グヴィナー伯爵夫人の策略

 翌日、屋敷に帰った時には昼を回っていた。マインラートはとっくの昔に出かけている。


 だけど、顔を合わせなくてほっとした。どんな顔で会えばいいのかわからない。


 マインラートは家のためにグヴィナー伯爵夫人と関係を結んだ。それに比べてわたくしは、どうでもよくなって慰めてくれる男性に寄りかかるという自分本位な理由で関係を結んだ。


 今までも自分を好きだと思ったことはなかったけれど、今ほど自分を軽蔑したことはない。


 コンラートを振り払い、自分は一体何をしているのか。


 ──死んでしまいたい。


 そんな思いが頭をよぎる。だけど、それはできない。この国では自殺は禁忌だ。そんなことをすればきっと、遺されたマインラートやコンラートが非難されるだろう。


 結局わたくしはただ生きることしかできないのだ。誰にも愛されることなく。体は生きているのに心は乖離して死んでいく。


 自分が汚くて、侍女やメイドが手伝うと言うのを振り切り、一人で入浴した。


 肌が真っ赤になるほど磨いてもまだ自分が汚い気がして、ひたすら磨く。それでも汚れが落ちない気がして泣きながら磨いた。


 入浴後は食欲もなくてじっと自室にこもっていた。いつのまにか日が暮れていても気にならなかった。


 わたくしは自分の手で大切なものを踏みにじったのだ。その罪悪感に押しつぶされそうだった。


 ◇


 夜半過ぎにマインラートが帰ってきてわたくしの部屋に来た。泣いて腫れていた目はもう元に戻っていて、いつもの顔を作る。


「……どうなさったのですか?」

「いや、昨日はあの後会場から居なくなっていたから心配していたんだ」


 心配という言葉に胸が締め付けられる。わたくしにそんな価値なんてないのに。後ろめたくてマインラートの顔が見られない。


「……わたくしなら大丈夫です。あなたこそあの後……」


 彼女と過ごしたのかとは聞けなかった。わたくしにそれを聞く資格なんてない。


「ああ。あの後君を探したが、いなかったから先に帰らせてもらったよ。すまなかった」

「……謝らないでください」


 余計に罪悪感が募る。泣きそうになって声が震えた。わたくしの様子に気づいたのか、マインラートは怪訝にわたくしの顔を覗き込もうとする。


「いや……!」

「アイリーン……?」


 思わず顔を背けるとマインラートは心配そうにわたくしの名前を呼ぶ。


「……何でもありません。大丈夫なので一人にしていただけますか?」

「本当に大丈夫か? 何かあったのなら……」

「何もありません。ですから一人にしてください……」


 マインラートの言葉を最後まで聞けなくて遮った。あなたには好きにしていいと言われたけれど、そんなつもりはなかった。だからあなたやコンラートを裏切ったことが辛いなんて、どの面下げて言えるのか。


 その日マインラートはそれ以上聞かずに自室へ戻って行った。


 ◇


 数日後、塞ぎ込みがちになる気持ちを抑え込み、屋敷の采配について執事と話していると、突然マインラートが帰って来た。


 執事も不思議そうに玄関ホールでマインラートを迎える。


「お帰りなさいませ、旦那様」

「ああ……ちょっとアイリーンと話がしたいんだが、いいか?」

「ええ、それは構いませんが、こちらで話しますか?」

「いや、部屋の方がいい」


 周囲を見回す様子から、人には聞かれたくない話なのだろうとわかる。一体何を言われるのかと、戦々恐々とマインラートについていった。


「それでお話って何ですの?」


 近くの部屋に入ると扉を閉めたマインラートに問う。マインラートは眉を寄せて逡巡しているようだったが、ようやく重い口を開いた。


「実は、グヴィナー伯爵夫人から聞いたんだが、あの夜会の時に知り合った男がいるんだろう?」


 息が止まるかと思った。弱っていたとはいえ、初対面の男性に優しくされ、のぼせ上がった愚かなわたくしをきっとマインラートは軽蔑しているのだ。


 一度の過ちでも信用は地の底に落ちてしまう。そんなことは実家で嫌というほど感じていたのにと、悔やんでも遅い。わたくしは俯いて頷いた。


「……ええ。それがどうかなさいましたか?」

「いや、気づかなくてすまない」

「え?」


 思いがけない言葉に弾かれたように顔を上げると、マインラートは沈鬱な表情で頭を下げる。


「私が至らないばかりに君に我慢させていたんだな。私のことは気にしなくていい。君も好きなことをしていいんだ」


 意味がわからずにマインラートに問う。


「……どういうことですの?」

「いや、クラルヴァイン伯爵令息と君が意気投合してその夜一緒に過ごしたと聞いたんだ。彼が好きなんだろう?」


 違う。好きなのはあなたなのに。だけどそんなことは言えなかった。


 この時にグヴィナー伯爵夫人に嵌められたことに気づいた。きっとこうなることも計算のうちだったのだと。


 ここでわたくしがマインラートが好きだと言えば、わたくしは好きでもない男と関係を持ったふしだらな女、クラルヴァイン伯爵令息が好きだと言えば、マインラートとの距離は更に離れるだろう。


 どちらにしてもわたくしにとっては辛い選択しか残っていない。


 いえ、違う。そもそもわたくしが弱くて、あの晩クラルヴァイン伯爵令息にすがったのが間違いだった。


 わたくしはグヴィナー伯爵夫人ではなく、自分の心の弱さに負けたのだ。


 そしてわたくしが選んだ答えは──。


「……ええ。わたくしはあの方をお慕いしております」


 自分の恋心を偽るしかなかった。

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