第10話 もう悲しみはいらない
それから、文音の叔父が帰ってきたのは、陽が沈むより少し早い時刻だった。
駆が来ているとは知らなかった文音の叔父が最初にしようとしたことは、警察に連絡を入れることだった。流石にそれは文音や文音の叔母に止められたものの、駆は文音の叔父との話し合いは困難なものになるだろうと覚悟した。
実際、最初のうちのそれは話し合いというよりも、文音の叔父による駆への一方的な尋問であった。文音といつ出会ったのか、それはどういうきっかけだったのか、一緒にいる間何をしていたのか……事細かく事情を聞き出し、曖昧な点があれば即座に怒りを露わにして、やましいことがあるのではないかと理不尽な難癖を付けてくる。
それに対し、駆は粘り強く地道に答えを返し続け、文音の叔父が怒り出しても臆することなくもう一度きちんと言い直して、正確に伝わるように努めた。その場に同席していた文音は気が気ではなく、何度となく自分の叔父に抗議しようとしたが、その度に駆の方がそれを押し止めた。
「……随分と文音のことがお気に入りのようじゃないか、君は?」
幾度目かの質問を終えた文音の叔父は、疲れた様子も見せずに不機嫌そうな口調で駆を嘲る。駆は口を真一文字に結んだまま黙ってその言葉を受け止めていた。
「……やましいことが目的なのでなければ、一体何が君をそこまで駆り立てているんだ? さっきの説明では君も家族を失っているということだったが……それは所詮、文音の同情が欲しいだけのことなんじゃないのか?」
「叔父さん、なんてことを言うのよ! いくら何でも駆に失礼よ!」
自分の叔父のあまりの言い様に、耐え切れなくなった文音がはっきりと怒りの色を見せつつ抗議の声を上げる。文音の叔母も口には出さないが、やんわりと非難の視線を主人に向けている。しかし、文音の叔父は二人の抗議を歯牙にもかけなかった。
「黙っていなさい文音。これは男同士の話し合いだ。女の出る幕ではない」
そう一喝して文音を黙らせた文音の叔父は、黙ったままの駆の方に向きなおる。
「それでどうなんだ? 君が文音に注目する理由を言いたまえ。返答次第では君を警察に突き出す必要が出てくる。勿論、私としてもまだ中学生の子供相手にそんなことをしたくないのだけれど、君が素直に話さないのであるならば仕方がない……」
「……いい加減にしてください!」
文音の叔父の傲慢な言葉を遮って、駆は言った。その目は文音の叔父だけを真っ直ぐに睨みつけている。
「あ?」
「いい加減にしてください、と言ったんです! 俺はずっと、ありのままに正直なことを話してきました。しかし、聞いている人が素直に耳を傾けようとしていないのでは、話をしても意味がありません」
「何だと! 君は私を侮辱するのか!」
駆の言葉に文音の叔父は激昂した。その目は血走り、顔は真っ赤に染まっている。
「侮辱ではありません! 最初から話を聞く気がない態度を改めて下さいと言っているんです」
「黙れ! たかだか中学生のガキが、この私にどの面を下げてそんな言葉を言うんだ!」
文音の叔父はこれ以上我慢が出来ないといったように駆の胸倉をつかみ上げようとする。それを見た文音は顔面を蒼白にして震えだし、事の成り行きを見ていた文音の叔母も、「あなた、みっともない真似はやめてちょうだい!」と止めに入る。
しかし、肝心の駆はその場から動かなかった。黙ったまま、ただただ文音の叔父のことを正面から見据えている。
駆がまるで動じないのを見た文音の叔父は、その態度に一瞬気圧されてしまい、すぐに気を取り直して駆のことを威圧するように睨んだ。
「どうした小僧! 女性に助けてもらわないと殴り合いも出来ないのか?」
しかし、駆はその言葉に黙ったまま首を横に振った。
「違います。一発だけなら殴られてもいいと、そう思ったんです」
「何?」
あまりにも意外過ぎる駆の言葉に、文音の叔父は呆気にとられて思わず駆に向けていた手を引っ込めてしまう。文音と文音の叔母も駆の言葉の意味が理解できずに顔を見合わせている。
「君は何を言っているんだ? 何故黙って殴られてもいいと言える?」
「俺だって黙って殴られたくはありません。でも、それであなたの気持ちが少しでも静まるのならば最初だけは我慢します」
その言葉に文音の叔父は困惑した表情を受かべる。どう対処したらよいのか分からず、先程まで座っていた椅子にストンと腰を下ろして、再度駆に問いかける。
「何故なんだ? どうして君はそんな風に考えることが出来るんだ? まだまだ君は子供と言える年じゃないか?」
「何でか、と言われたら俺にも正直なところは分かりません。でも、ここであなたと殴り合いをやっても文音が悲しむだけだと、それだけは思いました」
率直に答える駆の表情はひどく落ち着いている。自分自身でも驚くほど自然体でいられた。
駆の方も最初は殴られたら殴り返してやろうと覚悟を決めていた。しかし、いざ殴られる寸前になってみて、側にいた文音が青ざめた表情で自分たちのことを見つめているのに気付いた駆は、即座に考えを改めていた。
どんなに一触即発の状態になろうとも、文音を悲しませることだけは避けたい。全ての家族を一瞬にして失うという、これ以上はない悲劇に直面した文音をこれ以上悲しい目に遭わせたくない。駆の心にあったのはその一点だけだった。
文音の叔父は駆の言葉を聞いて黙り込む。天井を仰ぐような姿勢のまま動こうとしない。文音と文音の叔母は、心配そうに駆のことを見つめている。
やがて、文音の叔父が姿勢を正して駆の方に向きなおった時には、それなりの時間が経過していた。
「……文音が悲しむのを見たくない、か……。確かにそうだ。私も文音が悲しむところなど見たくはない」
力なく、文音の叔父はそう言った。悪い憑き物が落ちたような、とても穏やかな表情を浮かべている。
「……まさか年端もいかない、中学生の子供に教えられることになるとは思わなかったよ。誰かのことを、ただただ一途に思い続ける大切さを」
「いえ、教えるだなんてとんでもないですよ。それどころか、とんでもなく失礼なことを言ってしまって……」
文音の叔父が懺悔するかのように言うのを聞いた駆は、慌てて自分のした非礼を詫びようとするが、文音の叔父は苦笑いを浮かべてそれを制した。
「いやいや、気にすることはない。私の方こそ、さんざん君に無礼な言葉を浴びせてしまって、恥ずかしい限りだよ。ただ……」
「ただ……何でしょう?」
駆は真っ直ぐな視線で文音の叔父のことを見つめて、次の言葉を待つ。その様子を見た文音の叔父は満足そうに目を細めた。
「……君は優しいが、優しいだけでは人生を生きていくには物足りないこともある。やりすぎは良くないが、時には厳しい姿勢を取ることも大切だよ。これから先も文音と二人で歩いていく覚悟があるのなら、なおさらだ」
「……その言葉、忘れないようにします……!」
「駆……!」
文音の叔父の言葉に駆は神妙な表情でうなずいて見せ、二人が和解したことを理解した文音は、そこでようやくほっとしたように笑顔を浮かべた。そして、そんな文音の様子に気が付いた駆もまた、ほっとしたような笑顔を浮かべていた。
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