酔い、飛び交う。

文綴りのどぜう

酔い、飛び交う。

彼女の母は蝶だった。夜のネオンまたたく銀座の花の園。渦を巻く欲望に喘ぐ男とその欲を纏う女。あてなき彼らにアルコールという甘露をふりまく夜の蝶。性がいり混じり乱れる花園にあって、彼女の母は独りの「女」であった。


「それ、好きなの?いつも飲んでる」

ふと訊いてみた。

「うん。」

「体に毒だよ?あんま飲むと」

「我慢する方が毒だもん」

空けられた9%の缶チューハイが、からからと乱雑にまとめ捨てられていた。一体何本空けたのだろう。

やっぱ、やめさせた方がいいよな。

「なぁ、いつもそれなの?仕事で飲んでる

の」

「ん、へへ。毎日よ。これなしじゃもうやってけないわ。」

「…そっか。」

少しまぶたが重そうだった。視線の先の缶1つが、僕なんかよりよっぽど彼女と会話しているようにさえ見えた。ルビーの映える白い指に包まれた細身の缶に、少し妬けた。僕に言わない本音、いっぱいありそうだな。僕は言葉をもう紡げなかった。


2年も前に、彼女の母は死んでいる。36歳だった。花々に囲まれ横たわるその頬は色づいて見え、まるで眠っているようだった。隣で俯いて座る彼女の、歳に似合わないすらりとした鼻すじを、よく覚えている。

僕にとっても、彼女の母の死は最初受け止めがたいものがあった。たまに僕の家に来てた君を迎えに来るあの優しい笑みの女性。子にとってただひとりの母親という存在。か弱く儚い子を護る家族という存在。だけどそれでも、あの頃はまだ、君と僕は家族だった気がしている。あの優しげな君の母と君よりも。


僕の視線のはす向かいで手を少し震わせながら、また彼女の方から口を開いた。

「なんかごめんね、急に呼んじゃって。寂しくなっちゃったの、急に。」

「2年ぶりだもんね、」こっちも会いたかったよ、が喉でつかえた。酔いがまわっているのだろう、赤くて綺麗な耳だと思った。ピアス、また開けたのかな。髪のあいだから、鈍く妖しく、顔を覗かせていた。


「…ねぇ。」

「ん」

「私と寝てみる?」

「…今日はやめとく。」

「…そっか。」

揶揄ってるな、そう思って彼女の方を向いたが、潤んだ瞳を見て固まってしまった。見たことなかった。母親の命日が彼女を感傷的にさせたのだろうか。なんにしろ、君はこんな目をするやつじゃなかった。すこしはにかんでから、また彼女はストローを缶に挿し込んだ。どうやら流行りの飲み方らしかった。

僕の眼前に、ニコラシカが運ばれてきた。無意識のうちに、いつもより檸檬を強く噛んでいた。

視線を感じて、また彼女を目をやった。視線は自ずからぶつかった。

「ねぇ、あたし、お母さん似かな?」

「いや。」

ブランデーの熱を飲み下しながら、首をゆるりと振った。


君は君だよ。似てなんかない。


「…よかったぁ。」


安堵したようにストローを咥え直した彼女の横顔があの人に似ていた。これは言わないでおこう。


翅のかわいた蝶は、陽を目指し飛んでいってしまう。できればもう少し、まだ留まっていてほしい。壊れそうな蛹のままで、僕の手の中にいて欲しい。自分を糸で縛ったりしない、美しい翅を休ませる君を横目に見ながら、僕はまた檸檬を噛んだ。

軒先で、大きな穴の開いた巣を、小さな蜘蛛が繕っていた。

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酔い、飛び交う。 文綴りのどぜう @kakidojo

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