花開く。
「宇佐美!」
角を曲がったところで、商店街の奥で立ち尽くしている宇佐美を見て、思わず走り出す。
――嘘だろ。
狭い路地裏商店街を駆け抜ける僕に、道行く買い物客が何事かと振り返っていた。
れんげ草があったはずの場所は、がらんとした空き地となっていた。
切り倒されたポプラの切り株だけが、虚しく残っている。
「なんで!?まだ向かいの家の取り壊し、終わってなかったじゃないかっ」
残りの一軒は、まだ丸々残っている。
こっちが終わってから取り掛かるのだと、勝手に思い込んでいた僕も悪いが、まさか急にこんなことになるなんて。
宇佐美から連絡を貰うまで、想像もしていなかった。
「だって……昨日の夜、ここで美鈴さんに会ったのに……夕方に来るから、話……聞いてほしいって……」
言葉に詰まる。
後ろで解体作業するためにやって来た業者が、怪訝な顔で僕たちを見ていた。
「西野君。とりあえずここ離れよう。見てると、きついでしょ」
弱弱しい声で宇佐美が僕の背中を押す。
促されるままに、僕は今走って来た道を力なく歩いた。
足が重い。
いきなりこんなことになるなんて。
それ以上、何も考えられなかった。
昼下がりの商店街を行きかう人々の声も。
通りすがる客に威勢よく呼びかける店の人の声も。
何も耳に入ってこなかった。
「私が行った時には、もうポプラは切られて、れんげ草も無かったの。でも……」
山と田畑に囲まれたあぜ道で、無言で歩いていた宇佐美が足を止めた。
月夜神社の鳥居を見上げると、肩から掛けていた鞄の紐をきゅっと強く握る。
「昨日、夕方にお店に行ったの。美鈴さんに会いに。いつ切られるかわからないから、ここ数日の報告と、今までのお礼と。聞きたいこともあったから」
「聞きたい事?」
桜の季節を終えた月夜神社の木々は、新緑が陽射しを透かして煌めきながら葉擦れの音を立てていた。
「昨日行った時、美鈴さんどこか寂しそうな目をしてたんだ。だからさ、もしかしてと思って。西野君に何か伝えておきたいことは無いの?って聞いたの。言いたいことは、言える時に言わなきゃいけない。伝えたい人が目の前にいる時間っていうのは、実は本当は凄く貴重な時間だから。そしたらさ――」
宇佐美は、すぅっと澄んだ青い空気を胸に吸い込み、ゆっくり吐き出す。
「人は私たちと違って生きる時間があまりにも短い。私が置いて行かれる立場ならまだしも、西野さんを置いて行ってしまう状況では、これ以上彼の感情を大きくして悲しませたくない。短い彼の人生を、悲しみで埋めたくない。ここに来てくれるお客様との時間が本当に幸せで、西野さんの気持ちもまた、とても嬉しかった。って言ってた」
宇佐美の言葉に、茫然と足元に目を向ける。
僕が伝えた気持ちは、美鈴さんにとって重荷になったのだろうか。
これからの自分の事でもつらいだろうに、僕の自分勝手な感情が、美鈴さんを悩ませてしまっていたのだとしたら。
寂しい目をしていたと言った宇佐美の言葉が、僕に酷い後悔の念を抱かせる。
もう居なくなってしまった美鈴さんには、僕は何もできない。
ただ悩ませてしまったという事実だけが、心に暗い影を落とす。
足元では、春の暖かい風に、ムスカリの花が気持ちよさそうにそよいでいた。
静かな田舎道。
僕たちの遥か頭上を、トンビが雄大な空を旋回していた。
ぴゅー ひゅるるるる
のどかで平和なこの光景が、今の僕たちの心境とのあまりの違いに気が遠くなりそうだ。
カサカサッ
何を話すわけでもなく立ち尽くしていた僕と宇佐美の背後の草陰で何かが動く音がした。
「みーこちゃん!?」
宇佐美と僕の声が重なる。
聞きたいことが頭の中でこんがらがり、言葉として出てこない。
「なんで、みーこちゃんがここに?」
宇佐美が、鳥居の傍の草陰から姿を現したみーこちゃんに歩み寄る。
「美鈴さんは……いなくなっちゃったの?」
僕も何とか言葉を絞り出した。
みーこちゃんは、小さく頷いた。
「美鈴さんは、今は眠っておられますぅ」
みーこちゃんが、肩を落として俯く。
「今朝早くにポプラが切られてしまったのです。急な事で、ちゃんとご挨拶も出来ずにごめんなさい。美鈴さんに、謝っておいて欲しいと言われたので、こうして出てきました。あと、皆さんにお願いが……」
そう言って後ろを振り返ったみーこちゃんの足元から、アキがひょっこりと顔を覗かせた。
「アキ!」
そうだ。アキは普通の犬だから、れんげ草が無くなった今、行く宛てがないのだ。
みーこちゃんが、アキの頭をよしよしと撫でる。
「僕がアキを引き取るよ。幸い、ペットを飼っても大丈夫な家でね。宇佐美も、良いかな」
宇佐美が今住んでいるアパートは犬を飼えないらしく、安心したように頷いた。
みーこちゃんが「ありがとうございます!」と頭を下げると、アキも三本足でこちらに降りてきて、僕のふくらはぎに体を摺り寄せた。
「そういえば、美鈴さんの事だけど。さっき眠ってるって言ってたよね。消えてはいないの?」
宇佐美が聞くと、みーこちゃんは「こっちですぅ」と階段の上を指さす。
階段を上るたびにぴょこぴょことツインテールが揺れるみーこちゃんに着いて行くと、足を止めたのはあの階段脇の苔むした祠だ。
「カフェが消えてしまう時に、美鈴さんはこちらに戻ってきました。僅かでもこの場所なら霊力がありますから。でも、いつまでもつか……」
みーこちゃんの声は暗い。
祠に向かって背筋を伸ばしたみーこちゃんは、小さな両手を揃えて目を瞑った。
その様子を見ていた宇佐美が、気付いたように声を上げた。
「私たちがお参りに来ようよ!人がお参りし続けたら、神様とか、神様として崇められた妖怪は暫く生きていられるんでしょ?この前、家に来てたトモエって妖怪が言ってたの。昔、私とお姉ちゃんがお参りしていたから消えずにいられたって。よーし。そうと決まれば!」
突然やる気を出した宇佐美は、上着ごと袖を捲し上げ、髪をゴムで縛る。
手始めに、階段横から草をむしり始めた。
「ほら!西野君はゴミ袋買ってきてよ!あと軍手もね、急いでよ!私の繊細なお肌が荒れちゃうから!」
みーこちゃんが、宇佐美に続いて張り切って草をむしり始めた。
アキはその周りで尻尾を振って笑っている。
言われるがままに、急いで来た道を路地裏商店街まで戻る。
年老いた女性が切り盛りしている小さな商店にやって来た。
店に入ると、50代くらいの男性が商品棚の拭き掃除をしていた。
こちらから尋ねる前に、男性が自分は息子で仕事を退職し、数週間前から店の手伝いをしているのだと教えてくれた。
「庭の草むしりでもするのかい」
男性が、愛想の良い笑顔でゴミ袋と手袋、ついでにペットボトルのお茶を袋に詰めながら聞いてきた。
「そこの……月夜神社の参道の草むしりをしようかと思ってるんです」
すると、感心するように「へぇ、えらいね」と目を丸くした。
「実はね。俺も近いうちにやろうと思っていたんだよ。家はあの向かいの田んぼを持っててね。ほら。そこでお茶飲んでるお袋が、昔母親とよくお参りに行ってたんだって」
そう言って男性が、一段高くなった奥の和室に目をやる。
灰色の髪をお団子にまとめた、人の良さそうなおばあさんが、こちらに気付いて「いらっしゃい」と会釈した。
「まぁ、もう年だから流石にお袋は連れていけないけど、俺だけでも行こうかと思っててね。あぁ、でも町内会でもあそこの掃除を再開する話が出てるから。まぁ若いもんが少ないから、頻繁には無理だろうけどね。はいよ、おつり」
商品の入った袋を受け取り、もう片方の手でお釣りを受け取る。
「是非お願いします。あと……良かったら、参道の祠にも手を合わせて頂けませんか」
「勿論そのつもりだよ。お袋が母親とお参りしてた神様ってのが、その祠の神様らしいからね。台風やら大雨やらで大変な時に世話になった神様がいる場所だから、死ぬまでにやりたいって言ってるんだってさ。母親は信じてくれなかったらしいけど、子供の時のお袋は一度だけ、そこで綺麗な女の神様を見たらしいんだ。その時はびっくりしすぎて声は掛けられなかったらしいけど。まぁそんな話されちゃ、あんな草ぼうぼうで放っておけないよね」
そう言って、威勢よくガハハと笑った。
僕はそんな男性と、その奥の部屋でテレビを見ながらお茶をすする女性に頭を下げてから店を出た。
宇佐美とみーこちゃんでむしった雑草が、山なりに積まれていた。
さっき買って来たゴミ袋に詰めていくと、あっという間にい45リットルのポリ袋が一杯になった。
二人に軍手を渡し、自分も大きいサイズの軍手をはめて祠の屋根を埋め尽くしている苔をはがす。
水分を含んだ湿っぽい苔。この祠に美鈴さんが眠っている。
れんげ草に来る前なら、こういう場所は恐らく特に興味も示さなかっただろう自分の変化に、少し不思議な感じがする。
宇佐美に会っていなかったら、自分の目に見えない事も現実に存在するだなんて、信じられなかった。
堤さん、マキちゃん。あのお店のお客さんに出会っていなかったら、世の中には良い人も沢山いるんだと。
みんな、悩みながら生きているんだと思えなかったかもしれない。
美鈴さんに会ってなかったら、僕はこんな風に誰かと関わろうなんて思わなかった。
自分の人生に自信を持てなかった、自分が時々人の役に立つのかわからなくて不安に駆られていたのを美鈴さんが励ましてくれたから、僕は今も自信を持って仕事にも通えているのだ。
れんげ草に行かなかったら、今の僕はいなかっただろう。
そう思うと、この途方もない草むしりの作業なんて、どうってことないと思えてくる。
僕たちは黙々と作業を進めていた。
気付けば、真上にあった太陽も次第に山の向こうに沈もうと強い西陽を放ち、空を黄金色に染めていた。
「お二人とも十分です。ありがとうございます」
手を止めたみーこちゃんが、軍手を外して僕たちに頭を下げる。
祠の周りはもちろん、参道も階段にせり出していた草が無くなり、落ちていた枯れ葉も掃除したため、見違えるほどにすっきりした。
肝心の祠も、出来る限りの汚れをふき取り、草に埋もれていた以前の姿はもう無い。
「うん。とりあえず今日はこんなもんね。はい。お疲れさん!私、仕事帰りに毎日寄るし、ここの手入れをしに休みも来るわ。どうせここまでやったなら、上の神社までやっちゃいたいじゃん?」
宇佐美の意見は賛成だ。
ここの祠の霊力が僅かながらにも維持されているのは、長年人々が訪れていた月夜神社のお陰もあるだろうし、綺麗にしておけばまた人が集まるかもしれない。
階段に横並びに座って、飲みかけていたお茶を飲む。
アキも僕たちの一段下に座り、一緒に眼下に広がる夕暮れ時の田畑と山々を見渡す。
眩しい黄金色から、徐々に落ち着いた茜色に染まりつつある空を、飛行機雲が切り裂くように山の向こうにむかって続いている。
その下の田んぼでは、ピンク色の小さな花たちが満開になり、春の夕方の風に小刻みに揺れていた。
「ねぇ、西野君。私、番号教えたのに全然連絡くれないよね」
宇佐美が不満そうに僕を横目でにらむ。
正直、同級生とはいえ連絡しづらい。
スマホに登録はしてあるが、メッセージ機能を使ってこちらの番号を伝えた切りだ。
「ま。良いんだけどさ。でも西野君は良いよ。いつ連絡してくれてもさ。君はとってもいい人だもん。前はスマホが大嫌いだったんだけど、今は西野君くらいしか連絡とる友達はいないし。西野君と再会して昔の君を思い出したんだ。私はいつも誰かと一緒じゃなきゃ不安だった。対して西野君はいつも独りで戦っていた。そこから力を貰ったんだ。まぁ結果、友人一人失くしたけど今はスッキリしてる」
――僕が宇佐美の力に?
当時は知らなかった、宇佐美が僕への虐めを無くす為に色々としてくれていた事への恩を、少しは返せているという事だろうか。
宇佐美は、ペットボトルの底に数センチだけ残っていたお茶を一気に飲み干してキャップを締めた。
「私ね、引っ越すんだ。心機一転、やり直すの。昨日、美鈴さんに報告したら、喜んでくれたんだ。頑張ってって言ってくれたよ」
美鈴さんの、優しい笑顔が思い浮かぶ。
もう暫く会えないと思うと、胸が締め付けられる。
宇佐美は、自分が幽霊や妖怪が見えるのに、本当に見たい人。お姉さんが見えない事が何より辛かったらしい。
それが、トモエという妖怪に、自分が姉が亡くなった事実に囚われ過ぎているから、お姉さんは心配して姿を見せないのだと言われたのだそうだ。
「多分ね、あの場所で姿を見せたら、いよいよ私があの家から離れなくなって、死んだ人間の背中を追いかけ続ける事になるってわかってるんだと思う。もうさ、心配させたくないんだよね。父親が子供の頃に事故で亡くなった時も、お姉ちゃんは憔悴した母親に代わって私の面倒を一生懸命見てくれてさ。社会人になっても辛い思いばかりして。でも、私は呑気にさ。助けてあげられなかったから」
宇佐美は目の前の風景を見つめて、声をわずかに震わせる。
泣いているのだろうか。
僕は、彼女の方は向かずにまっすぐ山に沈む夕陽に目を向けながら、小さく相槌を打つ。
「美鈴さんが泣いて良いよって言ってくれた時、初めて泣いたんだ。こんな良い歳して馬鹿みたいだったでしょ」
笑う宇佐美に、僕は静かにかぶりを振った。
「でもさ、すごくスッキリした。ただ一人で泣くよりさ。美鈴さんが抱きしめてくれて、すごくあたたかかった。美鈴さん自身は全然体温なんて無かったんだけどね。でも、声が、心が。すごくあたたかかった。まるで、冷たい森の中にぽっかり出来た、陽だまりの中にいるみたいでさ」
すると、宇佐美は「あ!」と立ち上がって田んぼを指さした。
「あれ!さっきから何のお花だろうって思ってたんだけど、れんげ草じゃない?」
こちらを振り向いた宇佐美の目は、うっすらと赤みを帯びていた。
「わぁ!そっかぁ!そうですよぅ。美鈴さん言ってました。『陽だまりカフェ・れんげ草』っていう名前は、大好きな場所から見える大切な景色から取ったんだって」
みーこちゃんが、興奮したように目を輝かせた。
眼下の田畑から駆け上って来た穏やかな風が、僕たち三人と一匹の間をふわりと通り抜ける。
太陽の光をたっぷり吸った緑と土の匂いが、れんげ草で過ごした日々を思い出させる。夕暮れの深いオレンジ色の木漏れ日が僕の足元できらめいていた。
「いつかまた、美鈴さんに会えるように。毎日来るから」
宇佐美も強く頷く。
「みーこも、この場所で美鈴さんをお守りしています。また目が覚めたら、れんげ草のように、あたたかい場所で皆さんとお会いしたいと言っていましたから。それに……」
みーこちゃんは僕を真っ直ぐに見上げ、にっこりと微笑んだ。
「その時には、西野さんが描く絵を見てみたいって言っていましたよ」
深々と頭を垂れてお礼を言うみーこちゃんと別れた僕は、宇佐美とアキと並んであぜ道を歩いていく。
「ねぇ。つらい事があっても続けていた絵、結局何で辞めちゃったの?」
宇佐美が少し聞きづらそうに尋ねた。
「父親がさ。僕の絵が嫌いだって。道具を全部捨てられたんだ。まぁ、大人になって働くようになったし、今は父親とも住んでないから道具を買う事は出来たんだけど、その気力も無くなってたんだ。でも、美鈴さんが見たいって言ってくれてたんだったら、やってみるよ」
描きたいものは決まっていた。
記憶の中にある、陽だまりカフェ・れんげ草の風景。
美鈴さんが珈琲を淹れて、エプロンをつけたみーこちゃんがお盆を手に働く姿。
窓からはポプラの木が見えて、その枝葉を通す太陽の光がテーブルに落としこむ木漏れ日。
「あ。カラス。二羽いる」
宇佐美が指さす一羽のカラス。
一羽だと言うと、宇佐美は「ううん」と空を仰いで微笑んだ。
「いたの。美鈴さんと一緒にれんげ草から見たカラス。子供の白いカラス。亡くなった子供で、今もお母さんカラスと一緒に並んで飛んでるんだよ。お母さんは気付いていないけど、子供の事今でも忘れられないんだと思うよ。だってほら――」
電線に止まった母カラスが、ひとつ鳴いた。
寂しそうと言うよりも。
我が子を呼ぶように、切なく愛おしそうに。
宇佐美の話を聞いた後だからだろうか。
僕にはそう聞こえた気がした。
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