ラストナンバーからはじまる

水城しほ

ラストナンバーからはじまる ①

 アスノは何にもわかってない、とワカナは言った。


 六月、文化祭の最終日。開け放った窓からは青空が見え、校内の喧騒と共に吹き込んでくる風が、ワカナの緩い巻き髪を揺らしている。

 所属している軽音楽部の部室で、私は親友のワカナと睨み合っていた。

 他の部員は、ここにはいない。グラウンドに作られたメインステージの裏側で、自分たちの出番を待っている。

 三年生にとって、高校生活最後の舞台。私の彼氏のヨウヘイと「GammaDashガンマダッシュ」というユニットを組んでるワカナも、ステージ裏で待機する時間だ。それなのに、ワカナは部室を出て行こうとしない。

 私の親友は、泣きそうな顔で唇を噛み締めていた。



 今日の午前中までは、楽しい文化祭だったのだ。

 ヨウヘイと二人で模擬店を回ったあと、打ち合わせに向かうヨウヘイを見送ってから、私は部室へ足を向けた。

 いつものように扉を開けた時、信じられない言葉が耳へ飛び込んできた。


「ヨウヘイ先輩とワカナ先輩が、部室でキスしてて……あっ」


 私と目が合った途端、噂話をしていたシンゴが口を開けたまま固まり、他の後輩たちも一斉に黙り込んだ。

 まさか、と思った。ヨウヘイは女子に人気があるし、ノリも頭も軽いけど、一度も浮気なんかしたことはない。高校の入学式の日、同じクラスになったヨウヘイに「一目惚れ!」と告白された時から、ずっと仲良くやってきたのだ。

 だけど相手がワカナとなると、完全に否定しきれない自分もいた。

 一緒に音を奏でている二人には、私の入り込めない世界があるから。


「そんな話より、今はステージ頑張らなきゃね!」


 ステージを控えた部員を動揺させたくなかった私は、わざと明るく言った。みんなは「そうですよね」とぎこちない笑みを浮かべ、シンゴは「俺が寝ぼけてました!」と頭をかいた。


「ちゃんとステージ見に来て下さいよ、アスノ先輩!」

「アスノ先輩のために弾きますからねー!」


 わざとらしく騒ぎまくる後輩たちを笑顔で送り出し、そっと扉を閉めた。一人ぼっちになった途端、急に目頭が熱くなる。

 この部室で、二人がキスしてたっていうの?

 ヨウヘイとワカナが部室で一緒にいるのは、特におかしなことではない。ユニットを組んでいるのだから、二人きりで練習だってする。だからといって、二人の仲なんて、疑ったことすらなかったのに。

 ヨウヘイ、私を彼女にしちゃったこと、後悔してたのかな。

 ワカナは優しいし、かっこいいし……何よりも「世界で通用するギタリストになりたい」っていう、ヨウヘイと同じ夢を抱いてる。それに比べて私は、ヨウヘイのオマケみたいに入部して、ただ雑用を引き受けてきただけだ。

 たった三人の三年生。彼氏と親友が生み出す世界を、ずっと一番近くで支えてきた……そのつもり、だったのに。


「裏切るわけ、ないよね……」


 祈るようなつぶやきと、飲み込めない溜息が、同時に唇から漏れた。

 部室の片隅に置かれていたスツールに腰掛けたところで、部室の扉がゆっくりと開く。いつもと同じ笑顔のワカナが入ってきて、ヒラヒラと私に手を振った。


「みんな、もうステージに行ったよ。ワカナも行った方がいいんじゃない?」

「うんうん、すれ違った。私も久遠くおんを迎えに来ただけ~」


 ワカナはギターに「久遠」という名前を付けて可愛がっている。定位置に置かれた黒いギターケースを手に取って、埃を払うように軽く撫でた。


「久遠、今日もよろしくね。ヨウヘイもご機嫌だし、今日はいいステージになるよ」

「ヨウヘイ、ご機嫌だった?」

「執行部の女子にチヤホヤされて、鼻の下伸ばしてたよ」

「あははは、いつも通りじゃん」

「絶好調だよー。んじゃ、先行ってるね……あ、そうだ」


 部室を出ようとしたワカナが、何かを思い出したように、急にこちらを振り返った。


「そう言えばさ、シンゴが私のこと、すごい顔で睨んでたんだけど」

「げ、あのバカ」

「あー、可愛い後輩をバカ呼ばわりなんて、いけないんだー」


 しまった、うっかりバカとか言っちゃった。でもこれで、私の努力は台無しじゃないか……ステージの前に演者を動揺させてどうするんだ、あの子は。


「何か言ってた?」


 ワカナがクスクス笑うから、私はごまかす言葉を探せなくなった。

 それならいっそ、明るく真相を聞いてしまおう。ワカナが否定してくれたら、それだけで二人を信じられるから……シンゴの勘違いに、決まってるんだから。


「それがさ聞いてよー、シンゴが変な勘違いしてて大変だったんだからー。ワカナとヨウヘイがチューしてたとか、ありえないこと言い出してさー?」


 なにそれ、あるわけないじゃん、あいつバカだね……そんな返事を期待した私に、ワカナは小声で「見てたんだ」と気まずそうに言った。

 シンゴの見間違いじゃ、なかった。そう理解した瞬間、全身がカッと熱くなる。

 どういうことなの、私たちは親友のはずだよね。いったい何を考えてるの――ぶつけたい感情が一気にあふれてしまって、それを飲み込むのに必死で、言葉を返すことはできなかった。

 我慢しろ、私。今はケンカしてる場合じゃない。

 軽音楽部の出演はプログラムの最後で、そして「ガンマダッシュ」の演奏がメインステージの大トリだ。

 ワカナとヨウヘイには、校内にファンを自称する生徒がいっぱいいる。去年のステージで気に入ってくれた、校外からのお客さんだっている。そのみんなが、ガンマダッシュのステージを待ってる。

 ケンカなんか後でもできるんだから、今はギタリストのワカナでいてほしい。

 楽しみにしている観客のために。

 私たち三人ガンマダッシュの、高校最後のステージのために。


「ヨウヘイからは、何も聞いてなかったの?」

「聞いてない、何も聞いてないよ」

「そっか……ヨウヘイ、本当に内緒にしてくれてたんだ」


 ワカナが頬を赤らめて、嬉しそうに微笑んだ。なにそれ。二人で私に隠れてこっそりキスして、内緒にしようねって約束したの?

 ネガティブな想像が爆発してしまって、どうにも我慢できなくなった。


「言ってくれれば、いつでも別れてあげたのに」


 言いたいことは、そんなことじゃなかった。三人で過ごした時間は嘘じゃないよね、本当はそう言いたかった。

 だけど、その思いを晒すことが怖かった。二人に邪魔者扱いされるくらいなら、自分が消えてしまいたかった。


「やっぱり……アスノってさ、ヨウヘイのこと、そこまで好きじゃないんでしょ? だったら今すぐ別れてよ。いつでも別れてくれるんでしょ?」


 ワカナは私を睨みながら、アスノは何にもわかってない、と吐き捨てるように言った。


「私たち、卒業してもガンマダッシュ続けようって、約束してた。一緒に上京して、一緒に夢を目指そうって……なのに、行けなくなったって言い出した! ヨウヘイはアスノのことが好きすぎて、先のことなんか何も見えてない!」


 何も言い返せなかった。

 うちの親は、上京なんて絶対に許さない。遠距離恋愛を覚悟していた私に、ヨウヘイは「俺もアスノの進路に合わせる」と言った。アスノがそばにいないと、俺たぶん弾けなくなっちまう……って、照れながら言ってくれたんだ。

 それを喜んでいた私は、本当に何もわかってなかった。

 ヨウヘイとワカナの描いていた夢を、私が壊してしまったんだ。


「目を覚まさせてやりたかったのに、強引にキスしたくらいじゃ、アイツは何にも揺らがない……それなのにアスノは、いつでも別れてあげるなんて、簡単に言えちゃう」


 ワカナの声は次第に震えていき、とうとう涙声になった。


「私だって、アスノにこんなこと言いたくなかったけど……お願い、ヨウヘイの夢を邪魔しないで。簡単に手放せる程度の気持ちで、ヨウヘイを閉じ込めてしまわないで!」


 叫ぶようにそう言うと、ワカナは部室を飛び出してしまった。

 友情と恋をいっぺんに失くしたみたいな気分だ。

 それでも、ワカナが正直に話してくれてよかった。ヨウヘイとワカナの描いた夢は、まだ取り戻せるはずだから。

 今日のステージが終わったら、別れて欲しいって言おう。

 私を悪者にしてお別れする理由を、何か考えてみよう。

 ガンマダッシュのステージが終わるまで、まだ、時間はあるから。

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