第23夜「笑顔と涙」(下)
「この通信衛星からね、2つのレーザーが発射されるの」
レネは付け加えた丸を指差し、静かに話を進めた。
量子通信衛星〈かささぎ〉はラグランジュ点と呼ばれる、地球と月の引力がちょうど釣り合う安定点に置かれていた。そこからレーザー光線が地球と月の2方向に発射され、それぞれ望遠鏡で受信することで通信が確立できるのだという。
なんだか、ずいぶんと凝った糸電話みたいだと思いながら、キョウカはレネを見つめた。
「
「はい」
「まず、月面望遠鏡の観測データ――これはつまり衛星から送られてきたデータね。それと私のデータの2つを量子コンピューターに揃えるの」
彼女の発言を一言たりとも漏らすまいと、ユキは真剣な表情でメモをとった。レネは長い髪を耳にかけながら彼が書き終わるのを待ち、話を続けた。
「次に、両方のデータを〈ベル測定プログラム〉にかけるの。そうしたら、レシピデータが出力されるから、それを地球に送るの。OK?」
「――はい。えっと、最後のは通常通信ですか?」
「そう。レシピは通常のデータよ」
レネが説明したのはとても不思議な通信プロトコルだったが、確かにこの方法なら、量子データそのものを月から地球に送信する必要はない。月と地球の間に
キョウカもアヤも狐につままれたような表情で、黒板に広がる宇宙をぽかんと眺めていた。
「あれ? レネさんのデータはどうなっちゃうんですか?」
「ベル測定プログラムに、壊されてしまうわ」
「ええっ!」
レネは「大丈夫。レシピに従って操作すれば、地球側で再生できるから」と平然と答えた。転送のためとはいえ、データが破壊されるのは恐怖でしか無いはずだ。でも彼女は「必ず地球で再構築できる」と手放しで物理法則を信頼していたのだ。
レネが通信衛星から2本のアーチ矢印を引くと、月と地球は大きな吊橋で結ばれた。彼女は、その真ん中あたりに〈量子テレポーテーション〉とかわいい丸文字で書き加えた。アヤが描いたカラフルな量子コンピューターや月面望遠鏡も、橋のたもとで居心地良さそうにしている。
理科室全体が「これで上手くいきそう」なんて空気に包まれたちょうどその時、ショーコが割れたガラスの縁のような鋭い質問を投げかけた。
「――で、地球側はどうやって受信するつもり? 衛星から送られてくるのは、量子データなんでしょ?」
その場の空気は一瞬にして凍りついた。
地球には、通信衛星からと月面基地からの2つのレーザーが届く。このうち衛星から送られてくるのを「材料」に、月面基地から送られてくる「レシピ」に従って調理すると、レネの量子データが出来上がるという算段になっている。
問題なのは、このうち衛星から届くほうだ。彼女の指摘どおり量子データを運んでいるため、屋上の望遠鏡で単純に観測してはダメなのだ。
ショーコからスバルに送られた視線は、やがて夜隊5人の中での無言のパス回しになった。
すると、ショーコが「ふふん。じゃあ、ウチの分析センターの器材、貸してあげるよ」と、にぃっと笑みをこぼしながら立ち上がった。
どうやら「材料」を上手に分析することで、その下ごしらえが分かるということのようだ。もちろん、オリジナルのデータはここでも破壊されてしまう。
「大丈夫よ。ほら、とんぼ玉は割れるけど、同じ模様の作り方は手が覚えてるでしょ?」
同じように、元の量子データが壊れてしまっても、下ごしらえまで含めたレシピがあれば作り直せるというわけだ。このレシピは通常のデータ形式だから、もう量子データのように保管に苦労することはなくなる。
「レシピはさ、あとで石英ガラスメモリに保存してあげるよ。そうすれば、3億年くらいは持つはず。まあ、オーバースペックだけどね。ハッハッハ」
これは本当に、渡りに船だ。完璧な解決方法を知りながら、敢えて疑問提起で入ってくるところがなんとも職人気質だ。
キョウカは頭の中で、探していた最後のパズルのピースが、カチャッと音を立てて収まった気がした。
「あ、そんなに難しい顔しないで! 専用の
レネは「ショーコ先輩……」と笑顔で泣いた。
ガラスビーズのように透き通った涙の雫を、ぽたぽたと実験テーブルに滴らせ、それでも声を上げず、美しいとしか言いようのない笑顔で泣いた。
泣いたのが先か笑ったのが先か、時間の流れも、物理法則でさえもそれを知らなかった。
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