偽った恋心─R15─
海星
女に生まれて
「離縁してください」
結婚してもう二十年は経つだろうか。長年かけて歪んだ夫への恋心に終止符を打つには離縁するしかない。だけど、本当に離縁してしまえば、わたくしは多くのものを失ってしまう。ようやく分かり合えるかもしれない息子に、理解者である息子の嫁、そして目の前にいる当人である夫。
それでも、わたくしの気持ちは離縁に傾いていった。過ちを正すため? いえ、違う。もしかしたらそれも夫への愛ゆえだったのかもしれない──。
◇
わたくしは幼い頃から、両親に言い聞かせられてきた。女は政略の役にしか立たないのだから、外見と中身を磨くようにと。
この男尊女卑の社会の中ではそれも仕方ないのかもしれない。だから、わたくしなりに努力はしたつもりだった。だけど、両親は出来の悪いわたくしに眉を顰めるばかり。
「このブリーゲル子爵家の娘として恥ずかしくないようになさい、アイリーン」
恥ずかしくないように?
両親はわたくしがどんなに頑張っても認めないのに、正解さえも示してもくれない。そのうちにわたくしは、頑張ったところで報われないと悟り、諦めることを覚えた。
そんなわたくしを両親は見限り、後継である二歳違いの弟を溺愛するようになった。性差があるとはいえ、あからさまに区別されるのは耐え難い屈辱だった。
弟が幼い頃はまだよかった。両親に顧みられないわたくしに、あの子だけは優しくしてくれていたから。だけど、両親が生んだ歪みは少しずつあの子を蝕んでいってしまった。
優しかったあの子はもうどこにもいない。そこにいたのは両親と共にわたくしを侮蔑の目で見る一人の男だった。
「面倒を見てもらっているのだから、せめて政略の役には立ってくださいよ。姉上?」
どうして。わたくしが一体何をしたというのか。出来が悪いというのはそれほどまでに許されないことなのだろうか。
誰にも顧みられなくなったことで、わたくしは問題を起こせば皆が振り向いてくれるのではないかと考えた。だから、わたくしは淑女教育にわざと手を抜いたり、お茶会で失敗したりした。これでわたくしの気持ちが少しはわかってもらえるだろうかと期待した自分が馬鹿だった。
その結果待っていたのは、教育という名の激しい暴力だった。弟は「恥を知れ」と思いきりわたくしの頬を張り、崩れ落ちたらわたくしの髪を掴んで顔を上げさせた。目が合った弟の顔からは、一切の表情が抜け落ちていた。
その様子を止めるでもなく、にこやかに笑って弟を「そうだ、そうやってわからせるんだ。お前はよくわかっている」などと賞賛する両親。この家には誰も味方がいない。少しずつわたくしの心は凍りついていった。
それからはただ唯々諾々と家族に従うだけの日々。それでも暴力は止むことはなかった。気にいらないことがあったり、失敗すれば教育という名の暴力を浴びせられる。だからだろうか、わたくしは相変わらず出来は悪かったが、淑女らしくなり、感情を表に出すことが無くなった。
それでもわたくしは内心で年頃の娘のように期待に胸を弾ませていた。物語の主人公のように、いつか自分を救い出してくれる素敵な男性に出会えることを──。
◇
「アイリーン、喜べ。お前の縁談が決まったぞ」
社交界デビューが終わったわたくしに、父は淡々と告げた。十六歳で、大人になりたてのわたくしは、相手がどんな方なのかと期待と不安で次の言葉を待った。そんなわたくしに父は更に続ける。
「相手はマインラート・シュトラウス。シュトラウス子爵家の当主だ。まだ二十歳過ぎの若さだが、前当主が亡くなったから代替わりしたそうだ。お前は子爵夫人になる。くれぐれも相手の機嫌を損ねるようなことをするな。わかったな」
「……わかりました」
父の言葉に粛々と答えながらも、わたくしは父から言われた言葉を反芻する。
──マインラート・シュトラウスと言うのね。子爵家当主で、まだ二十歳過ぎ。
どんな男性かはわからないけれど、閉塞した生活に一筋の光が差し込んだ。今より酷いことにはならないだろうと、わたくしは彼との出会いを心待ちにするのだった。
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