月夜の理科部

第４幕「朔」

第23夜「笑顔と涙」

第23夜「笑顔と涙」（上）

「スバルくん――あ、羽合（はわい）先輩。そして、みなさんにお願いがあります」

　理科部を代表して送辞を読み終えたアヤが、唐突に切り出した。

　今日は、昼隊（ひるたい）の１年生も含めて全員集合の伝統行事〈追い出し会〉である。３年生の部員と一緒に過ごす最後の日こそ和やかな雰囲気を作ろうと、後輩たちが毎年趣向を凝らす。

　土曜日ということもありＯＢも何人か参加している。アヤが珍しくイタズラ顔で「スペシャルゲストも来るよ」なんて言っていたのだが、まだ来てないようだ。

　昼の理科室は春の日差しに包まれてポカポカと暖かく、人気（ひとけ）のない夜とは大違いだ。窓の外に眺める桜並木も色づき始め、そわそわと咲く時を待っている。

　今年の出し物は、化学班の〈ぜんざい−ようかん相転移〉のデモンストレーション実験と試食、生物班が大切に育てた麹菌たっぷりの自家製八丁味噌を塗った五平餅。恒例の卒業検定クイズ大会はユキが用意したため、異次元の難易度となった。

　スバルが「来年の学園祭の目玉に」と評したアヤのクッキーは、電気炉の強火に焼かれ岩のように硬かった。アヤは涙と笑顔の入り混じった顔で「スバルくん――羽合（はわい）先輩。エヘヘ。グスン……」と何度も言い直す。これを見るのも今日が最後かと思うと、皆しんみりした気分になってくる。

　そして、クラシックギターに持ち替えたカサネが奏でる〈星に願いを〉に乗せ、幼馴染が送辞を読むというクライマックスでスバルを泣かせるはずだったのに――。

「じつは夜隊（よるたい）は今、とても難しい問題に取り組んでいます。ＯＧの竹戸瀬（たけとせ）礼寧（れね）さんの大切なデータを月から取り戻すプロジェクトです」

「えええっ！」

　アヤの突然の発表に、ざわつく室内。真っ先に大声をあげたのは、キョウカだ。あまりに驚きすぎてイスからずり落ちそうになるほどだった。

　月ノ波高校（ツキコウ）と言っていたことからレネは卒業生だとキョウカは考えていたが、まさか理科部ＯＧだったとは思ってもみなかったので、とても驚いた。

　キョウカは背中越しにユキをチラッと見たが、彼はピクリともせずアヤを見ていた。どうやら、知らなかったのは本当にキョウカだけのようだ。

「いま證大寺（しょうだいじ）さんと水城（みずき）くんに取り組んでもらっています」

　アヤは「せっかくみんなが集まる機会なので」と状況を丁寧に説明した。１年生たちは身を乗り出して話に聞き入り、太陽嵐でデータが破壊されたかもしれないとの報に「マジかよ」なんて声を上げるＯＢもいた。

　彼女の完璧な説明を横で聞いていたスバルが「アーちゃん。月面望遠鏡は、地球に向けて通信準備してあるよ」と八重歯を見せて微笑んだ。続いて「量子コンピューターの利用時間も確保できてます」とユキ。

　２人とも今日はなんだかとびきりカッコいい、と思いながらキョウカは彼らの手元に視線を移した。その手で、透明カップのメロンソーダが揺れている。キョウカはやっぱり前言撤回したくなった。

「あ、それに、私とユキくんが育てた子たちも」

「ブッ、ちょっ、キョウカ！　言い方！　――ケホッ」

「え？　あ……アハハ。月面ローバーね！」

　ビーカー紅茶にむせるカサネの背中をさすりながら、キョウカは少し気弱な表情で「まぁ、何の役に立つか分かんないけど……」なんて呟いた。夜隊５人組のいつものペースになってきた。

「でも、もう時間がなくて。期限は来月の――」

　アヤがそう言ったとき、理科室後方の引き戸が静かに開き「４月25日」という声とともに女性が入ってきた。桜色のリブニットのなんとも女性らしいシルエットに、１年男子の目は釘付けだ。

「――レネさん!?」

　アヤがほのめかしていたスペシャルゲストとは彼女の事だったのだ。

「皆さん、妙なことに巻き込んでしまって、ごめんなさい」

　レネは深々とお辞儀した。頬をなでる長い髪から、さらさらという音が聞こえてくるようだ。キョウカはずっと気になっていたことを質問した。

「太陽嵐、大丈夫だったんですか？」

「ええ。こんなこともあるかと思って、３年前の実験のときに識別タグをつけておいたから。迷子にはなってるけど、９番コンテナのどこかにはあるはず」

「ああ、そうだったんですね。良かった……」

　思えば、特別授業に呼ばれたレネが、母校に月面ローバーの研究アルバイトをもちかけたのが全ての始まりだった。そこにアヤが部の活動費を工面したい一心で、ユキを差し向けたのだった。人手を出す代わりにＳＳＨの補助金を得るという、ある種の打算だ。顧問の得居（とくい）との利害も一致している。

　ただそれだけのことのはずだった。それなのに、スバルから詳しく話を聞くにつれ、そして、この件で成長する同級生の姿を見るにつれ、アヤはいても立ってもいられなくなった。

　でも、彼女の手元にあるものは少なかった。人より少しだけ器用な手先と、あんまり自信のないデザインセンス。あとは友人が少しいるくらいで、地位も名誉も何もなかった。

「これ部長命令ではなくて、あの、その、これは、単なるお願いなんです。私からの。部長だからとか、関係なく……」

　アヤは、キョウカがそうするように、自分の持てるもの全てを賭してこの困難な課題に立ち向かおうと決めていた。それで自分も成長できるとか、部長としての見栄とか、そんな打算なんかじゃなく。心のままに。

　きっと、全体がわからないパズルなんて割り散らし、とびきり上等のステンドグラスに作り変えるつもりなんだろう。必要な材料がまだ足りていないのも、よく分かっていた。

　色も形も違う沢山の種類のガラスと、完成まで作り遂げる熱いエネルギーが必要だ。

「思いつくこと、できること、どんなことでも構いません。協力してもらえませんか」

　アヤが深く頭を下げると、トレードマークの２つ結びがきれいにしなった。顔を上げた彼女はもう〈希女子（きじょし）〉でも〈岩子一徹（がんこいってつ）〉でもなくなっていた。

　それまで話に聞き入っていた１年生たちも、堰を切ったように口々に反応した。

「楽しそう。ぜひやりましょう！」

「いい方法、きっとありますよ」

「なんか作戦会議みたい。あ、わたし書記しますね」

　こうして、彼女の手持ちで一番輝くピースは、信頼できる仲間だと分かった。そんな部員たちの前向きで協力的な姿に、アヤは目を潤ませずにはいられなかった。

「ＯＢ・ＯＧの先輩方も、賛同していただけますでしょうか？」

　アヤは「部長権限の濫用（らんよう）だ」などと責められるのは覚悟の上だった。

　理科部はその自由闊達（かったつ）な雰囲気を維持するため、敢えて部長に絶大な権限を与えていた。予算、人事、対外交渉などは全て部長の専権事項である。しかし、その強力な権限にも関わらず、各々の研究テーマや活動内容について部長は一切口を出さない。

　唯一の例外は、時折発せられる部長命令だ。午前中に行われた年次報告によると、今年度はユキに発令された「お台場の竹戸瀬（たけとせ）研究室に向かえ」の１件だけであった。

　――ガラガラ。

　突然大きな音を立てて開くドア。部屋の皆が注目する中、短髪の女性が現れる。ＯＧの一人だろうか？

「いいねぇ。青春してるね！　よーし、協力しちゃおう！」