四時四十四分四十四秒のユーコさん

鉈手璃彩子

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 四時四十四分四十四秒に、校門前の横断歩道を、ひとりで渡ろうとすると、後ろから「ねぇ」と女の子に声をかけられる。でも振り返っても誰もいない。


 僕の通っている中学では、いつの頃からかそんな七不思議めいた噂が、まことしやかに囁かれていた。といっても、ほかに七つも不思議はないので、正確には『一不思議』なのだけれど。


 女の子の怪異は、生徒の間ではユーコさんと呼ばれ親しまれていた。

 一年生の頃はうちのクラスでも、四時四十四分四十四秒を見計らって横断歩道を渡り、ユーコさんを呼び出そう、というアホな遊びが流行ったものだ。だけどみんな失敗に終わった。そりゃそうだ。二人以上で試すんだもんな。一人ではバカバカしくて誰もやらない。だから実際にユーコさんの声を聞いた人はいなかった。





 僕は今、美術室にいる。欠席したときに提出できなかった美術の課題を終わらせにきているのだ。本当は未完成でもよかったのだけれど、若くて美人な美術の西谷にしたに先生がこれをちゃんと出したら成績上げてくれるっていうから、内申点を稼ぐために、しかたなく放課後の貴重なお時間をさいているのだ。

 適当に、これで完成ということにして立ち上がる。教室の時計を見遣ると、針はちょうど四時半をさしていた。


 隣の美術準備室に、絵を乾かすための棚がある。自分の出席番号の棚に画用紙を差し込んで、ミッションコンプリート。

 あまり立ち入ることのない教室なので、気まぐれに視線を巡らせる。ふと、夕陽の差し込んで明るく照らされた壁際のロッカー、ミニチュアの船が置いてあるのが目に付いた。

 生徒の作品だろうか。だとしたらかなり上手だ。細部まで精巧に作られた模型。金持ちの家にたまにあるボトルシップ的なものをイメージしているのだろうか。帆にドクロの絵が描いてあるから、海賊船らしい。

 しかし残念なことに、マストの先っちょの部分が折れていた。

 なんだかそれが妙に哀れに思えた僕は、ほんの出来心で、その部品をその辺にあったボンドでくっつけた。勝手に修理するのが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかはわからないけれど、どのみち僕がやったってバレることはないだろうし、素知らぬ顔をしてそのまま校門を出た。

 だけど、横断歩道を待っていたときのことだ。

 僕はその場で凍りつくことになる。


「ねぇ」


 と、背後で女子の声がしたからだ。


 僕の脳裏に四時四十四分四十四秒の数字がばばばばばと並ぶ。ユーコさん、という名前が浮かび、思考が停止する。

 時間が止まったかのような一瞬の、身も凍るような静寂――。


「ねぇ、これ落としましたよー」

「は?」

 思わず振り返るとそこには女子中学生がいた。

 色白で黒髪ロング、目は細めで、顔立ちは特別華やかなわけではないけれど整っていて、『清楚系』と言われて思い浮かべるならまずはというぐらいには、可愛い人だった。でもコミュ障ぼっちの僕がまず考えたことは、とにかく最小限の会話でボロを出さずにこの場を乗り切りたい、というネガティブなものだった。

 まっすぐに差し出されたその手に握られていたのは、僕が通学鞄につけていたホタルイカのキーチェーンだった。

 チェーンが切れて、落ちたらしい。

 なんだよ、びっくりして損したわ。

「あ、すいません」

 富山に旅行したお土産で、そこまで思い入れのないキーホルダーだけど、せっかく拾ってもらったのだし、と僕はお礼を言って、受け取ろうとした。しかし女子中学生は差し出した手をひゅっと引っ込めた。それからリアル寄りのホタルイカを眺めて、

「すっごくかわいいねぇ、これ!」

切実そうな声で言うのだった。

「そうすか」

「あ、青だよ、信号」

「……はぁ」

 早くこの場を逃れたい思いで、僕は急ぎ足で横断歩道を渡り始めた。しかし

「キミ、何年何組?」

 と女子は後ろからとことこついてくる。馴れ馴れしい人は苦手なのだけれど。

「三年四組」

 僕は前だけを見て答えた。

「隣かぁ。名前は?」

 隣のクラスにこんな人いたっけか。少し怪訝に思いながら僕は「フジサキ」と答える。

「フジサキ何部?」

 いきなり呼び捨てかよ。これが今どき陽キャの距離の詰め方なのか。

「帰宅部」

「うそっ、退屈」

 なんだその全国の帰宅部員を敵に回す発言は。僕は少しむっとして、

「そういうあんたは」

 とつっけんどんに聞いた。すると女子は、

「ものづくりクラブ」

 よくぞ聞いてくれましたとばかりに、得意げに胸を張った。

「そんな部あったか?」

 聞いたことがない。

 どーせ部員は自分ひとり、とか言うんだろ。おまえも実質帰宅部じゃねーか。

 そう反論したかったけれど、それより先に、通学路に違和感を覚えて意識が向く。

「あれここ、自販機なかったっけ」

 この駐車場の前。中途半端な場所だが、赤いボディの自販機があったはずだ。ラインナップはそんなに魅力的なものではなかったけど、緊急時の水分補給には便利だよな、と思いながら通り過ぎていた。利用したことはないし、利用している人を見たことがなかったから、必要ないと見なされて、撤去されたのだろうか。

 さらにつぎの曲がり角でも。

「あれ、ここの接骨院、閉まったんだ……新しかったのに……」

「ふーん、あんま病院行かないから、知らないや」

 と女子は口を挟むも、あまり興味は無さそうだった。観察眼も鋭くないらしい。

 直後、

「私こっちだから」

 と僕の家と反対方向の道を指さされたとき、僕は内心ほっとしていた。知らない女子といっしょに下校するなんて、帰宅部系コミュ障ぼっち男子には難易度が高すぎて、この短時間でHPをゴリゴリ削られていたのだ。

「はいこれ」

 と女子はホタルイカのキーホルダーを僕の手に押し付ける。そういえばまだ返してもらっていなかった。手の中のホタルイカをぼーっと見つめるの僕に向かって、

「じゃ、ばいばーい」

 と、やけにあっさりと手を振った。そんな彼女のことについて、ふとひとつだけ、どうしても気になって、恐る恐る尋ねる。

「あんた名前は?」

「名前?」小首をかしげ、長い髪がふわりと揺れる。彼女はあっさりと答えた。

「ミキ」

 なんだ、ユーコさんじゃないじゃないか。

 ああバカバカしい。でも内心これでほんとうに、心の底から安堵できる。そう考えている自分がいた。

「これ、やるよ」

 ほっとしたついでに僕は、返されたホタルイカを、ミキさんの眼前に再び差し出した。

「えっうそ。いいの?」

 ミキさんはぱっと顔を輝かせ、素直にホタルイカを受け取ると、

「ありがとう!」

 とぎゅっと胸に握りしめた。

 僕は初めてミキさんの顔をちゃんと見た。

 性格は……ちょっとアレだけど、笑った顔は可愛いと、素直に思えた。

 女子と話すのに免疫のない僕にしては、まずまずのラッキーイベだったんじゃないか。

 恥ずかしながら、ちょっとだけ高揚した気分で残りの帰り道を急いだ。


「ああよかった、帰ってきた……!」

 家の前で、母さんの声がして、僕ははっと顔を上げた。

「な、なに、そんな俺が黄泉から帰還したみたいな顔して」

 すると、母さんは呆れたような声を出した。

「あんた、なんも知らないの?」

 聞けば、学校の校門前で事故があったんだとか。

 トラックが交差点で暴走して、歩道に突っ込んだらしく、怪我人の状況は、現在確認中。

 事故が起こったのはちょうど僕が学校を出たぐらいの時間帯だ。

 僕の帰りが遅いから、心配して表に出てきたところだった、と母さんは安堵のため息をつく。

「遅いって……今日五時ぐらいになるって昨日から言っといただろ」

「五時って……もう六時前なんですけど」

 は?

 母さんの不可解な答えに、僕は顔を歪めた。

 でも言われて見れば、いつのまにか随分暗くなっている。

 さっきまでたしかに……少なくともミキさんといたときは、夕陽が沈む前だったはずだ。

「時間にアバウトなのは、誰に似たのかしら」

 心配し過ぎた反動で、母さんはややご機嫌斜めなようだ。ぷりぷりしながら家に入っていった。僕も慌てて後を追う。

 それにしても、トラック暴走は一瞬のことだったんだろう。全然気づかなかった。タイミングが悪ければ、僕もミキさんも巻き込まれていた可能性がある。そう思うと、無事に帰宅できたことへの、感謝の念が湧いてきた。

 何かとおかしなことが、いろいろ続く日だ。

 ただ、モヤモヤとしたものが少し胸に残りつつも、明日学校でミキさんと再会できるかもしれないと思うと、ほんの少しだけそれが楽しみでもあった。


 だけど、本当におかしなことがわかったのはこのあと。翌日のことだった。

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