第3話 彼岸花の灯りをともす
赤い花が、一つ、二つ、三つ――。田んぼの畔で並んで咲いている。
金木犀の花を瓶に詰める作業をしてから数日のことだった。
今日も特にやることのなかった二人は、こうして帰路についていた。
「彼岸花、かなり咲いてますね」
「そうね」
田んぼの縁に赤い帯が広がっている。
なんでもない田舎の田園風景。彼らにとっては毎年見る風景だった。
「前こんなに生えてましたっけ?」
「ここの田んぼの持ち主が、今年いくつか植えたらしいわ」
「もぐら対策?」
「そう、もぐら対策」
そういえば去年ここの田んぼの持ち主らしき人が、もぐらにあぜを掘り起こされまくって恨み節のこもった絶叫をしているのを思い出した。
どうやら掘った穴にことごとく足をとられ、こけまくったらしい。
「二度とうちの田んぼに近づかせないようにするかなら!」
という声を中学からの帰りに聞いた。
彼岸花の根に毒があるからって言うのは分かるが、植えすぎでは?と思わなくもない。額縁のようにきれいに縁取られたあぜ道を見て、植えた者の執念を感じた。
「知らない人間が見たら怖がりそうな風景ですね」
「そうね。彼岸花はもぐらやねずみ対策としてお墓の回りにも植えることが多いし、仏教では天上の花のひとつとして曼珠沙華が取り上げられているから、死人の花として定着していくのもある意味仕方ないわ」
「なるほど……」
だからだろうか。時折、天上を求めて立つ人間がいるのは。
今でもそうだ。
そこに仏はいないにも関わらず、救いを求めて田んぼのあぜに誰かがたたずんでいる。
一見、普通の生きている人間と変わらない。お話のように足がないわけでも透けているわけでもない。本当にそこに実在しているように立っている。だが、ふと目を閉じれば、暗闇の中にその人間は立っている。そこにいると脳が認識している。
ずっと目を閉じているわけにもいかないので、少年は右目のみを開けた。
「何かいるのかしら?」
「先輩は視えない人でしたっけ?」
「うん。だからちょっと待ってねー」
そう言って先輩は手を前に出して指を組み始める。両手を狐の形にして、耳である人差し指と小指をクロスさせて合わせ、その後すべての指を開く。真ん中にできた隙間で覗くように先輩は手を顔に近づけた。
「あー、確かに。何かいるみたいね」
「狐の窓じゃはっきり見えないんですね?」
「そうね。でも、何かがいることが分かれば十分だわ」
確認さえしてしまえばこちらのもんだと言うように、先輩は人影の方に向かう。少年はその後を追いかけた。
「たぶん、あそこにいる人は彼岸花に惑わされてここにいるのよね?なら、あるべき場所に帰してあげなくちゃ」
彼岸花の花を一つ手折って、何か囁きかける。
すると彼岸花はぼうっ、と、淡く赤い光を放って辺りを少しだけ明るくする。
「後輩くん。君は良く見えるのよね?」
「時々生きている人か分からないくらいには」
「十分すぎるほどね。ごめんけど、呼び掛けとついてきてくれるか確認してくれないかしら?」
「分かりました」
先輩の言われた通りに少年は人影の方へ躍り出た。自分たちとあまり歳が変わらないであろう男性が立っている。よくよく見れば隣町にある高校の制服だった。
男は先輩が持つ彼岸花の光に気付いたのか、ゆっくりとこちらに振り返り、やってくる。このまま何も言わなくてもついてきてくれるだろう。
「この様子なら大丈夫みたいですよ」
「そう。なら、行きましょうか」
先輩を先頭に、暗くなっていく世界を歩き出した。
*****
彼岸花の花が揺れる。
先輩の歩きに合わせて、ゆらゆら、ゆらゆらと。
少年は時折振り返って、男性がついてきていることを確認した。特に迷うような足取りなく、男はこちらについてくる。
「お彼岸って、いつだったかしら?」
「つい二日前のことですよ。先輩」
「そう。二日も路頭に迷っていたなんて、かわいそうな話ね」
本来なら、秋分の日に帰ってしまうはずだった魂は、あの赤い無限の道に迷い込んでしまった。
田の形に合わせて切り取られた額縁は、終点など用意していない。ただひたすら、田んぼの周辺をぐるぐると回るだけで終わってしまう。
それを気付くことができないほどに、この魂は惑わされていた。
理由は分からない。彼と自分達とでは見える世界が違いすぎているから。もしかすると彼にとってこの世界は、真っ暗闇の中なのかもしれない。彼岸花は灯台のように見えていたのかもしれない。
考えたところで、意味のないことだった。どうせ今の自分には分からないことだ。そして、いつかは理解することなのだ。別に今、急いで彼に合わせる必要もない。
既に太陽は西を傾いて、顔を山で隠してしまっている。街灯の明かりと、彼岸花の光だけが、彼らの行く道を知らせてくれた。
自分達も、彼のように迷うのではないかと、不安が鎌首をもたげたところで、少年は違和感に気づいて顔を上げた。
前の方を見ると、いくつもの光があった。赤い、弱い光がゆらゆらと風を受けて揺れている。
それは、彼岸花だった。
地を覆うように彼岸花が咲き、辺り一面を照らしている。
遠くを見れば、まだ隠れきれていなかったのか、強い太陽の光が彼方から見えた。
しかし、これは本当に太陽の光なのだろうか。そう疑問に思ったところで、あちらから何かがこちらに向かってくるのが見えた。強い光を背に、人型の何かがこちらに近づいてくる。
得体の知れない光景に少年は息を飲んで先輩のところへ歩いた。先輩は驚くこともなく彼方からやってくるものに指を指す。
「あちらに行きなさい。大丈夫。悪いようにはならないわ」
それはついてきた男へ対しての言葉だった。
男は導かれるままに少年たちを通り過ぎ、光の方へと目指す。
柔らかくも強い、光の方へ。歩み寄ってくる人型の方へ――。
男が人型のもとへ着いたとき、突然、強い風が吹いた。
少年は思わず目を瞑る。
そこまで強い風ではなかったが、飛ばされるのではないかと想像してしまい、足に力を込めた。
しばらくして風が止み、恐る恐る顔をあげたところ、目の前には何もなかった。
あの赤く光る毒々しい花も、彼方から此方を照らす強い光も、人影も、男の姿も、そこにはなかった。
帰っていったのだ。全て。在るべきところへ――。
「一件落着、ですかね?」
「ええ、私たちも帰りましょうか」
先輩が持っていた彼岸花を地面に置いてそう言った。
置かれた彼岸花は役目を終えたように干からび、枯れ果てていた。そのままさらさらと砂になって消えていく。
「――先輩」
「なあに、後輩くん?」
「もし、俺が死んだら、先輩はこうやって俺を導いてくれますか?」
少年は聞いた。ひどく淡々とした声で。
だがその声には、祈るような、乞うような、様々な感情を押し殺した色があった。
「俺には、先輩を導くだけの灯りは持ってません。居場所を知らせるための鈴も持ってません。でも、どんなに小さな明かりでも見逃さない目は持っています。見失っても先輩が灯りをともしてくれるなら、見つけることができます。いつか俺が死んでも、先輩が知らせてくれるのなら、俺は――絶対に、あなたのところに行きます」
だから、灯りをともして知らせて欲しい。導いて欲しいと、彼は言う。
暗くなった世界で見る先輩の姿は影のようにおぼろげだ。それでも、彼は絶対に目をそらすことなく、じっと、先輩の目を見つめている。
「――もし死んだら、なんて、悲しいこと言わないで」
先輩は困ったような笑い方をしてそう言った。
心外だとでも言うように先輩は少年の目を見つめ返す。
「後輩くん。君はこれまでも、これからも、ずっと私のとなりにいるの。私があなたを導くことも、あなたが私に導かれることも、決して無いわ。あなたはずっと、私からは逃げることは出来ないもの」
先輩は、笑って言う。
それはある種の宣誓だった。
先輩は少年と離れる可能性を一つも感じていないのだ。それどころか最初から、逃がすつもりはなかったらしい。
「――それなら、良いです」
少年はふっと表情を和らげて笑った。
先輩の言葉に満足したのか「もう暗いですし帰りましょう」と言って、もと来た道を指差した。
暗い暗い世界の中、街灯の明かりをたよりに二人は並んで道を歩く。
道中にあった彼岸花に目を配ることなく、彼らは通りすぎていく。
彼岸花は風もないのに、手を振るように、そより、と揺れた。
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