第8話 福寿草の栞を貰う
時間が経つのが早いと感じる。
特に1月から3月にかけては、いつにもまして早く感じる。
少年は、過ぎていく1日1日を惜しむようにため息を吐いた。
今、この時、時間が止まってくれれば――と、思ってしまう。
少年は、思う。何故試験などというものがあるのかと。時間が止まって、永遠に試験日にならなければ良いと。
「休んじゃダメじゃない後輩くん。特進クラスに入るんでしょ?」
「もう、特進じゃなくて良いです……」
試験前の課題と、試験対策用に先輩から手渡された問題に頭を抱えながら少年は言った。
少年の通う高校は、2年生から、文理、成績ごとにクラスが分けられる。特進クラスは主に国公立大学や有名私立大学を目指し、かつ成績が良い生徒のみが入れるクラスだ。
少年が目指す、理系の特進クラスに入るには1年の成績、特にこの学年末試験がものをいう。今後の進路においてとても重要な存在だ。ここで失敗すれば、出来ないこともないが這い上がるのは難しい。それほどまでに教師からのサポートの手厚さが変わる。それはもう本当に、露骨すぎるくらいに。
そのため、文系だろうが理系だろうが、特進クラスを目指すものは多い。少年と同じように学年末試験に賭けている生徒も少なくなく、1月から授業以外は学校の図書室に籠りきりという生徒も出るくらいだ。
そんな状態もあって、少年は焦っていた。普段通りコツコツやっていればそれなりの成績になるが、それだけでは足りない。良くて特進の次に成績の良い生徒が集まるクラスになることができる……と、言った具合だ。
これはもう、何が何でも必死に勉強し、良い成績を残すしかない。そう思った少年は先輩と、友人に泣きついた。
友人には誘いを断られた。
曰く、「先約がある」と。
幼馴染の後輩がここの高校を受験するらしいが、成績が不安なのでそちらをどうにかする方が先だと言われた。
その後輩が受ける高校入試こと、選抜Ⅱは、自分たちの学年末試験より後の事ではないか。先に自分たちの進路に関わる学年末試験に力を入れるべきではと強く思ったが、彼はそもそも自分より上の成績。今のままでも余裕で希望進路である文系の特進クラスに入れると先生から言われているほどだ。ただ、後輩と少年の両方に教えるだけの余力はないので、少年のことは先輩に任せると言われてしまった。
同じ人間なのに、こうも能力の違いを見せつけられた気がした少年は、悔しさに泣きそうになる。何故こんなにも不公平なのか。自分も「普通に勉強していればこのくらいの点数取れる」と言ってみたい。友人はそんなこと言ったことは一度もないが、自分は言ってみたい。言ったら絶対嫌な奴だが。
結果として、こうして先輩に勉強を教えてもらっていた。そもそも文系の特進クラスを目指す友人より、既に理系の特進クラスにいる先輩に教えてもらった方が良いのは確かだ。テストを作る教師の癖も理解しているのか、問題の傾向も教えてくれる。なんて手厚いサポートなのだろう。少年の頭では理解できない難問が多いのだが。
「数学の先生は、2,3問、難しい発展問題を出してくるのよね。そこが一番点数多く振り分けられているから、基礎を零さず正解して、1問でも多く発展問題を正解すれば、特進クラスへの道はぐっと上がるわ」
「その発展問題が訳わからないんですが……」
「基礎の応用だから、まずは基礎で分からないところを潰していきましょう。大丈夫よ後輩くん。私がちゃんと教えてあげる」
ありがたい話だが、先輩の成績は大丈夫だろうか。1年である自分より、2年である彼女の方が進路に響く。問題の難易度も段違いで高いという噂だ。本当のところ、自分にかまけているより、自身の勉強をした方が…と、考えてしまう。
「気にしなくて良いのよ、後輩くん。私がやりたいと思って、こうしているだけなんだから」
「――心の中を読まないでください」
だって、顔に出ているもの。と、先輩に笑われて、少年は悔しそうに視線を伏せた。目の前には解き切れていない問題があり、少年の顔はさらに苦々しいものになる。
もっと、努力をするべきだった。後悔したところで時間が返ってくるわけではないが、そう思わずにはいられなかった。少なくとも、こうして先輩に迷惑を掛ける必要ないくらいの学力を持てばよかったと思っている。
それでも、今ここにいるのは、この問題をどう解けば良いのか分からない自分がいるだけだ。諦めて参考書を手に取る。
先ほど先輩が言ったように、基礎の応用なのだ。特に数学は、どの公式に当てはめるかさえ分かれば後はなんとかなると、少年は思っている。
今まで習った部分と照らし合わせて、文章題を解いていく。それでも分からなくて筆が止まれば、先輩がどの公式を使えばいいか教えてくれた。
集中して問題を解いていくうちに、少年にあった時間の概念が奪われていく。問題を解いて、ミスがあればもう一度。出来たら次の問題を。ひたすらに繰り返す。
先輩の「今日はここまでにしましょう」と言う言葉で、我に返った。気が付けばもう外は暗い。
「もうそんな時間なんですね…」
ずっと同じ体勢でいたせいか、伸びをすると、体のあちこちから悲鳴が上がった。どれだけ集中していたのだろうと、少年自身が驚いていた。
「大分解けるようになってきたじゃない」
「それでも、まだまだですけど…」
「なら、頑張っている後輩くんに、良いものをあげる」
そう言って、先輩は押し花の栞を渡してきた。黒地にぽつんと黄色い花が一つだけ咲いており、少しだけ物悲しく感じる。
「福寿草ですか?」
「あら、良く知っているわね」
先輩の手伝いをしていくうちに、少年は植物の名前を覚えるようになった。もっと先輩の役に立てればと思い、わざわざ植物図鑑を買って覚えていったのだ。
その時に福寿草の名前を知った。割とよく見かける花だというのに、今まで気にも留めていなかった。
「勉強している時や試験を受ける時、これをポケットに入れておいてね。気休めだけど、良い成績になりますようにって、おまじないをかけてあるの」
「ありがとうございます」
先輩がかけたおまじないなのだから、きっと効きすぎるというくらい効くのだろう。植物に関したものであればなおさら――。少年は苦笑しながらも先輩から栞を受け取った。
*****
学年末試験最終日。とうとう次の教科で最後になる。
先輩から栞を貰ってから、少年は必死に勉強した。
いつもより集中して勉強に励めたように思う。これもこの栞のおかげだろうかと、少年は考えた。
勉強したかいあってか、今のところ、よほどのことがない限り酷い結果にはならないだろうという確信があった。
とはいえ、それで特進クラスに入れるかは、分からないところだが。
何はともあれ、次の数学で最後。少年は少しだけ緊張した面持ちで机に座っていた。
教師が試験用紙を伏せた状態にして、生徒たちの机に置いていく。その後、簡単に注意事項を説明して、開始の時間を待つ。あと数分、あと数秒と、徐々に試験の時間が迫ってくる。
「それでは、開始してください」
チャイムの音と共に、教師の無機質な声が響いた。少年は机に置いていたシャープペンシルを持って、回答を解いてく。
最初はそこそこ簡単な復習問題だ。1つ1つ問題を解いていくうちに、少しずつ問題の難易度が上がっていく。それなりの問題数のため、簡単な問題はさっさと解かなければ最後の発展問題までにたどり着かないだろう。
少年はただひたすらに問題を解いていく。計算ミスがないよう気を付けながら、少しでも早く、発展問題を考える時間を得るために。
そして、残りの3問がやって来た。3つの発展問題は、後に教師たちから総復習に相応しい内容と言ってもいいくらいの出来だったと聞かされるくらいには、しっかりとした問題だった。
2問は解けた。あと、もう1問が解けない。
少年は図形の問題が苦手だった。確立や数の計算、文章題はどうにかできるのだが、図形だけはいまいち理解に及ばないところがあった。
しかもこの図形問題、実際は1問ではなくて2問というところがいやらしい。長さを求める問題と、証明を求める問題が、まとめて1問として掲載されているのである。
少年はどうにか解こうと考えるが、どの公式を当てはめて問題を解けば良いか、悩み、行き詰った。時間は1分1分と消えていく中、どうにか考えた跡だけでも残したくて解いていくが、これが正解だという気持ちがどうにも湧かなかった。泥沼に進んでいくような気さえした。
時計を見ると、後5分を切っていた。このまま諦めてとりあえず解いたことにするか?いや、それだと自分のために時間を削って教えてくれた先輩に申し訳ない。最後まで諦めず考えるべきだと少年はもう一度問題文をよく読もうとした。
すると、不意に解答欄に何か文字が浮かんでいることに気が付いた。自分が書いた文字よりも薄く、ぼんやりとした文字だ。
それは、まるでこの問題の答案だとでもいうように、そこに描かれた。
これは、もしかして、あの栞のおまじないの効果なのか?もしそうならいささかズルをしているようにも見えるのだが……。少年は思う。
しかし、少年にはこの薄く主張する解答がありがたく見えた。先ほど書きかけた答えの解き方はそれほど間違いではない。だが、取り上げる数字が少し違っていた。確かにそちらの数字を取り上げて答えを書いた方が、順を追った答えになっている、気がする。
修正する箇所はさっさと修正して、少年は問題を解き上げた。
全ての解答を書き終えた瞬間、けたたましい終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
あとはもう、なるようになれ。やっと終わった試験との戦いに、少年は晴れやかな気分で軽く伸びをした。
*****
「正直、あれはカンニングと何が違うのかと言われると否定できないんですが…」
放課後。少年は先輩にお礼を述べた後、今日あった出来事を述べ、そう感想を漏らした。
「あら、カンニングではないわ、後輩くん。あの栞にはね、今まで努力してきたことを100%発揮できるというおまじないをかけていたの。貴方は目が良いから視覚情報として答えが浮かんだだけであの答えを解いたのは貴方自身。貴方の頭の中で確かにあった答えよ。」
それだけ、きちんと努力したということ。と、付け加えられた後、褒めるように頭を撫でられた。気恥ずかしさから軽く手を払いのけるような仕草をするが、先輩は意にも介してないらしい。
少し乱れた髪を直すように手で頭を軽く押さえつけた後、少年は気分を切り替えようと息を吐いた。栞のおまじないがズルではないと言われた以上、これ以上の問答は不要だろう。
「――特進クラス、入れると良いわね」
「そうですね」
それだけ答えて、少年と先輩は帰路につく。
ふと、どこから香る花の香りに、少年は辺りを見渡した。近くの民家にある梅の花が、2つ、3つと、花を咲かせている。
そして、梅の枝の間に、黄色を見つけた。誰かが置いたのだろうか、福寿草の花が1つ、ひっそりと、花だけを咲かせていた。少年はその花に軽く手を振って、先輩の後を追う。
風は寒いが、1月の時ほどではない。積もっていた雪も、以前より高さがなくなって、ところどころ地面が顔を出している。
もうすぐ、春がやって来る――。
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