酒場

 歩道橋の踊り場に達したコブラ女は、そこで悠然たる歩みを一旦止め、全身を「ぶるっ」と震わせた。次の瞬間、戦闘服の表面に付着している返り血が、無数の玉となって虚空に舞った。それは、伝説の大型蛇類を連想させる神話的な光景であった。

 左手の手裏剣はどこかに消えていたが、右手には依然抜き身が握られていた。スライムの奇襲を警戒しているのだろうか。さすがに用心深い。返り血を払い終えたコブラ女は、再び階段を登り始めた。


 命の恩人である蛇頭の怪女に対して、どのような言葉を述べればいいのか、俺は少ない脳髄を懸命に働かせていた。こういう際、俺の口は極端に重くなるのだった。気の利いたことを云おうとするのだが、頭の中は真っ白で、何も言葉が浮かんでこない。毎度の現象だが、自分の鈍臭さにほとほとウンザリする。

「怪我はないか」

 とは、階段を登り切ったコブラ女の台詞であった。

「はっ…はい。おかげさまで、助かりました。セーコ様!蛇将軍様!ありがとうございます。ありがとうございます。この御恩は生涯……」

 云いざまに、その場に土下座をしようとしている俺に向かって、

「その辺でいい。やめろ」

 コブラ女は面倒そうな口調で俺の行動を遮ると、

「おやじ、おまえに訊きたいことがある」

「俺、いや、私に?」

「そうだ。不服か」

「とっ…とんでもありません!私はあなたの下僕(しもべ)でございます。何なりとお訊きください」

 コブラ女の「訊きたいこと」に答えられるかどうか、まったく自信はなかったが、ここでは、そう応じるしかなかった。


「おまえ、ふ*ろという店を知っているか?」


 意外な質問に、俺は刹那絶句した。コブラ女が再び口を開いた。その瞬間、口中に整然と並ぶ鋭い歯牙が見えた。とても作り物とは思えない。こういう生物が実際に存在しているとしか、俺には考えられない。

「知らんのか」

「あの、ふ*ろとは、池袋の居酒屋のふ*ろのことでしょうか……?」

「そうだ。他にふ*ろがあるのか」

「いえ、ありません」

「案内はできるか」

「勿論できます。化物に邪魔をされなければの話ですが」

「その心配は要らぬ。少なくとも、ふ*ろに着くまでは、おまえの安全は私が保障しよう。約束の時間が迫っている。案内を頼みたい」

「わかりました。行きましょう」


 そのようなわけで、セーコの臨時従者と化した俺は、彼女とともに、大勢の愛好家を持つ、屈指の名酒場を目指すことになった。

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