満月の約束

緋那真意

第1話 満月の夜に

 月が満ちている。

 空には真ん丸の月が浮かんでいる。

 海に、大地に、安らぎの光が届き、生き物たちは静かな夜を過ごす。



 そんな安らかな満月の夜に、ひとりの少年が泣いていた。

 少年の名前は道生駆みちなりかける。中学二年生である。

 駆はこの日、母を亡くした。流行り病だった。

 幼い頃に父親を事故で亡くし、駆は母親と二人きりで過ごしてきた。

 しかし、その母親も亡くなり、駆はひとりぼっちになってしまった。

 死の間際、母親は駆に「ひとりでも強く生きて」と言い残している。



 駆も頭ではそのことを理解している。しかし、いざ実際に母親が亡くなると、駆の心は寂しさとやるせなさで満たされた。

 もう自分と血の繋がったひとは、この世界には誰もいない。この寂しさを、やるせなさを分かち合ってくれる人は誰もいない。

 年若くして全ての家族を失ってしまった駆には、その孤独はあまりにも重たすぎた。

 こんなことなら、いっそ自分もこの場で死ねればよいのに、と駆は思った。ここで死んで、父と母のいるであろう天国へ旅立てればどんなによいだろうと本気で思った。しかし、死ねば「生きて」と言っていた母親の遺志に背くことになってしまう。



 どうしたらよいのかもわからず、駆が泣きながら途方に暮れていると、そこに一人の老婆が現れて、彼に話しかけてきた。

 老婆は仕立てのよさそうな漆黒のドレスに身を包み、優し気な微笑みを浮かべている。その立ち居振る舞いの一つ一つに気品を感じさせていたが、その一方でどこか得体の知れなさも感じさせた。

 普段の駆ならば、見ず知らずの人間に話しかけたりしないのであるが、母親を亡くしどこかで救いの手を求めていた彼は思わず老婆の問いに答えていた。

 駆の言葉を聞いた老婆は、「今時珍しいくらい純粋で優しい子供がいたもんだね」と小さく笑う。

 駆は老婆の態度にムッとして、「馬鹿にしに来たのなら帰ってください」とぶっきらぼうに話す。

 老婆はそんな駆の態度にも笑みを絶やさない。うんうんと頷きながら、「それくらい強気の方が亡くなったお母さんも安心するんじゃないのかね?」と話す。

 駆は老婆の問いに答えたことを後悔した。やはりこんなことならさっさと死ねばよかったのかもしれないと思った。



 しかし老婆はそんな駆の心を見透かすかのように、「お前さんは今、早く死んで両親のいるところへ行きたいと考えているんだろう?」と問うた。

 図星を突かれた駆は思わず目を丸くした。どうして自分の考えていることがこの老婆には理解できたのだろう。

 駆の疑問に満ちている視線を向けられた老婆は「そりゃまあ、私もこんな歳だからね。お前さんみたいな子供たちもたくさん見て来たのさ」と澄ました顔で言った。

 それを聞いた駆は尋ねた。それでは自分と同じ境遇に立たされていた子供たちは一体どうしていたのかと。



 その質問を待っていた、とでも言うように老婆はしわくちゃの顔に満面の笑みを浮かべ、「だからお前さんに話しかけたのさ」と嬉しそうに言った。

 どういうことか、と駆が話すよりも早く、老婆は丸い飴のようなものが入っている瓶を取り出した。

 老婆は、「この瓶に入っている薬を口に含めば、自分の望みがひとつだけ叶えられるよ。ただし、生き死にに関わることだけは叶えることが出来ないね。また、必ずしも今思っている望みが叶えられるとは限らない。心の奥底、あるいは無意識と言ってもいいけれど、とにかく最も深く心で願っている望みが叶うのさ」と説明した。



 老婆の話を一通り聞いた駆は胡散臭そうに老婆の持っている瓶を眺めた。

 老婆の言っていることは出鱈目に違いない。大体の話として、願いを叶えるという割に前提条件が多すぎる。それに生き死にに関わることが叶えられないのでは、今一番叶えたい願いが叶えられないではないか。駆はそんな風に考えた。

 駆は老婆を無視して立ち去ろうとしたが、ふっと頭の中にある考えがよぎった。

 一番に叶えたい願いが叶えられないとして、それではその次に心の奥底で願っている自分の望みとは、いったい何なのだろう、と。



 駆は立ち止まり老婆の方を向くと、それでも念のため「これでお金を取ろうとか言わないだろうね?」と確認した。

 老婆はおかしそうに笑いながら「年端もいかない子供から金を巻き上げようだなんて馬鹿な真似はしないさ。ただ……」と言った。

 駆はオウム返しに「ただ、何だい?」と老婆に問いかけた。

 すると、老婆は「ただひとつ、もし願いが叶ったことをお前さんが実感できたのならば、今日と同じような月が満ちている夜に、笑顔で「ありがとう」と月に向かって言っておくれ」と真剣な表情で言った。

 もっと難しい条件を出されるかと思っていた駆は拍子抜けして、「そんなことでいいのかい」と素になって尋ねた。

 「それでいいのさ。ありがとうという言葉は、お前さんが思っているよりずっと重い言葉だよ。いずれお前さんにも分かる日が来る」と老婆は答える。

 駆はもう一つ、「それはそれとして、どうして満月じゃないと駄目なんだい?」と気になったことを尋ねた。

 老婆はにっこり笑って「月が満ちている夜は、誰もが優しい気持ちになれるものだよ。少し恥ずかしい言葉だって伝えられるかも知れない。ちょっとしたおまじないさ」と語った。



 駆は老婆の話にうなずいて見せた。老婆の言っていることを頭から信じているわけではないが、とりあえず悪意を持って接触してきたわけではないらしいことだけは理解できる。

 駆が納得したらしいことを見て取った老婆は、そっと少年に自分の持っていた瓶を差し出す。

 駆は瓶を受け取るとふたを開けて中身をひとつだけ手のひらに乗せて、瓶を老婆に返却した。

 手のひらに乗せたそれは、思っていたよりもずっと柔らかい感触だった。飴のような硬いものだとばかり思っていた駆は意表を突かれた思いだった。

 駆はそれを口に含む前にもう一度老婆の顔を見つめた。老婆は静かな表情で駆を促している。

 それを見た駆はゆっくりとそれを口に含んだ。それは口の中であっという間に溶けてなくなっていく。

 あれっ、と思う間もなく駆の意識は遠くなっていった。

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