れんげ草の花言葉
4月初旬の夜。
昼間は随分とぽかぽかした陽気の日も増えましたが、夜はこうしてぐっと冷え込む事があります。
ひんやりとした空気が流れ、暗闇の広がる夜の路地裏商店街。
窓からの店の灯りに照らされたポプラの木肌にそっと手を当て、目を閉じる。
――今までありがとう。
鼻の奥がツンとする。目頭が熱くなっていく。
「私にも、こんな人間みたいな感情……いつからあったのかしらね」
どこからか、野良猫が夜空に鳴く声が聞こえる。
綺麗で大きな満月が白く輝きを放ちながら、その周りに虹の輪を作り出していました。
西野さんと最後にお会いしたのは四日前。
今日は、堤さんがお昼にクロックマダムを召し上がりにいらっしゃいましたが、それからはとても静かな一日でした。
みーこちゃんとたまごサンドを食べ、アキは陽だまりでウトウトとする。
穏やかで、とてもゆっくりと時間が流れていました。
「美鈴さぁん」
「あら、みーこちゃん。起きてたの?」
目を擦りながら歩くみーこちゃんの後ろには、三本の足で器用に歩くアキも一緒です。
「眠れなかったのね?」
みーこちゃんが、黙ったまま頷きます。
その小さな頭をそっと撫でると、みーこちゃんが不安げな表情で私を見上げました。
「みーこは、ずっと美鈴さんのおそばにいますよぅ」
みーこちゃんもまた、私と同じ存在。だけど、彼女は私のように弱った者ではありません。まだまだ自由に、色んな所へ行ける身です。
「ありがとう」
みーこちゃんとアキの前にしゃがみ、二人の小さな頭を撫でました。
あたたかく、愛しい存在。
アキはどうしようか。
ふと、そんな不安が過った時。
こんな時間に、思いもよらない人が、路地裏商店街を歩いてきました。
「あなたは――」
そこにいらっしゃったのは、一人の高齢の女性。
杖をついた彼女の隣には、西野さんがいらっしゃいます。
「あらあら……!あの時のままだわ」
女性が私の顔をよく見ようと、目の前まで歩いてきました。
「美鈴さん、この方はミツさんといいます。覚えていらっしゃいますよね」
ミツさんは、私の頬に手を伸ばし「まぁまぁ」と懐かしむように微笑みかけていらっしゃいます。
「えぇ……もちろんです。良かった、お元気そうで……」
こみ上げるものを堪えながら、言葉を絞り出す。
「私は元気ですよ」
ミツさんのが目を細めるとできる目じりの深いしわが、人の年月の流れを感じさせ、胸が締め付けられるのを感じました。
「ここは冷えますから。中へどうぞ。お茶をお入れいたします」
そうして西野さんも一緒に、れんげ草の中へと入りました。
ほうじ茶の芳ばしい香りが、湯気と共にふわりと立ち昇ります。
三人分の湯のみをお盆に乗せ、醤油のお煎餅があったので一緒にテーブルへとお持ちしました。
みーこちゃんとアキは寝室へと戻って行きました。
「素敵なお店ねぇ。ここ、他の人からは見えないんだってね?」
「えぇ……。悩みを持ち、様々な悲しみや苦しみを抱く方が。ここを必要とする方にだけ見えています」
私はお二人にお茶をお出しして、ミツさんと西野さんの向かいに座りました。
「じゃあきっと、私はずっとあなたに会いたいと思っていたから来られたのね。この方と、また神社でお会いしたの。私を待ってくださっていたみたい。私をここに連れて来たかったんですって。私、びっくりしちゃった」
お話をお伺いすると、ミツさんは今は隣町の娘さんのお家にお住まいなのだそう。
事情を話すと、ミツさんが是非すぐに行きたいと仰られたので全てのご用事を済ませた今、いらっしゃられたようです。
「ありがとう。ただ、それが言いたかったの。大人になってから神社に行ってもあなたには会えなかった。ずっと心残りだったのよ。私、学校に行かせて貰えなかったって言ったでしょう?だから、友達も居なくてねぇ。あの時、あの一度だけあなたと遊んだ事がとても嬉しかったの。美鈴さんが、私が見よう見まねで練習した字を褒めてくれたことが、あの頃の私にはとても励みになったの」
ミツさんはお茶をすすり、私をじっと見つめています。
「あら、西野さんは今まで気づかなかった?彼女、歩くと微かだけど鈴の音がするの」
「はい……今更気付きました」
驚いたように私を見ています。
西野さんの反応も無理はありません。何せ、この音をわからないようにするためもあって、この店には常時音楽を掛けていたのですから。
皆さんが落ち着いて過ごせるよう、日常の一部として違和感無くここに居られるよう。何か良いものは無いかと思っていた時に、チコさんから供えて頂いたCDを掛ける事にしたのです。
彼女は私の姿は見えていなかった。だけど、私に足しげく手を合わせに来てくださり、夢を語っていたチコさん。
彼女の前向きで、人生をめいっぱい生きる姿が私にはとても眩しかった。
私のような長い時を生きてきた者にとっては、人の時間はあまりにも短い。
そんな短い時間を懸命に生きるチコさんや、ミツさんの姿は、私がこのれんげ草を開く決心をする後押しとなったのでした。
「天国に行く前にまた会えて良かったわ。美鈴さんは昔と変わらない。私はすっかりおばあちゃんになっちゃったけど。長生きもしてみるものね」
藤色の上着を羽織ったミツさんは、杖を手に立ち上がりました。
「あの時、別れ際のあなた、とっても寂しそうな目をしていたもの。だけど、今は綺麗な瞳をしてる。きっと、ここで沢山良い想い出を作ったのね。安心したわ」
ミツさんがまた来た時の為に。
友人の居ない、家にも居場所が無い小さな女の子に会えた時。
ここが居場所になれるように。
そう思って始めたれんげ草だったけれど。
いつしか、ここは私にとってもかけがえのない場所に。
いえ。もしかしたら、私自身が人と繋がりたくて。手を合わせ、夢を語り、いつからか私に美鈴と言う名を付けてくれた人間たちと、過ごしたかった。
ただそれだけだったのかもしれません。
「じゃあ、ミツさんを送っていきます。通りに出たらタクシーを呼びますね」
西野さんがミツさんにそっと寄り添うように、玄関を出ました。
「ミツさん。お元気で」
手を取り、そう伝えると「えぇ、えぇ。また来たいわ」と微笑みました。
「美鈴さん。明日、また来ます。仕事が終わったらすぐ来ます。その時に、話。聞いてください」
西野さんの真剣な眼差し。
私は「はい」と笑顔を返しました。
そうしてお二人は夜の路地裏商店街へと歩いて行きました。
私はそんな並んで歩く暗い影を、角を曲がって見えなくなるまで静かに見送っていました。
向かいの四軒の家の取り壊しは残り一軒となっています。
すっかり跡形もなくなった三軒分の空き地。
商店街を吹き抜けてきた風が、店の脇のポプラをざぁっと揺らします。
「西野さん。皆さん。どうか、どうか。この場所での日々を忘れないで……」
商店街をぼうっと照らす街灯が、今にも消えるかのように二度点滅する。
――れんげ草の花言葉は。『あなたと一緒なら心が和らぐ』
私にとって、お客様といるこの店がまさにそうだった。
『話、聞いてください』
西野さんの言葉と表情が蘇る。
いつしか来てくださったナギさんというお客様を思い出します。
人間と恋に落ちた木に宿る者。
私と人間とでは、あまりにも生きる時間が違いすぎます。
今夜は月が見えません。
雲の向こうに隠れているぼんやりと光を滲ませる月を眺めて、震えそうな心を静めるように、ゆっくりと深呼吸をしました。
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