焦りと不安

 それから約一週間後。少しずつでも動けるようにならないといけないと、わたくしは侍女に付き添ってもらって立つ練習をするつもりだった。

 ベッドに腰掛けたまま、マインラートに問いかける。


「……何故あなたがここに?」

「いや、コンラートが母上のところに行ってくださいと執務を代わってくれたんだ。だから私が付き添うよ」


 マインラートが侍女に合図をすると、彼女は頭を下げて部屋を出て行った。


「……コンラート」


 そんな余計なことはしなくていいのに、と思わず恨みがましく名前を呟く。


 わたくしの気がついてからというもの、マインラートはこれまでの空白を埋めるかのようにわたくしに構う。


 食事の介助、眠る時、時には書類を持ってきて、仕事をしながらも傍から離れない。わたくしは子どもではないから、四六時中見張る必要はないのだけれど。


 ただ、着替えと入浴の代わりに体を拭いてくれたり、洗髪、その他諸々は侍女やメイドがやってくれていたと聞いてホッとした。


 初めはマインラートがそれらもしようとしていたらしいけれど、ユーリが、お義母様のためにやめてあげてくださいとマインラートを止めてくれたそうだ。


 本当に彼女には感謝してもしきれない。


 だけど、今回は止めてくれなかったようだ。ユーリはわたくしがマインラートを愛していることを知っているから、少しでも距離を縮めて欲しいとでも思っているのだろう。わたくしはユーリにも離縁の気持ちを固めている今の自分の気持ちを告げていないのだから。


 侍女も出て行ってしまって一人では動けない。それならお願いするしかないかと、ちらりとマインラートを見ると彼は頷く。どうあっても譲るつもりはないらしい。


「……お願いします」


 渋々頼むと、マインラートは嬉しそうに笑う。


「それじゃあ私の手を掴んで」

「……ええ」


 差し出された手を恐る恐る握る。そんなに力を入れてなかったのだけど、マインラートは更に強い力でわたくしの手を握り返す。


「そのままゆっくり立ち上がれるか? 無理なら私が引っ張るが」

「いえ、やってみます」


 長く使っていなかった足は鉛のように重く、自分の意思で思い通りに動かせない。マインラートの手を握りこんで体重を足にかけて踏ん張り、そのままゆっくりと立ち上がる。


 ただそれだけなのに、わたくしの額にはうっすらと汗が滲み出している。思った以上に体力が落ちていることを痛感した。


「今はこれが精一杯だな。もう座った方がいいんじゃないか?」

「いえ、もう少し。どうしても駄目な時は諦めますが」


 座りたい誘惑に駆られるけれど、まだ諦めたくない。できるだけ早く回復するためには、多少の無理も必要だ。だけど、マインラートは眉を顰める。


「無理は禁物だ。無理が祟って体調を崩したことを忘れていないか?」

「いえ、それとこれとは別ですから」

「時間はたっぷりあるんだ。そんなに焦らなくてもいいんじゃないか?」


 ──時間なんてない。


 マインラートと過ごすようになって、わたくしの凪いでいた心は少しずつ揺らぎ始めた。一緒に過ごす時間が長くなるほど、わたくしはまた彼を手放せなくなってしまう。


 わたくしが自分の欲に負けないうちに、なんとしても動けるようになってここを出て行きたかった。


 マインラートの不意打ちの言葉に、足に向いていた意識の集中が途切れて踏ん張った足から力が抜けそうになった。


「危ない!」


 マインラートはわたくしの手を引っ張って反動でわたくしを抱き込む。身長差があるせいか、わたくしの視界は彼の胸元で埋め尽くされた。


 余程驚いたのか、マインラートは激しい鼓動を刻んでいる。ふうと、溜息が音と振動で伝わってきた。


「やっぱりもう無理だろう。足が限界なんじゃないか?」


 あなたの言葉に動揺したとは言いづらくて、わたくしは彼の胸に顔を埋めたまま頷く。そのまま後ろにゆっくりと体重をかけて再びベッドに腰掛けると、ようやくマインラートは離してくれた。


 マインラートはわたくしの隣に腰掛けて、気遣わしげに話しかけてくる。


「……まだ早いんじゃないか? 焦るのはわかるが、ゆっくりやっていこう」

「ですが……」

「何が心配なんだ? 言いたいことがあるなら言ってくれ」


 心配事はあなたです、なんて言えるわけがない。


 これ以上構われると余計に愛してしまうから構わないでくださいなんて、どうして言えるだろう。


 マインラートはわたくしに申し訳ないと感じている。


 それならわたくしの気持ちに応えなければと、わたくしを愛そうと努力するだろう。


 だけど、努力をして愛するものなのだろうか。愛するから、相手を思いやって努力するものだ。気持ちは努力して捻じ曲げるものではない。


 だからわたくしはマインラートに気持ちを告げることはできない。


 そうしてわたくしはまた嘘を吐く。


「……わたくしはまだ、子爵夫人です。いつまでも休んでいるわけにはいかないでしょう?」

「それは話しただろう? 今はコンラートとユーリが頑張ってくれている。ユーリもまだ不安なところはあるから、ユーリから助言を求められた時に君が力になってあげればいい。それ以外は静養していて欲しいというのが、コンラートとユーリの願いだよ」

「あの二人が……」


 わたくしは色々間違えたのに、それでも赦してくれて思いやってくれている。二人の優しさがありがたくもあり、辛くもあった。


 どこかで自分には赦される価値がないと未だに思っているからだろう。わたくしはまだ、家族から与えられた価値観から逃れられない。


 自分には価値がない、役に立たない。


 そのこともわたくしを不安に駆り立てる。何もしていないと本当に自分が無価値でどうしようもない人間に思えてくるのだ。


 止まった時間が動き出した時の感情の揺り戻しは、わたくしの以前の悲観的な感情まで引き出してしまった。


 だけど、それは誰にも言えないし、言ってはいけない。コンラートに心配をかけてしまうから。


 そしてわたくしはまた、どうすればいいのかわからなくなるのだった。

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