誰もいない場所へ
「美鈴さんとお散歩に出るなんて久しぶりですねぇ。とっても楽しいです。朝のお散歩というのも、また気持ちが良いですね〜」
「あら、ありがとう。私も、みーこちゃんが楽しそうな姿を見るだけで元気になれるわ。それにしても、本当に良いお天気ねぇ」
蝉時雨が降る夏の盛りの、とある朝。
お店のある小さな町から出て、まっすぐまっすぐ進み土手を上がると、野原の広がる丘に出るのだそうです。
そう。以前お客様として来てくださった、ナギさんの宿る木がある丘です。
この辺りは私達の住む小さな町があるだけで、周りは山や川など自然の多い場所なのです。
おもいきり枝葉を広げて、夏の日差しをめいっぱいに浴びる木々や草花。
道を横切るようにぞろぞろと歩く蟻の行列は、私達も気付かないそこかしこで、小さな命も日々その生を懸命に全うしているのだと思い知らされます。
まぶしいほどに煌めく川面の、さらさらと穏やかに流れゆく水の様は、なんとも清々しい気持ちになります。
他の季節には無い、力強い青々とした空には、真っ白の羊の背中のような綿雲がぷかぷかと浮かんでいて。
時折立ち止まっては、その平和で長閑な風景に目を奪われてしまいます。
みーこちゃんと久しぶりの朝のお散歩を堪能するようにゆっくりゆっくりと、遠くに見える薄青い山々の景色に目を細めました。
「見てください!池にお花が咲いています!ほら、白色の。可愛いですねぇ。あの葉っぱ、カエルさんが好きそうな形ですぅ」
土手沿いを歩いていると、左手に小さな池があり、切り込みを入れたような丸い葉と、何枚ものピンと尖った花弁が特徴的な白色のお花が咲いています。
「あれは、ヒツジグサっていうのよ。睡蓮の仲間でね。羊の刻、午後2時に咲くって言われてたからヒツジグサって言うの。実際には朝から咲いてるのだけど。でも、夜にはあのお花は閉じちゃうのよ」
「はぁ!お花も夜には寝ちゃうのですね。面白いです〜」
「ふふっ、お花も生きていますからね。皆が何気無く通り過ぎている物も、当たり前に目の前にある物にも、命があって、限りがあるのよ」
それは、動物のように心臓が動く命だけではなく。
物には物の、植物には植物の限りがあって。
当たり前のように空に浮かぶ、月や太陽にだって。
どんなものにも終わりがある。
だからこそ美しくて、儚い。
「あのぅ。美鈴さん、お身体辛くないですか?大丈夫ですか?」
私の白いスカートの裾を掴みながら、みーこちゃんが心配そうに眉をひそめました。
「えぇ。平気よ。もう少ししたら丘も見えそうね」
「はい!もうすぐです〜!」
赤いスカートをはためかせながら、ぱたぱたとあぜ道を駆けていったみーこちゃんは「美鈴さぁん」と、目を弓なりにして楽しそうにぶんぶんと両手を振っていました。
濃密な緑の風を胸に吸い込み、幸福感に満ちた息をゆっくりと吐いてから歩き始めました。
さらさらした風に、まるで海が波打つように、夏の太陽に照らされた草たちが銀になびいています。
そんな丘への斜面を登ると、広い草原に出ました。
緑の中にところどころ野の花が咲き、ピンクや白、上品な紫色が色を添え、その周りをモンキチョウや蜜を求めた蜂たちが花から花へとひらりふわりと飛んでいます。
丘の隅の、群生する淡紅紫色の夏水仙がなんとも圧巻の風景。
私が思い描く、いわゆる綺麗な風景の更に上をいくような美しい景色の中に、ナギさんの切り株がありました。
「あら、誰かいらっしゃるみたい」
立派な太さの切り株に、もたれるようにして眠っている男性らしき人の姿があります。
青色のキャップを目深に被った細身の彼は、日向ぼっこをしたまま眠ったのでしょうか。
肩掛けの黒い鞄が、不自然に離れた草の中に放り出されて転がっています。
白いTシャツが、日差しに眩しく輝く彼に近付いてみると、微かに頬の筋肉がぴくりと動いて見えました。
「美鈴さん。やっぱりナギさんはいらっしゃらないみたいですし、あちらの木陰で休みましょうか〜?」
みーこちゃんが少し残念そうに言いながら、向こう端に並ぶ桜の木を指差しました。
「そうね。ナギさんは眠っているんでしょう。御神木なだけあって、木そのものはまだ生命力もあるみたい。きっとナギさんは元気になるわ。それがわかっただけで、ここに来た甲斐があった。少し休んだらお店に戻りましょう」
男性に背を向けて、みーこちゃんと桜の木へと向かおうとした時でした。
「あーーー!やっぱり無理かぁー!」
さっきまで眠っていたその人が、かぶっていた帽子を力任せに草むらに放り投げると、柔らかな肩ほどまでの茶色い髪がふわっと広がったのです。
「あっ、起きた!女性だったみたいですねぇ」
振り返った私達と目が合った女性は「げっ」と、マズいものでも見たように眉をしかめました。
「あの・・・起こしてしまったようで、申し訳ありませんでした」
「えっ、あぁ。いや、大丈夫。起きてたから。寝ようとはしたけど、寝れなかっただし・・・」
「そうでしたか。では、私達はあちらにいますね。みーこちゃん、行きましょうか」
「はぁい」
私に手を伸ばすみーこちゃんの小さな手を取り、女性に会釈をしてから桜の木の下へと向かいました。
「あの方、私達を見て『げっ』て言いましたよぅ」
木の下に行くと、かつて誰かが座れるように置いてくださったのでしょう。
何か人工的な塗料で、腐ってしまわないようにコーティングされているような艶のある丸太が横たわっていたので、腰掛けさせて頂くことにしました。
「日頃から、色々なものが見える方なんでしょう。きっと良いことばかりじゃなかったでしょうからね。仕方ないわ。ほら、みーこちゃん。少し早いけど、お昼にしましょうか。たくさん歩いて、お腹も空いたんじゃない?」
膝の上に乗せた籐のバスケットを開けてみせると、みーこちゃんの目が一気にキラキラと輝きました。
みーこちゃんの好きな、辛子マヨネーズを塗ったパンにお出汁の効いた厚焼き玉子を挟んだ、たまごサンド。
ポテトサラダや、ツナマヨのサンドイッチもあります。
「はぁあ!美味しそうですぅ。いただきまぁす!」
力強く手を合わせたみーこちゃんは、たまごサンドを手に取り、幸せいっぱいの笑顔で頬張っていました。
「あの。もしお時間があるなら、召し上がりませんか?」
「えっ?!」
みーこちゃんが1つ目のサンドイッチに幸せを感じている頃、草むらに放り投げていた帽子と鞄を手にして立ち上がった女性は、豆鉄砲をくらったハトのように目を丸くしました。
「たまごサンド、独り占めしないならどうぞですぅ」
「あら、そんな事言ってはいけないわ。みーこちゃんはいつでも食べれるでしょう?」
「むぅ。ごめんなさぁい・・・」
眉をハの字にしてしょんぼりするみーこちゃんの頭を撫でていると、私達のやり取りを見ていた女性が力無く笑いました。
「なんだ。あなた達、悪いやつらじゃないのね。良かった。私もお腹空いてたの。お言葉に甘えて少し分けてもらっちゃおうかな。たまごサンドも独り占めしないから安心してよ」
私の差し出したバスケットから、ポテトサラダのサンドイッチを取った女性は、どさりと地面に座りました。
「いただきまーす。・・・うまっ。めっちゃ美味しいよ。そりゃ、人にあげたくないわけだ。これ、お店開けるレベルだよ」
「あったりまえですぅ!それに、もうお店してますよぅ」
「あれ、そうなの?じゃあ今度探してみよう。町の方でしょ?」
「えぇ、まぁ・・・」
私が言葉を濁すのも気にしていない様子の女性は「そっかそっか」と軽く答えてから、ツナマヨのサンドイッチにも手を伸ばしました。
「誰もいないところに行きたかったんだよねぇ。何か疲れちゃってさぁ。っても、結局スマホは持ってきちゃったんだけど。駄目ねぇ」
遠くの田畑を見つめる女性と私達の間を、山からのあたたかい風が優しく抜けていきました。
「私、宇佐美 蘭っていうの。さっきは驚かせちゃってごめんね。いきなり叫んだからびっくりしたでしょ」
「ホントですよぅ。帽子投げるし、私達のこと見てあからさまに嫌そうな顔するし、失礼千番でございます〜」
わざとらしく頬を膨らませて怒ってみせるみーこちゃんに、私も蘭さんも笑ってしまいました。
「あははっ。ごめんって。私、小さい頃から色んなものが見えちゃってさ。別に皆がみんな嫌いなわけじゃないんだよ?・・・やっぱり面倒な奴もいるから、ついね。あんた達はそういうのじゃなくて良かったよ」
3つ目に手に取ったたまごサンドを手早く食べた蘭さんは「ごちそうさまでした!美味しかった!」と、お尻を軽くはたいてから立ち上がりました。
「そろそろ行くよ。最近、あまり眠れなくてさぁ。ここなら寝れるかなと思って来たんだよね。結局寝れなかったけど、美味しいサンドイッチ食べられたし、良しとするわ!」
そう言って、足元に置いていた帽子を取ろうと屈んだ瞬間。
みーこちゃんがその帽子を横からスッと取って走り出したのです。
「私からこの帽子を取り返せたら、帰っても良いですよ〜!」
「は?!ちょっ、何やってんのよ!コラーッ」
蘭さんはみーこちゃんを追いかけ、その背中に手を伸ばすも、小柄なみーこちゃんはスルリとすり抜けるように方向転換しては丘の上を駆け回っています。
「たっくさん走って疲れたら、きっと眠れますよ〜!きゃはははっ」
「待ちなさいー!もーっ!」
それからも、蘭さんは汗だくになるほど走り回り、なんだかんだとても楽しそうな2人を、私は桜の木陰で幸せな気持ちで見ていたのでした。
午後2時。
お日様が頭上高くに昇り、サンサンと大地に降り注ぐ頃。
私はみーこちゃんと手を繋ぎながら、今朝来た道をのんびりと歩いていました。
「はわぁー、今日はとっても良い日でした。楽しかったですぅ」
「ふふっ、最後はチョコレートに釣られたのは笑っちゃったけどね」
「チョコレートには勝てないですぅ。卑怯です。でも美味しかったから許しますけど〜」
どうしても捕まえられなかった蘭さんは、思い出したかのように鞄からチョコレート菓子を1つ取り出して、みーこちゃんに『ほーら、これとっても美味しいのよー?中にビスケットが入ってて、サクサクでねぇ』と見せると、まんまと釣られてしまったのでした。
「強引なやり方だったけれど、あれで蘭さんもゆっくり眠れると良いわね。随分走り回っていたもの」
得意げに「ふふん」と笑ったみーこちゃんは、私と繋ぐ手に、きゅっと力を込めました。
「あの方、よく見たら目の下のクマが凄かったんですよぅ。人間は大人になると全力で走ることも無いですから、あんなになっても眠れないなら疲れ果てさせるしか無いと思ったんですぅ。・・・だけど、帰るのが遅くなってごめんなさい。美鈴さんだって早く帰らなきゃ――」
「良いんですよ。今日は大丈夫だと思ったから、こうして離れた場所まで来ることにしたの。私も、楽しそうなみーこちゃんの姿を見られて良かったわ」
いつも私のそばで、一生懸命お手伝いしてくれるみーこちゃん。
もっと外の世界をゆっくり見せてあげたい。
そう思っていたのは、私なのですから。
お店のある通りに入ると同時に、みーこちゃんが「あっ!」と声を上げました。
「買わなきゃいけないものがあります!そこの八百屋さんで買って帰りますから、美鈴さんは先に帰っててください」
「あら。一緒に行くわよ?何か足りないものあったかしら」
「大丈夫ですから、美鈴さんは先に帰って休んでいてくださいませ〜」
そう言うと、タタタっと八百屋さんへと駆け出してしまいました。
リン・・・
れんげ草のドアを開けると、鈴の優しい音を奏でて迎えてくれます。
黄白色の柔らかなポプラの木材のインテリアや内装が、窓からの日差しにいっそうホッとする、透明感のある雰囲気を醸し出してくれています。
窓を開けると、遠くの方で啼く蝉の声と、さぁっとてっぺんを揺らすポプラの木。
その向こうには、飛行機雲が群青の空をまっすぐに引き裂いています。
「お水あげましょうね」
窓際の植木鉢で、1メートル程に大きくなったパキラにじょうろでお水をやりながら、土がぐんぐんとその水を吸い込んでいくのが、まるでパキラが「美味しい美味しい」と喜んでいるようで、思わず頬が緩みました。
「そろそろみーこちゃんも帰ってくるかしら。冷たい麦茶を準備しておきましょうかね」
じょうろを窓辺に置いて、キッチンに立ったと同時に、リン――とドアが開いたことを知らせる鈴が鳴りました。
「みーこちゃん、おかえりなさ――あら?あなたは・・・」
てっきりみーこちゃんが帰ったのだと思って顔を上げると、玄関で「こ、こんにちは」と申し訳なさそうに小さくなっている、黒いシャツに黒いズボン姿の男性がいました。
梅雨の頃、ホットケーキを食べに来られた、出版社で働く男性のお客様でした。
するとその後ろから、何やら大きな物を抱えたみーこちゃんが顔を出しました。
「うー!ただいまでぇーすって、あっ。お客様ですか?いらっしゃいませぇっ!ちょーっとお待ちくださいねぇっ」
「だ、大丈夫ですか?よ、良かったら運びましょうか・・・」
「ひゃー!助かりま――いやいや、いけません!お客様にそんな事をさせるわけにはっ」
みーこちゃんは立派なスイカを抱えてふらふらと店に入ろうとしています。
明らかに目の前も足元も見えていない状態でスイカを抱えてふらふらと玄関に入ろうとしたものですから、ゴンッと鈍い音と共に、スイカをドアの縁にぶつけてしまいました。
「ああっ、駄目です。やっぱり運ばせてください」
男性は持っていた鞄を玄関脇に置いて、みーこちゃんからひょいとスイカを受け取ると、キッチンまで運んでくださいました。
「はわぁ、さすがですぅ。ありがとうございます〜」
「いえ、そんな・・・」
男性は恥ずかしそうにして顔を背け、玄関に鞄を取りに戻りました。
「あの、もしかして今日ってお休みでしたか・・・?」
「午前中は少し出掛けていたんですよ。何か召し上がりますか?お時間が大丈夫でしたから、これから冷やして、すいかもご一緒しませんか?」
「あ、はい・・・お願いします」
「では、お好きな席にどうぞですぅ!私はちょっと手を洗って参りますのでお待ちください〜」
みーこちゃんが踏み台に登って、背伸びをしながら手を洗っている間に、男性が名前を教えてくださいました。
彼の名は、西野 宗介さん。32歳。
次回は彼とのお話をしましょうね。
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