初夏の記憶と、1枚の手紙。

日毎に暑さが増してきた、初夏のとある午後。


眩しいほどの明るいレモン色の陽射しが、路地裏にも降り注ぎ、れんげ草の店内も電気を点けなくても優しい陽光に満たされています。


窓辺の席に座り、草花の青々とした命の匂いを感じながら、花の周りを軽快に蜜を求めて舞う蝶やミツバチの姿を楽しんでいました。


みーこちゃんはたった今、少し離れた通りにあるお花屋さんにお店に飾る為のお花を買いに出掛けました。


「あの子ももっと、本当は色んなものを見てみたいのよね。きっと・・・」



何気無くパキラの葉を撫でた時、背後からの風にふわりとカーテンが揺れました。




「まぁ、ごめんなさい。気が付かなくて・・・いらっしゃいませ」  


いつの間にか、腰ほどまでの柔らかそうな黒髪の女性が、ドアを開けて立っていらっしゃったのです。


まだ幼さの残る顔立ちの女性は「おじゃま、します」と表情無く呟きました。


お水とおしぼりを準備していると、女性はじっと玄関に立ち尽くしたままで、こちらを見つめています。


「お好きな席にどうぞ」


私がそう言うと彼女は「あぁ・・・はい」とすぐ近くの席にゆっくりと腰を下ろしました。


「お水とおしぼりです。メニューはこちらで・・・」


不思議な雰囲気の女性に、ハッとした私はメニューブックをそっとテーブルの隅に置きました。




私がキッチンに戻ってからも、女性はぼんやりと窓の向こうを眺め、時折カーテンを揺らしながら入ってくる薫風の香りを、そっと目を閉じて感じていました。


静かに流れるボサノバの柔らかなリズム以外は、これから羽ばたく鳥のさえずる声が聞こえるくらい。


女性は空気と一体化したかと思うほどに、物音を立てずに座っていらっしゃいました。


「おにぎり」


突然、女性が小さく呟きました。


「おにぎりが、食べたい。お塩のが良いです」


ようやく私と目があった彼女は、そう言って今度は私を真っ直ぐにじっと見つめています。


「かしこまりました。えっと・・・これから炊きますので少しお時間が掛かりますが宜しいでしょうか?」


女性は頷くと、再び窓の外に目を向け、何か想いに耽るように、遠くを見つめていらっしゃいました。




土鍋に洗ったお米を入れてお水を張って、暫く浸けてから火にかけましょう。


くつくつくつ・・・


お米がふっくらと炊ける音は、待つ方も心が踊りますね。


時間が経ったら火を止めて蒸らします。


蓋を開けると、もわぁと白い湯気と共に甘い香りが立ち上り、艶のある真っ白のご飯の出来上がり。


シンプルにお塩だけで、ふっくら握って海苔を当てて完成です。


お盆に、おにぎりとお茶。


私とみーこちゃんの食事用のたくあんがあったので、それも添えておきましょうか。


変わらず静かに座っていらっしゃる女性のテーブルへとお持ちしました。



「お待たせしました。塩おにぎりです」


女性はそっとおにぎりを手に取ると、ひとくち。


「・・・あぁ。懐かしい」


深いため息を吐いた彼女は、噛み締めるようにおにぎりを両手で持ちながら食べていらっしゃいました。




「あの。1つ、見てほしいものが、あるのですが」


食事を終えた皿を下げに行くと、女性が一通の古びた手紙をテーブルに置きました。


全体的に黄ばんだ封筒は、何度も読んだのでしょう。


手紙の折り目が何度も折り直されたせいか、紙の端のほうや、折り目の交差する中心部が破れているのが見受けられます。



私は、そのお手紙を一読したあと、そっとお返ししました。



「あの・・・」


女性は目の前の手紙に視線を落とし、ゆっくりと私を見上げました。



「ここには、何て書いてあるのですか?私のことが、嫌いになったと書いてありますか?」



今にも泣き出しそうな女性は、涙をこらえるように眉間に皺を寄せていました。




この女性の名前は、ナギさん。


彼女には家族と呼べるものがおらず、寂しく過ごしていた時期があったのだそうです。


それでも唯一の友達が居たのだとか。


「ずっと昔の夏の今頃。とある丘にある、私の住む場所までも奪われそうになった所を、その友人が助けてくれたんです。


シンジさんと言って、彼がまだ幼い頃からの友達でした。名家の生まれで家族やお手伝いさんなど、沢山の人に囲まれて育った彼は、その頃の私にとっては羨ましいくらいの存在でした。私のような弱い立場の者にもとても優しく正義感に溢れる人。


彼はあちこちに頭を下げて回ってくれて、彼の尽力のおかげで私は住む場所を失くさずに済みました。


それからも彼はよく私の様子を見に来てくれて。半年、1年と、酷い嵐の後は必ず『あぁ、良かった。無事みたいだね』って。


よく晴れた日も。 ぽつりぽつりと雨が降る日も、他愛の無い話をしてみたり、一緒に木に登ってぼんやり空を眺めたり。


『僕の周りには、僕の生まれた立場に擦り寄ってくる人たちが大勢いるんだ。ここみたいに静かな場所で生きたいよ。僕はここが好きだから、この場所を壊させたくなかったんだ。うちでは木登りだって、僕の身体が弱いから駄目だって叱られるからね』


そう言った彼の横顔は、とても儚くて寂しげだった」


そうしてナギさんは、想いを馳せるように目を伏せて、ふぅと少し重い息を吐きました。




「それで。それから彼は突然来なくなったんです。どれくらい経ったのかわからない頃、このお手紙が置いてあったんです。・・・ここには、何と書かれていますか?」


私と女性の間に、時が止まったような沈黙が流れ、ポプラの葉擦れの音が、ザッと大きく聞こえます。


「もう・・・」


ごくりと唾を飲むように、一度息を整えてから女性を見つめて、ゆっくりと言葉にしました。


「もう会えないけれど、ずっと元気でいて欲しいと。とても、とても幸せだったと。書いてありましたよ」



私がそう口にすると、ナギさんは私の心を読むように目をじっと見つめてから「良かった。ありがとうございました」と微笑みました。




「ごちそうさまでした。このお店、とても居心地の良い場所でした。心の底からほっとするんです。出来る事ならまた来たい程に。ずっとずっとここに居たくなるくらいでした」


店先で深々とお辞儀をしたナギさんは、大切そうに手紙を抱き締めました。


「ここまで来てみてわかっていたんです。町は私の知っている頃と随分変わっていて。ここらは町家でした。あそこの八百屋さんは傘屋。あっちの空き家は薬屋でしたから」


商店街をぐるりと見渡しては指差しながら、懐かしむように話してくださいました。


「彼がよくお家から持って来て一緒に食べたんです。塩のおにぎり。何だか、とっても懐かしかった」


「そう言っていただけて光栄です。ありがとうございます。・・・あらっ」


ちょうどその時、曲がり角から路地裏に入ってくるみーこちゃんの姿が見えました。


かごバッグにお花を沢山詰めたみーこちゃんも、こちらに気付いて、ぱぁっと弾ける笑顔で手を振って、一目散に駆けてきました。


「まぁ、可愛いらしい。初めまして。と言っても、もう帰るところなのだけど」


「これはこれは!初めまして!帰りが遅くなってしまい、申し訳ありませんでしたぁ。お花屋さんに草原の広がるとても綺麗な丘があると聞いて、少し寄り道してしまいました。美鈴さんも、ごめんなさいですぅ」


「ふふっ、大丈夫よ。良い場所を教えていだだけたのね」


「はい!大きな木があって、でも――」


みーこちゃんが興奮気味に話し始めようとした時、ナギさんが「それでは、そろそろ失礼します」と申し訳なさそうに言いました。



「あ!私ったらお客様がいらっしゃるのにっ」


慌てたみーこちゃんの小さな頭に優しく手を乗せたナギさんは「元気でね」と微笑むと、もう一度頭を下げました。


暫く歩いてから、黒く長い髪をふわりと揺らしてこちらを振り向き、軽く会釈をしてから再び歩き始め、私達はその後ろ姿を見送っていたのでした。




「美鈴さぁん。さっきのお客様、不思議な雰囲気がありましたね。なんだか――」


「私達みたい。・・・ふふっ。みーこちゃんも気付いていたのね」


私は、みーこちゃんが買ってきてくれたヒマワリを花瓶に活けて、店内のテーブルに置きました。


「やっぱりそうでしたかぁ。今日見に行った丘の上にあった木と、あのお客様の匂いが似ていました。もう切り株しか無かったですけど・・・」


あのナギさんというお客様は、その丘の上の木に宿る神様なのでしょう。


神様を見ることができる人はそう多くは無いでしょうけど、シンジさんにはその力があったということです。


「ナギさんはあのまま消えてしまうのでしょうか?・・・可哀想です、何も切らなくても良いのに」


「きっと大丈夫よ。切り株からまた芽が生えることもありますからね。あまり長時間出歩けないところを見ると、一時的に力は弱くなっているみたいだけど、木が成長すれば消えずに済むわよ。・・・まぁ、神様というのは、人々の信仰や想いが薄れると力も弱くなってしまうから、またここまで来る力があるかはわからないけどね」


私は全てのテーブルに花を飾って、青空を背にするポプラの木を見上げました。


「ナギという木はとても縁起が良いの。幸せを呼ぶとか、縁結びだとか。そんな人々に幸せをもたらしてくれる神様が、人間の手で消されてしまうなんて事が、あっていいはずないもの」


手紙の内容を聞いたときの、ナギさんの瞳。


彼女の過ごす長い長い時間の中の、ほんのひと時を過ごしたシンジさん。


彼に対する、想いと、寂しさとが入り混じった瞳を思い出すと、かつての遠い記憶と重なり、胸がちくりと痛むのを感じたのでした。




人ではない自分と、人間であるシンジさん。


ナギさんの宿る木は大切な場所だからこそ、人の手で切るなんてことをさせたくなかったのでしょう。


大切な相手だからこそ、シンジさんは病で弱る自身の姿を。


自身の最期を見せたくなかった。


一緒に食べたおにぎりは、どんな味だったでしょう。


一緒に見上げた空は、どんな色だったでしょう。


同じに見えて、きっと違う。


その時、その瞬間に彼と見た景色は、二度と見る事は出来ない。


だからこそ、その遠い記憶が愛おしく、そして悲しくもある。



私の握ったおにぎりで、ほんの少しでも彼との想い出に向き合えたのなら。


これほど、嬉しいことはありませんね。


ご飯を炊いた土鍋を片付け、キッチンの窓からカウンターに差し込む小さな陽だまりにそっと手を添えました。


「ふふっ。あたたかい。・・・この陽だまりみたいに、ここを訪れたお客様の心がぬくもりに包まれるお店でありたいわね」



陽だまりカフェ・れんげ草。


このお店に名を付けた時のその想いは、変わることはありません。



「美鈴さん!この風鈴、そこの雑貨屋さんのお爺様から頂きました。付けてほしいのですが、駄目ですか?」


「あら、南部鉄の風鈴。素敵なものを頂いたのね。そこの窓に付けましょうか」


みーこちゃんの小さな手に乗せられた老緑色の風鈴を受け取り、窓の外に取り付けました。



チリン・・・


「あら、良い音ねぇ」


風鈴の、灰みを帯びた深い緑が、初夏の爽やかな風に優しい音を響かせていました。

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