第5話 お宿

 夕方まであちこち歩き回り、予約していた宿に向かった。急坂を上った先に玄関があり、ロビーからの眺望は最高だった。三階の和室に通されると、部屋からの眺望も素晴らしい。遠くに見える山々と、その手間に広がる街並み。まあ、この街並みは普通に現代の日本の街並みであるが。

「まずは風呂だな。」

俺がそう呟くと、

「世良先生、お先にどうぞ。僕、留守番してますから。」

と、綾瀬は言う。まあ、一緒に行こうというのもあれだしな。

「そうか?じゃあ、行ってくるよ。」

「はい。」

というわけで、俺は独りで大浴場へ向かった。この宿は貸切風呂がたくさんあるらしい。そのせいか、大浴場には誰もいない。貸切風呂より広い風呂を貸し切ったような状態で使用させてもらえて、ラッキーである。


 「おっ。」

部屋に戻ると、綾瀬は浴衣に着替えていた。確かに、スーツ姿で風呂に行くものではない。だが、意外な出で立ちに思わずドギマギしてしまった。いや、一瞬部屋を間違えたかと思ってドギマギしたのだったか?

「では、僕も行ってきます。」

綾瀬はタオルなどを両手で抱え、小さくなってそう言った。遠慮してそういう態度なのだろうが、思わず可愛いと思ってしまう。生意気なやつだったらイライラするだろうが、綾瀬はほんと、可愛げのあるやつだ。

 綾瀬が出て行って、俺は適当に座り、テレビでもつけようかと思った時、ふとテーブルの上にある小さいノート、例の綾瀬のポエム手帳が目に留まった。

 あいつ、今書いていたのだろうか。こんなところに置いてあったら、読んでくれと言っているようなものではないか。いや、見せられないとはっきり言っていたし。うーん、けれどもちょっとだけ、どんな感じに書いているのか知りたいし。

 結局、たまらなくなった俺は、そのノートを手に取った。そして、ペラペラとめくる。最後の方に書かれているものをとりあえず見る。

― 山深い景色の中

  一本の川が流れる

  その川に沿って進む列車に

  僕は乗っている

  雄大な景色を前に僕は

  隣にいるこの人のことばかり ―


― 東京を発った時から

  ずっとドキドキが止まらない

  隣にあの人がいるから ―


― 初めて二人きりで過ごす夜

  考えただけで・・・

  気持ち溢れて泡に酔う ―


 ん?んんん?何だ、これ。これは、恋愛の詩だよな?隣にいる人って・・・俺しかいないじゃないか!

 ま、まさか、まさか綾瀬が俺に恋を・・・?いや、まさか。何かの間違いだろう。フィクションかもしれないし。いや、日記のようなものだと言っていたよな。・・・そういえば、社長がさらっと、綾瀬が俺の大ファンだとか言ってなかったか?綾瀬の態度はどう見てもそうは見えなくて忘れていたけど、本当は、すごく俺の事が・・・好き、なのか?

 ポエムのノートを手にしたまま、ぽかんとしていた俺。すると、夕食が運ばれてきた。テーブルの上を片付ける必要があり、綾瀬のノートは綾瀬の鞄の上に置いた。


 綾瀬が風呂から戻って来た頃には、俺は注文した瓶ビールを開け、独りで飲み始めていた。もう、飲まないと精神がどうかしそうだったから。だが、ビールを飲んだらある程度どうでも良くなった。どうでも良くなって、リラックスしていたところへ、風呂上りの綾瀬が戻ってきて、うっかり度肝を抜かれた。

 な、なんか・・・色っぽい?

 俺はかぶりを振った。濡れた髪を見たからって、何を考えているのだ。上気した顔を見たからって。

「綾瀬、お前も飲むか?」

瓶ビールを掲げると、

「明日運転ですよね?一杯だけで。」

綾瀬は静かに言って、グラスを差し出した。こういう所作が、上品というか、たおやかというか。こいつは色々丁寧なのだ。

「お前は、育ちがいいな。」

思わず言った。

「え?」

だが、綾瀬はそのセリフが意外だったのか、聞き返して来た。

「いや、何でもない。今日はお疲れさん。」

俺はそう言って、自分のグラスを綾瀬のグラスにカチンと合わせた。

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