3話「卵焼きとお兄ちゃん」

 時計を見る。

 時刻はいつも通りの時間を指していた。

 流石に5年も社会人を続けていれば目覚ましがなくても、自然と起きられるようになる。

 これもまた、社会人になって得た数少ない特技の一つだ。

 ぼさぼさの頭をかきながら、とりあえず歯を磨こうとベッドから起きてーー


「…やっぱり夢じゃ、ねぇよな」

 

 鏡に映った若々しい自分の姿が目に入った。

 もしかしたらこれは全部夢で寝たら元通りの生活に戻っている、なんてことは全くなく、高校生を継続している自身の姿を二度見する。


「つーか、まだ7時前かよ」

 

 社会人としてはむしろ遅刻気味の時間も、帰宅部の高校生にとっては丁度良いくらいの時間だった。

 一旦顔でも洗おうと居間に降りると、味噌汁の良い香りが漂って来た。


「あら、薫くん。早いのね」

「明子さん…お、おはようございます」

「どうしたの改まっちゃって。ほら、ご飯にするから座って座って!」

 

 ピンクのエプロンがよく似合う義母は、テンション高めに食卓の準備をする。

 促されたままに座ると机の上には、焼鮭とネギの味噌汁、ふっくらとした卵焼きに胡瓜の漬物、そして炊きたての白いご飯と、まさに日本の朝食そのもののメニューが並んでいた。

 美味しそうな匂いに思わず唾を飲み込む。

 誰かが作ってくれた料理なんて、何年ぶりだろうか。

 社会人になって最初のうちは自炊もしていたが、仕事の忙しさにかまけて、気が付けばコンビニやファーストフード、外食三昧の日々を過ごしていた。

 実家に帰れば明子さんは、今みたいに愛情たっぷりの手料理を作ってくれるのだろうが、春菜のことがあり何年も帰っていないため、本当に久しぶりだ。


「薫くん、納豆は平気だっけ?」

「あ、はい。大丈夫です」

「はい、どうぞ。あー、春菜そっちお願いね!」

「…うん、分かってる」

 

 台所から出てきた彼女は制服の上に、母親とお揃いのエプロンをしていて、そんな彼女に俺は何だかどぎまぎしてしまう。

 昨日は眼鏡だったが、出掛けるときはコンタクトにしているのだろうか。

 前髪に隠れている大きめの目がこちらを見ていた。


「あ、っと…お、おはよう」

「…おはよう。早く食べたら?まだ着替えてないんでしょ」

「お、おう…」

 

 ぷいっと背を向けて台所に戻る春菜。

 やっぱり昨日のこと、まだ怒っているのだろうか。

 しっかりと謝ったはずだが、そもそも義理の妹なんてどうやってコミニュケーションを取ればいいのか、オッサンの俺には分かるはずもない。

 これ以上怒らせるわけにもいかず、とりあえず目の前の朝食を頂くことにした。


「いただきます……うまっ」

「口合うみたいで良かったー。家庭の味って結構違うから心配だったの」

 

 味噌汁は丁度良い塩加減で、焼鮭も焼き加減が絶妙だ。

 卵焼きはふっくらとしており少し甘めの味付けが俺好みだし、胡瓜の漬物も手作りとは思えないほどの逸品だった。

 箸が止まらず黙々と食べ続ける俺を見て、ほっとした様子で明子さんと春菜も食卓につく。


「そんなに急いで食べなくても大丈夫よー」

「いやいや、箸が止まらないんです!特にこの玉子焼きなんて俺の好みドンピシャで!」

「あらそうなの?良かったわね、春菜―」

「へっ?…この卵焼き、春菜が作ったのか…」

「そ、そうだけど……べ、別に普通だし」

「お兄ちゃんに喜んでもらって嬉しいくせにー」

「そ、そんなんじゃないから!やめてよねマ…お母さん!」

 

 顔を若干赤らめて必死に否定する春菜は、どこかまだ幼くて等身大の高校2年生という感じだ。

 普段は大人しいからか、大人びている彼女もやはり中身は普通の高校生なわけで。

 俺が彼女に抱いていた印象はあくまでもぱっと見な印象だ。

 いかに自分が彼女のことに興味がなかったのか、知ろうしなかったのかを痛感した。


「だ、大体“お兄ちゃん”って言うけど、どっちが上かはまだ聞いてないし!」

「上って…ああ、年齢のことね。俺はにじゅう、じゃなくて……えっと」

 

 あれ、今いくつだ。高校2年生だから…やばいな。

 テーブル越しに春菜がじっとこちらを睨んでいる。早く答えないと怪しまれるぞ。


「同学年なんだから歳はいい。誕生日は?」

「あ、あーっと…12月14日だけど」

「ぐっ…」

「じゃあ春菜はやっぱり妹ね!薫くんのこと、ちゃんとお兄ちゃんって呼びなさいよ」

「わ、分かったわよ…でもお兄ちゃんは恥ずかし過ぎるから!」

 

 頬を膨らませて拗ねる春菜と、微笑ましく俺たちを見守る明子さん。

 本来ならこうやって家族として絆を深めていくはずだったんだ。

 …当時の俺は何事も斜に構えるのが格好良いと思っていて、新しい家族ともまともに会話しようともしなかった。

 勿論反抗期みたいなものもあったと思うが、それにしても酷い態度だったに違いない。


「ぼーっとしてないで早く食べなさいよ、に、に、に」

「…に?」

「に、に……が、学校まで案内してもらうんだから早くしてよね!」

「分かった分かった」

 

 これ以上春菜の機嫌を損ねても仕方がない。

 目の前の朝食をかき込み、洗面所に行ってから、急いで慣れない制服に着替える。

 ブレザーって何だか恥ずかしいな。

 30も目前のオッサンが着るもんじゃないよなと思って鏡を見ると、なんと中々似合っていた。

 まあ高校生なんだから当たり前だよな。

 教科書なんかを適当に詰め込んで玄関に行くと待ちくたびれた顔をした春菜がいた。


「遅い…」

「悪い悪い!じゃあ、明子さん、いってきまーす!」

「二人とも気を付けてねー。春菜、今度はしっかりやんなさいよー!」

「…分かってるから。いってきます」


 ‘分かってる’と返事をする春菜の顔が、一瞬曇っていたことに俺は気が付かなかった。

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