スズランの誘惑
旦開野
#1
5月3日
私は狩りのために森へと入った。最近行き慣れたと思っていた場所だったのだが、その油断のせいか、森の中で迷ってしまった。一度森の中に入ってしまうと、方向はわからないし、歩いても歩いても同じ景色が続くので、自分が一体どこへ向かっているのかがわからなくなってしまう。しかし私は幸運なことに、同じ景色の続く中で、一つ目印を見つけることができた。ある方向に沿って木に白いペンキで番号が書かれていたのだ。私は最初不思議に思ったが、これはきっと人間の仕業だろうと考えた。この森の奥に人が住んでいるのか、はたまた過去にここを訪れた賢い者が目印のためにつけたものなのか。どちらにせよ、人間がつけた目印であることには間違いがないので、私はその数字を順番に辿っていくこととした。
9の番号までくると、森の中でも少し開けた場所に出た。驚くことに、その開けた場所には、こじんまりとした一軒家が立っていた。小さいが、可愛らしい家の周りには白と緑が鮮やかなスズランの花たちが咲き誇っていた。
私は、あまりにも綺麗に咲くスズランたちに気をとられ、始め、そこにいる一人の女性の姿に気づかなかった。彼女はスズランと同じ白いワンピースに身を包み、綺麗な長い髪をなびかせて花畑に水をあげていた。花に微笑みかけながらじょうろを使うその美しい仕草に、私は釘付けになってしまった。しばらくして、彼女が私の視線に気がつき、私に微笑みかけた。花にしているのと同じように。私は彼女と目が合うと、自分の体の体温が上がったのがわかった。きっと顔が真っ赤になっていたことだろう。
「よかったらお茶でもしませんか。」
彼女はドキマギする私をよそに、微笑みながら透き通る声で呼びかけてくれた。迷子になり、疲れ果てていた私は、お言葉に甘えることにした。私は庭園にある椅子に案内された。彼女は家の中へ入り、お茶の支度を始めた。ひとまずゆっくりできることに安心したものの、彼女とどう話をしようかと緊張もしていた。
「そんなにかしこまらず、リラックスしてください。」
後ろからティーセットとクッキーを運びながら彼女が言った。私の体は彼女にわかるくらいに姿勢を正したまま、微動打にしていなかったようだ。リラックスしてください、と言われても力の抜き方がわからなかった。
「そんなに緊張なされて、森の中で何かありましたか?」
彼女はお茶をティーカップに移しながら私に問いかけた。ポットから出てくる水色は薄い紫色をしていて、華やかで上品な香りが漂っていた。
「いえ、森で迷ったこと以外大したことは…」
私はそう続け、森に入った経緯や迷ってしまい困っていたこと、そうしていると木に書かれた数字を見つけてこの家の前までやってきたことを話した。話す声はいつもよりも上ずっていた気がするが、彼女は気にすることなく、話にうなづきながら、ティーカップを目の前に差し出してくれた。
「その数字は私が書いたものです。この森で迷ってしまったら大変ですから。目印がお役に立ったのであればよかったです。」
彼女はとても嬉しそうだった。私はその眩しすぎる笑顔を見続けていることができずに、ティーカップを口へ運んだ。香り、色からするにどうやらラベンダーのようだった。
しばらくの沈黙ののち、私はようやく彼女のことを聞いた。彼女の名前はリリィと言って、この小屋に住み出して5年ほど経つらしい。ここに住む前は街で生活をしていたのだが、人間関係に疲れてしまい街を離れる決心をしたのだとか。森へ入ったところ、たまたまこの家を見つけ、当時は人が住んでいる形跡もなく、屋根があったほうがもちろん安心なのでリリィはここに住むことを決めたそうだ。
ここでの生活は不便ではないのか、と私は聞いた。彼女は確かに一人でここに住むのには不便なことがたくさんあるが、街にいるよりは随分と苦痛がなくなった、と答えた。よっぽど街で辛い思いをしてきたのだろう。しかし彼女はこうも続けた。
「でも、ずっと一人でいるものだから、たまには人恋しくもなりますね。」
少し儚げな表情でこんなことを言われて、何かしてあげたいと思わない男はいないのではないだろうか。
「あの…私で良ければしばらくここにいましょうか?もちろんただでとは言いません。できることはなんでもします。力はそこそこありますし、何かしらのお役には立てるかと思います。」
考えるよりも先に私はそんなことを口走っていた。私は母と父と3人で暮らしているが、私自身いい年をした大人である。2、3日帰ってこなかったくらいで両親も騒ぐことはないだろう。それにしても我ながらに大胆な提案をしたものである。冷静に考えたら、初対面の女性の家に泊ろうなんてだいぶ危ないやつだ。言われた側は嫌な顔をされてもおかしくはない。しかし彼女は
「ちょうど人手が欲しかったところなんです。本当にそうしていただけるのであれば助かります。」
と今日一番の、天使のような笑顔で答えてくれた。森で迷って困っていたとはいえ、初対面の男をこう易々と迎え入れてくれるなんてなんて優しいのだろう。もしかしたら、長い間人と接してこなかったのでそういう距離感という物がわからないのかもしれない。ともあれ私は彼女の家で短い間だが、お世話になることになった。
5月4日
昨日長い間森を彷徨っていたせいなのか、彼女が近くにいる緊張のせいなのか、私はリリィに家に案内され、日が落ちる頃にはリビングにあるソファの上でぐっすりと眠りについてしまった。久しぶりにとても深い眠りだったように思う。目が覚めたのは日がもうすぐ真上に上り切りそうなくらいの時刻だった。彼女は私よりも早い時間に起きているらしく、庭の畑ですでに作業をしていた。今日は昨日来ていた白いワンピースではなく、ジーンズ生地の作業着で髪を後頭部の高いところでお団子にまとめていた。
「昨日は畑仕事とか大きなお仕事はお休みだったんです。一人でここに暮らしていると汚れることが多々あるので普段はこういう格好なんです。」
今日はだいぶ動きやすそうな服装ですね、と声をかけたら彼女は少し恥ずかしそうにして、答えてくれた。山の中の一人暮らし、やることはたくさんある。私は彼女が、お似合の真っ白なワンピースを着ていなくて少し残念だったが、彼女は作業用の服ですらとても可愛らしく着こなしていた。
私は彼女の仕事を手伝った。今日は主に畑仕事。新しく野菜を育てるスペースを耕し、種まきまで行う。少し休憩して彼女が作ってくれたサンドウィッチを腹に入れたら今度は収穫作業。丸々と育って、鮮やかな緑色をした空豆をカゴに入れる。畑の作業が終わると、今度はハーブ、そして庭に生茂るスズランたちに水をあげた。そんなことをしていたらいつの間にか日が暮れていた。
「お疲れ様です。やはり2人でやると捗りますね。とても助かります。」
彼女は相変わらず、天使のような微笑みを私に向けてきた。その笑顔だけで私の今日の疲れは吹き飛んだ。
彼女は料理もうまかった。昼に食べたサンドウィッチはもちろん、夕飯に食べた、今日収穫したばかりの空豆を使ったスープなんかは絶品だった。彼女は結婚したらいい奥さんになりそうだな…なんてふとしたところで感じる。とても優しくて、気遣いもできて、そして料理も上手で…私と話すときなんかも、街にいる人たちとなんら変わりはない。どうして彼女が街を離れて、こんな辺鄙で不便な土地に住んでいるのかが、私にはわからなかった。これに関してはあまり触れるべきではないと思った私は、直接彼女に原因などは聞かなかった。夕飯ののち、私はまたリビングのソファへ、彼女は自身の寝室へ向かった。昨日は私はいつの間にか寝てしまったが、彼女もあまり遅くまでは起きていないようだった。明日は来ているものの洗濯をして、普段彼女一人では多くはできない薪割りを手伝うことになっている。明日こそはちゃんと朝から起きなければ。それにしても本当に彼女はよくこのような生活をやっているなと感心する。
5月5日
私は明日、家へ帰ることにした。彼女と少しでも離れてしまうのは本当に悲しい。だかそれもほんの少しの辛抱だ。私は一度家へと帰るが再び彼女のところに戻ってくるつもりだ。
洗濯を終え、川辺でお昼ご飯を食べながら休憩していた時のこと。流石に3日もお世話になると、お互いに話もだいぶ弾むようになっていた。そんな雑談の中で彼女が
「あなたとお話をしていると楽しくてついつい時間が経つのを忘れてしまいます。ずっとここにいてくださればいいのに。」
そんなことを言ってきたのだ。これには私はびっくりしてしまった。彼女は私のことなどなんとも思っていなくて、ただのお人好しでここにいさせてくれているのであって、好意を抱いているのは私一人だと思っていたのだ。しかし、彼女はずっといてくれればいいのに、なんて嬉しいことを言ってくれたのだ。私はこの言葉に飛び上がりそうになったが、その気持ちを抑え、一度冷静になって考えた。いくらお世辞でもここまでのことを言うだろうか?この言葉は「私はあなたからの告白を待っています」と暗に示しているのか?いや、それは流石に自惚れすぎなのでは??冷静になったつもりだったが、どうやら冷静になりきれていないようだった。サンドウィッチを食べながらしばらくそうして考えていたので、あたりには川のせせらぐ音しか聞こえてこなかった。
「あの…出会ってまだ間もないのにこんなことをいうのは変かもしれませんが、これからもずっと僕と一緒に暮らしませんか?もちろんここで。」
冷静になったつもりで導き出した言葉がプロポーズだった。私はここへきてから相当大胆な性格になったようだ。彼女の美しさがそうさせているのだと思う。彼女は突然のプロポーズに流石に驚いたらしく、しばらく足元を見て黙っていた。しかし
「本当にいいんですか?私、あなたとであればここでより幸せに暮らしていける気がします。」
「と、いうことは…?」
「はい。よろしくお願いします。」
彼女は微笑んで私の瞳を見た。私は生きている心地がせず、全身の力が抜け、座っていた芝生に倒れた。その様子を彼女はふふっと嬉しそうに笑っていた。
そんなことがあり、私は両親に結婚をすること、そして森の奥で2人で暮らすことを伝えるために、明日の朝一で家へ帰ることにした。報告が済んだらすぐにでもここへと戻ってくるつもりだ。まさか森で迷っ…
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
5月6日正午。森の奥にある、スズランに囲まれた小さな一軒家の前には、大きな護送用馬車が止まっていた。よく見ると何人か人がいる。どうやら街からきた警察たちのようだった。リビングにいる一人の警官は黙って手元の手帳を見つめていた。ソファの近くにある小さなテーブルでは息をしていない男が突っ伏していて、隣にはコップに入った水が置かれていた。
「それは被害者の日記…ですか?」
男の部下らしい人物が声をかけた。
「あぁ。これを書いている途中にどうやら息絶えたようだ。死因は心臓麻痺。コップの中を調べたらスズランが持つ毒が出てきた。スズランを生けていた水を入れたんだろう。飲水用と思われるピッチャーからも同じものが出た。ここの家主が意図してすり替えたものだと思われる。」
「容疑者はもう護送車の中ですか?」
「あぁ。意外とあっさり容疑を認めて、今は大人しく箱の中に入っているだろうよ。」
「あんな美しい女性なのに…」
「惚れんなよ。殺されるぞ。」
ここ最近、森の中に入った男がことごとく行方をくらますという事件が相次いでいた。森での捜索が行われたていたが、捜索願いを出された人たちは見つけ出すことができなかった。崖から落ちたり、熊などに襲われている可能性も考えたがだとしたら死体の一つくらい出てきてもおかしくはない。行方をくらませた彼らはまるで水が蒸発したかのように何も残さずに消えてしまったのだ。
そんな中、女性警官の一人が、森の奥に一軒家があるのを見つけた。そこにはどうやら、女性が一人住んでいるようだった。警官は女がなんとなく怪しいと思い、接触せずに街へと帰り、森の中の家について、そして彼女について調べ始めた。
調べていくうちに彼女のことがだんだんと見えてきた。あの一軒家は元々とある画家が、一人静かに創作をするために作った小屋で、持ち主は7年ほど前に亡くなっている。親族によって盛大に葬式も行われていた。それ以来、あの家には誰も住んでいないと、画家の親族は認識している。では今住んでいる彼女は何者なのか。そちらも調べていくと、ある犯罪者が街から行方をくらましていることがわかった。彼女は死体愛好者で自身の欲を満たすために、言い寄ってきた男を次々に殺していたそうだ。その足を警官に掴まれたことを知った彼女は街を出て、その後、行方が分からなくなっていた。彼女の名前はリリィと言った。
リリィの証言により、家から少し離れた場所を掘り起こしてみると、そこには白骨化したものから、まだ腐りかけているものまで、複数の遺体が発見された。身元を割り出すのは困難ではあるが、どれも行方不明になった男のものであろう。彼女は毎回スズランを生けた水を男たちに飲ませ、毒殺したのちに、彼らの服をはぎ、自身の性欲を満たしてから彼らを土の中へと埋めていたとのことだった。
「まぁこれだけ何も知らずに、お気楽に死ねたのであれば幸せ者なんじゃね。」
リビングで日記を読んでいた警官がボソッと呟いた。
「彼女、本当にスズランみたいな女性ですね。見た目は可愛らしいのに殺傷能力の強い毒がある…的な。」
窓の外で綺麗に咲くスズランを見ながら部下が言う。
「人は見た目だけじゃ判断できないってことだ。」
警官は日記をもう動かない持ち主の近くに置いた。庭に咲くスズランが自身の毒で人を殺してしまうなんてことはつゆ知らずに、太陽の光を浴びてキラキラと咲き誇っていた。
スズランの誘惑 旦開野 @asaakeno73
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます