倒で、俺は近くの医院に行くことにした。里美はああ言っていたが、小学生じゃあるまいし、トラウマなんて大げさだと思ったのだ。


 診察時間は六時までと看板に書かれていて、俺はひょっとすると診てもらえないかもしれないなと思った。病院はいつでも混み合っている印象がある。しかし予想に反して、その歯科医院はガラガラだった。待合には連れ合いらしきお年寄りがふたりいたが、受付を済ませると十分程度で俺が呼ばれた。

 治療室というのか、その部屋に入ると少し気分が苦くなった。椅子のそばに備え付けられた照明や洗浄台のほか、名前も用途もわからない治療器具の数々。医療に使われる設備というのは、いつでもどこでも独特の威圧感がある。

 椅子に座ってしばらく待つと、初老を感じさせるくらいの男が入ってきた。医師の身長はどちらかと言えば小柄なくらいだったが、顔立ちは険しく、声はしゃがれて、何か話すとき必ず眉間にしわが寄った。もしかしたらこの顔が里美を怖がらせたのかもしれない。

「初めての方ですね」

 眉間にしわを集めながら言う医師に、俺は頷いた。

「よろしくお願いします」

「はい、よろしく。じゃあ早速、口を開けてもらおうか」

 簡単な説明を受け、口の中をミラーで引っかき回される。痛みを感じた箇所はやはり虫歯だったらしい。進行の度合いとしてはまだ軽い方だが、ある程度は歯を削らないといけないと言われた。

 噂に聞いたことのあるドリルの高音を聞くと、さすがに少しばかり腰が引けそうになる。とはいえ椅子に座らされて逃げ場もないわけで、俺はなすすべもなく歯を削られた。実際に受けてみるとそれほどの痛みは感じず、まあ歯は骨のようなものなのだから当然かと安心もする。よほど悪化していれば痛みも強くなるのかもしれない。俺は開けっ放しの口が乾く不快感のほうがよほど辛かった。

 滞りなく治療を終え、うがいをしていると、医師が「最近ちゃんと歯を磨いていないだろう」とおもむろに言った。

 俺は反射で否定しそうになったが、思い返してみるとそのとおりかもしれなかった。基本的には一日二回、朝と晩にやる習慣は昔から変わっていない。ただ、最近は――母さんが死んでからは、夜ふかししてそのまま寝落ちたり、朝寝坊してその暇がなかったりすることが増えた。

「歯を見ればそのくらいわかる。ちゃんと磨かないと、今度はもっと酷い虫歯ができるよ」


 思い出したことがあった。

 生前、まだ口数の多かったころの母さんは、俺の学校での生活や日常の習慣についてよく言及していた。宿題をやったか、忘れ物がないか、友達とはうまくやっているか、勉強に遅れがないか。夜はしっかり眠れているか、運動もしているか、ちゃんと腹いっぱい食べているか、――歯は丁寧に磨いたか、他にもたくさん。入院したあとすら、それは変わらなかった。

 俺は生まれてから一度も大病を患ったことはなく、おおむね健康に生きてきた。身体が丈夫なぶん体育が得意で、勉強は得意でないなりに平均程度の成績は取れている。友達もちゃんといる。

 俺の日常、なんてことない生活のあらゆるシーンに、母さんの口うるささが見え隠れしている。

 母さんは死んだ。不在の実感をこんな形で得るなんて、情けないったらなかった。


 家に帰ると、珍しくもう親父が帰ってきていた。仏壇の抽斗から取り出したものをそのまま放っぽって出かけていたせいで、何をしていたのかと問い詰められる。俺は素直に歯医者に行くのに保険証を探しただけだと言った。

「それより親父、なんでこんなに帰ってくるの早いんだよ」

「馬鹿。一回忌だろうが」

 リビングのカレンダーを見上げる。無精者の男やもめ、ほとんどまっさらだったはずのカレンダーは、今日の日付にだけ荒っぽい丸印が付けられていた。

「……そうだっけ」

「そうだよ。宗教とか知らねえし、別にうちで何するわけでもねえけどな。供え物くらいやっとかんと」

 親父はそう言って、仏壇にのしが付けられた四角い箱を置いた。パッケージは見えない。でも、中身は直感でわかった。母さんが好きだった、有名店のバターサンドだ。親父は母さんの前に線香を灯し、静かに手を合わせた。そうしている親父は、普段の粗忽でぐうたらな姿とはかけはなれた、とてもまじめな男に見えた。

 俺も隣に膝をつき、同じように手を合わせた。彼岸だとか此岸だとか、いままでまったくぴんと来ていなかった俺だけど、そのときは親父とも似た気持ちで、初めて素直に手を合わせられたと思う。


 晩飯を食ったあと家のチャイムが鳴った。親父はもう酒でぐだぐだになっていたので俺がドアを開けると、紙袋を提げた里美がいた。聞けば母さんにお供え物を持ってきてくれたらしい。どうせなら家に上がってもらおうかと思ったが、里美は「もう遅いから」と言って遠慮した。

「それ、おまんじゅうだから早めに食べてね」

「わかった。ありがとう」

「あ……もしかして、虫歯だから困る?」

「いや、平気。もう歯医者行ったから」

 里美は目を丸くした。「早いね」

「だって、早い方が良いだろ」

 俺が家の裏手にある歯科医院に行ったことを伝えると、里美はちょっと意地悪そうな顔で「どうだった?」と言った。里美としてはたぶん怖がってほしかったのだろうが、残念ながら怖いということはなかった。ただ、それとは別に色々思うところがあったのは確かで、俺は迷った末にこう答えることにした。

「とりあえず、もう二度と行かねえよ」

「トラウマになってるじゃん」

 そう言って、里美はくすくす笑った。


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