Night Saddest Extension 【ニヒスカ第一章】

慎み深いもんじゃ

第一話「ビニール傘と雨と錆」

「冷たい記憶」

……………。


 俺には、冷たい記憶がある。

 たしか、冬の日だっただろうか。…

 思い出せるようで、思い出せない。そんな、記憶の限界の出来事。




 その日は、季節に似合わず雨が降っていた。

 ざあざあと、ざあざあと。隙間のない土砂降りが。


 気持ちに穴が空き、考えうるすべてのことを諦めきって、

 生きる目的が無く歩いているまま辿り着いた、見知らぬバス停。


 なんの目的もなく、ただそこに座り込んでいた。


 俯き…視線は何処に向ける訳でも無い。

 ただ、下。ずっと下を見つめて…ぼんやりと絶望を噛み締めていた。


 誰も…俺のことは、見ちゃあいなかった。俺のことなど、必要とされていなかった。俺はかれらにとっては、居ても居なくても同じだった。…家族も。友達も。「君を保護する」と言った人間達ですら。…本当は、俺のことを見てはいない。


 ざあざあと、ざあざあと。


 結局は、憐みなのだ。俺ではなく、俺に起こった「同情すべき事実」を見ているだけだ。俺を見て、自分の正当性と信頼性を補強するためだけに、歩み寄るのは俺を利用したい目的に過ぎないのだ。…結局、誰も俺を見てはいない。俺の人間として最低限の価値を傷つけるか、利用するか、その二つでしかない。

 …俺という人間は、必要とされてはいなかったのだ。俺には、何も出来ないのだ。

 …本能的に後を付いて行っていた兄さえも、『逃げる』という選択をした。それでいて、俺にはそんなことをする気も起きなかった。…何も、したくなかった。


 ざあざあと、ざあざあと。…それだけしか耳に入ってこない中。

 今にもかき消されそうな靴音が、目の前で止まったのを感じた。


「やあ、こんにちは。藤岡ふじおか齋兜さいと君。随分ふしあわせそうだね」


「……」


「…誰だよお前、って顔ね。話したことは無いけれど、案外君の近くにいたことがあるんだが…ま、だよ」


「…養護施設の人間か」


「ああ、たまーに顔を出していただけだからね。

 …そうか。まあ…、覚えてくれているとは思っていないよ」


 すると、追いかけてきたのか?


「…すぐに帰る」


「分かってるよ。そんなこと、心にもないんだろ? だがだからってことじゃ無いけど…、いいんじゃないかな? 君はしあわせになっても」


 ビニール傘の中から、屋根の下、小さくなる俺に言う。


「わかるよ。君の気持はよくわかる。嫌なんだね? もう、自分の日常の全てが…耐えられないんだよね? …すごくわかる。だけど…君がどうなろうと、私は構わない。所詮赤の他人だからさ! 私が一番優先すべきなのは、君の心だ。『しあわせになりたい!』『自分のしたいように生きていきたい!』…っていうね」


「よくわからない…何を言っているのか」


 ポツリ、と、冷たい雨粒が屋根の下に入り、俺の頬に当たる。


「君が…したいようにすればいい! それこそがハッピーエンドだ! …だが、君は今のままでは、『本当の最高にしあわせな終わり』を迎えられない。ひとりではね。だから…私も同じように、したいようにする。君のしあわせに、私が手を貸そうと言っている。…それが、私のハッピーエンドだ」


「…「手を貸そう」だって? …俺はそんなこと望んじゃいない。もう、何もしたくない。…何もせず、ここで野垂れ死ぬんだよ。それでいいんだ、もう…」


「…私はね。キミを傷つけたりはしない。キミは、いくらでも逃げればいい。…だが、ただ死んじゃうんじゃあ、それは『諦め』だろ? カッコ悪いだろ。…人という生き物は、一人では生きていけないのさ。私が里親、君が逃げおおせた後のねぐらを提供してあげる。…ねえ、齋兜くん。この街を離れてさ、私の街に来ないか? つまり、…今を捨てないか?」


「今を…捨てる」


 心からは、頷けない。


「———私が信じられないかい?」


「…信じられない」


 俺の日々には、苦痛。そのほかは、もはや何もなかった。

溺れて死んでしまうのを待つよりも、はやく水面を見たいとは思っていた。

はやく、自分を不自由なく飛び回れる景色を見たいとは思っていた。


「私の名前は口釜くちがま孤織こおり。君の姉にも、母親にもなろう。今日から君は私の家族だ。君を、最高にしあわせなまま”終わり”まで導いてあげるよ」


 …捨てないか、だと。

 たしかに、こんな今を考えれば、未来に騙されてしまっても仕方ないものだったかもしれない。過去を見て、後悔する暇もなく。「しあわせ」かどうかなど、どうでもいい。…ただ、早く…、一刻も早く、このつまらない劇を終わらせてほしい。


 その一心だった。


***


 俺には、「今」を捨て去るだけの精神力がなかった。

ただ他人ひとの手を握って逃げることは出来た。…それだけだった。

逃げて、逃げて、逃げて……知らない街に辿り着いて、

そのまま一生を終えられたら。

もといた場所になど、戻る必要がないとしたなら、

どれだけ良いことかと思っていた。


 確かに、俺は幸せだった。この街で生きることが。

ただ、時間が経っていくのが何よりも憂鬱で。


時間が俺に、どしてこんな所にいるのだと問いかける。

こんなことをしていていいのかと。


いくら逃げても、捨てることは出来なかった。

俺はずっと、思い返し続けていた。


あの日。俺には何が出来たのか――—…

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