見えないもの。見えるもの~宇佐美 蘭~
三月にしては比較的暖かかった気温も、四時にもなると次第に肌寒くなってきていた。
西野君と別れアパートに戻ると、二階の踊り場の手すりに頭でっかちの小さなお坊さんのような妖怪が、ちょこんと外を眺めるように座っていた。
驚いて声が出そうになった口を咄嗟に抑えて、息をのむ。
こういうのは、下手に話しかけるとろくなことが無い。
慌てて郵便受けに入っていた、近所の弁当屋のチラシを眺めているふりをしながら、それの後ろを通り過ぎる。
「見えておられるのでしょう」
しわがれた男性の声で話しかけられ、うっかり立ち止まってしまった。これでは聞こえているのもバレただろう。
――最悪だ。どうしよう……
「お嬢さんは、我々が見える事が嫌ですか」
悪意の無い、優しい声に振り返ると、お坊さん妖怪はこちらに背を向けたまま、少しひんやりとした夕方の吹き抜ける風に、着物の袖を揺らしていた。
「別に。見えたって良いことも無いし。まだ見えない方が良かったかもね」
私の返答に、お坊さん妖怪は「そうですか、そうですか」と肩を揺らして笑っている。
「私は、とあるマンション前の三差路にある小さな祠に住んでいたトモエと言う者。あなたは、ご存知でしょう。昔、よく手を合わせてくれていた。お姉さんと二人で。まだ幼い頃、ね」
マンションの前の祠。
――そう言えば、中学生くらいまでは姉と一緒に手を合わせていたっけ。
『こういう道にぽつんとある祠は、人が迷わないように見守ってくれているんだって』
そう教えてくれた姉に連れられて、姉が亡くなるまでは通るたびに手を合わせていた。
「私は見ての通り、神でもなく小さな弱き妖怪。手を合わせてくださるあなた方が居たから、私は生きながらえたようなもの。祠は今はもうありません。力もない私はこのまま消えゆくでしょう。ただ、最後にこんな私に手を合わせてくれていた人を一目見ておきたい。叶うならば礼が言いたい。そう思って、数日前からこちらであなたの様子を伺っておりました。あなたは我々のような者の姿が見えている。嬉しくて、こうしてここで待っておりました」
トモエがくるりとこちらを向いて、手すりの上に立ち上がった。
ひとつ目のトモエは、じっと私を見つめている。
「ただ、あなたは本当に見たいものが見えていない。それが嫌なのでしょう?」
トモエがまるで心の奥まで見透かしているのではないのかと言う程、じっと瞳を覗くように見る。思わず目を逸らしてしまった。
「ほっほっほ。私は人の心までは読めませんよ。ただ私は人が好きな故、ここ数日のあなたを見ていてそう感じただけです」
そう言うと、そのまま再び手すりに胡坐をかくようにして腰かけ、私を見上げる。
「あなたは見えないわけではない。あなたがその者に心が囚われている限り、その者は姿を見せないだけです」
「どういう――」
すると、私の胸のあたりを指さし、目を弓なりにして微笑んだ。
「それは、あなたの心がわかっているはずです」
途端に、光の粒子がトモエを包み込み始める。
白い雪のような、キラキラと輝くそれはゆっくりとその姿を飲み込んでいく。
「私にずっと手を合わせてくださったあなたへのお礼に。それを伝えたかった。驚かせて申し訳ない。では……お元気で。ありがとう」
光に包み込まれたトモエの姿が消える間際。
「あなたは、独りじゃない」
そう言葉を残して消えていった。
がらんとした部屋に帰り、電気を点けないまま部屋を見渡す。
黄土色の土壁。小さなちゃぶ台に、お気に入りのウグイス色の座布団。建付けの悪い窓。
そんな窓からは西日が射し込み、薄茶に色あせた畳に、オレンジ色の四角い陽だまりを落としている。
「お姉ちゃん……」
部屋の隅に置かれた、年季ものの小さな箪笥に置かれた写真立て。
私が隠し撮りしようとしたところを姉に気付かれて、恥ずかしそうに手元の絵が描かれた画用紙を抑えている写真だ。
絵を描くことが好きだった姉。
そんな大好きな事さえも辞めて、いじめを苦にこの世を去ってしまった。
この部屋は、姉が会社員になってから住んでいた部屋だ。
と言っても、最初の頃はずっと実家暮らしだったのだが、ある日誰にも言わずに家を借り、一人暮らしを始めていた。
当時は、大人になったから家を出たのだと思って疑わなかったが、きっと暗い顔をして帰って来る姿を、私や父を亡くしてからずっと塞ぎ込んでいた母に見せたくなかったのかもしれない。
私が姉を見えないのは、私の心がここに囚われているからだという事だろうか。
姉が住んでいた部屋。姉が使っていたこの座布団。
姉の気配が残るこの部屋に住み続ける事で、姉が姿を見せないのだとしたら。
「もう、引っ越した方が良いのかな」
ぽつりと零した言葉が、しんとした夕暮れに染まる古い部屋に霧散する。
締め切った窓のカーテンが、微かに揺れたような気がした。
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