QUEEN EDGE

天地

第1話

 結晶に封じられて、瞬きもできない。体も動かない。感覚さえない。それは生きているといえるのか、それとも死んでいるといえるのか。どちらかはわからない。そもそも時間の感覚すら、その中では失われていた。

 彼女にあるのは、ただただ後悔と、自分のために死にゆく人の無残な骸。それだけ。

 眼前のそれを瞬きもできず、ただじっと見せつけられていた。何もかもが失われる。失われて、消えていく……


(やめて……)


 そこは地底奥深くなのか、それとも山中切り崩した中なのか。どちらかはわからない。ただそこが、人工的に作られた場所だということだけはわかっていた。床も壁も天井も、すべて白い一枚岩をくりぬいたように作られている。たまに白壁は途切れ、そこから洞窟じみた岩肌が覗いていた。

 そう、いた、だ。

 今では静謐に作られた神殿など、見る影もない。あちこち砕き、割られ、寸断されている。

 時の流れは曖昧だ。今が過去なのか、それとも未来なのかも分からぬほどに。狂った感覚の中で、しかし彼女は確りと分かることがあった。戦っている。


(お願い、逃げて……)


 念じる。絶対に届かないと知りつつも。ただそれだけが、少女に許される唯一の抵抗だった。

 どうしてこうなったのか。それすら彼女にはもう、分からなかった。思考は鈍くなり、過去すら思い起こせない。自分を保てていることすら奇跡だ、とすら思えた。

 すべてが懐かしい。しかし、思い出せない。何も分からない。何もかもが明瞭で曖昧だ。私は……私は、誰――?

 涙も出ぬ体で泣いた。弱い自分。何もできない自分。ただ待っているしかできない自分。自分……自分……?


(もうやめて!)


 その絶叫は、もはや誰に対して言っているのかも分からなかった。

 砕ける部屋。壊れる世界。とんでもなく明晰で朧気な世界。

 そして。

 彼女のことなど無視して、世界そのものを破壊せんばかりに暴れる獣が二匹。およそ人の型をしていない巨獣に、剣を振りかぶる長身の影。

 彼らに少女の意思など届かない。誰も聞き届けなどしない。それが、檻にとらわれるという事だ。


(もう――終わりにして!)


 微動だにせぬ喉から、絶叫を迸らせる。何をどう終わりにするのか、それは彼女自身にも分からなかった。ただ逃げたかっただけかもしれない。それでもいい、とも思う。逃げて、逃げて、それですべてが終わるのならば、それでも。

 代わりとでも言うように、二匹の獣が命を消費しながら互いに食らいつき合う。どちらの獣も、終わりが近かった。積み上げられた命の対価は、すでに引き返せないところまで支払いを済ませていた。

 今まで奇跡的なバランスで保っていた壁や天井が、崩れ始める。冗談のようにひび割れ、砕け、崩落を始めた。

 少女を纏う巨大な水晶に、初めてひびが入った。

 その時、少女はやっと涙を流すことができた。




   ▲▽▲▽▲▽




 死の香りがする。

 死を想ったことがないとは言わない。むしろ、幾度となくそれに晒され、そのたびに無理矢理詰め込まれるように味わってきた。幾度となく味わい、そして幾度となく退けてきた。その数だけ、体に直りきらぬ傷が刻まれている。

 だが、それも今回限りだ。両足と左腕を失った体で、そうインヘルト・グノーツは考える。

 息を吸う。深く呼吸したつもりではあったが、実態は定かではない。胸部にダメージを負っていない訳がないし、そもそもすでに感覚もない。

 体に、わずかにだけ残った力を総動員して、感覚を確かめる。触覚、これは完全に死んでいる。嗅覚、カビの据えた匂いを嗅いだ気がするが、これだけのダメージで血の臭いを感じない訳がない。これも機能してはないだろう。聴覚、遙か遠くに崩落の足音が聞こえる。ここが崩れ落ちるのも遠くな訳がなく、これも曖昧だ。視覚、ぼやけて視界に何が映っているかも分からない。

 結局、体のすべての機能が不全を起こしている事しか分からなかった。

 それでいいのか。まあいいのだろう、そう彼は考えた。

 満足に浸る。

 逃れられぬ死を感じる。しかし、恐ろしくはなかった。人生の最後に、満足いく戦いができた。

 悔いがないわけではない。できることならば、もっと戦い続けたかった。だが、最後に、人生最大の戦いを終えてまで求めるのは、強欲というものだろう。

 ゆっくりと体から全てが抜ける感覚に身を任せながら、彼は考えた。死に際というのは、案外安らかなものなのだな、と。自分は、もう少し物わかりが悪いと思っていた。死を前にすれば、かつて山のように見た死と同じく、惨めで無様に泣き叫ぶだろうと。そうでなかったのは、いいことなのかそうでないのか。

 まあ、いいか。インヘルトは考えて、息を吐いた。気がした。もはや呼吸による体の動きすら感じられない。

 仲間には迷惑をかけるだろう。

 人生の大半を、生死も苦楽をともにした戦士たち。過分な負担を押しつけてしまった弟。領地に残された無数の戦友。あるいは、領民そのもの。そう考えれば彼らにも、勝手に死んでしまって迷惑をかけるな、と追想する。

 謝るべきなのかな。思うが、その機会はもう、永遠に来なさそうだ。すでに肩まで死の気配が迫っている中、せめて口ずさむ。

 口角が上がる。笑ったつもりだったが、できた反応はその程度の事だった。体が反応しない分、心の中で大いに哄笑した。今際の際に考える事としては、おそらく上等な部類だろう。そう思える。

 まぶたが重くなる。そろそろ、意識を保つのも難しくなった。

 と――

 不意に、視界を何かが遮った。白っぽい何か。霞み、ひび割れた目では、その程度しか分からなかったが。


「ごめんなさい……」


 崩壊の告知が響く中、そんな声が聞こえた気がした。

 軋み、砕け、潰える。永遠にも思える遠くから響く余波はしかし、その鈴のような声を避けて通った。いやにはっきりと聞こえる声。耳元でささやかれているとすら思える、遠くて近い、小さくて大きな声。


「私のせいで……本当に……ごめんなさい……」


 何が私のせいなのだろう。インヘルトは思った。

 幻聴だろうか。

 見えるものと聞こえるもの。かみ合ってるような、致命的にすれ違っているような。よく分からない現象。

 インヘルトはもう一度笑った。今度のそれは、苦笑だった。自分にあきれる。死に際に見る幻覚にしたって、もう少し何かあるだろう。そう思う。あってしかるべきだ。少なくとも、救済とも失意とも言えないものではない。

 あるいは、走馬灯というものは、案外こういうものなのかもしれない。記憶の中の情報をでたらめに寄せ集め、作り出した幻影。


「死ぬべきは……私でした……あなたでは……なかった……」


 幻はなおも、ぽつぽつと語る。それが誰に向けられたのかすら、もう定かではない。

 夢は見るものではない。勝手に踊るものだ。であれば、これもやはり夢なのだろうか。

 幻が右手を握った、気がした。指に何かが絡められ、少しだけ動く。落盤の余波か何かが、手に当たりでもしたのだろう。


「そう……死ぬべきは……私だ……!」


 絡まった掌から、覚悟が響く。そこはじわりと熱を帯び、やがて全身に広がっていく。

 インヘルトの意識が、一瞬だけ浮いた。そのときだけは、なぜだか全ての感覚が明瞭になる。

 目に映った白の正体は、女だった。見たことのない女。どこかで合ったことがあるだろうか。それを思い出す前に、視界は戻った。中心に白と、その回りを岩盤の濃い灰色が覆う。

 あふれる熱に反して、感覚が途切れ始める。いよいよ終わりを知らせていた。


「死なせません。絶対に」


 覚悟の言葉も、もう彼にはどうでもいい事だった。

 言葉と、女と、その他の全て。理解する前に、彼の意識は、とうとう完全に途絶した。




 穏やかにそよぐ風。草花が撫であい小さな、しかし荘厳な合奏を奏でる。陽光は木の葉にほどよく遮られ、心地よく照らしていた。

 何の過不足もない、心地よい目覚め。インヘルトはうっすらと目を開いて、転がったまま体を伸ばした。体がどこか鈍いような気がしたが、これは寝起きのためだろうか。半覚醒の体を伸ばして起こすことすら、小さな快感を感じた。

 草のベッド。日差しの暖かさ。それらを優しく受け止める風。全てに後押しされて、思わずうとうととする。気を抜けば二度寝でもしてしまいそうだ。

 そうしていけない理由もない。してしまえばいいのだ。うたた寝くらい。誰も厭う者などいない。

 と、


(……ん?)


 なんだろうか。何かがおかしい。ふと彼は思い、まどろみそうな意識をなんとか保持した。

 気を抜けば闇に誘われそうになる。それは苦労しながら振り払って、しかし体は横たえたまま。大の字になったまま、考える。


(俺、何してたっけ? なんでこんなところにいるんだ?)


 未ださえない頭で考える。

 とりあえず、考えるまでもなく分かりそうな事から処理していく。

 ここは言うまでもなく、林の中の野っ原である。寝転がったまま、首だけを動かす。木の間隔が広いため、それだけでもかなりの範囲を見渡せた。爽やかな風気に当てられ、日差しの心地よさもあり、どこか風景画のような趣がある。よくあるとはいえないが、ままある光景ではあった。うまくできすぎて、どこか人工林のようにも感じる。とりあえず差し迫って脅威になりそうな何かは、なさそうではある。

 問題は、なぜこんなところにいるかだが。こちらは全く思い出せなかった。

 こういった場所を好まないという訳ではない。しかし、わざわざ訪れてまで微睡むような趣味もなかった。たまたま通りかかれば、こういった行為もするかもしれない、といった程度だ。


(その前……俺は何をしていた?)


 最後の記憶をたどろうと、彼は脳を働かせた。未だ鈍らな頭を、無理矢理たたき起こそうとするが、なぜだかうまく頭が働かない。

 整然としない記憶を手繰る。最後は――一体どれが最後なのだろう。妙に曖昧で、ぼやけて、そして抽象的だ。

 思い出せる古い部分から、順に整理していく。

 敵。

 そうだ、敵だ。思い出す。確か自分が楽しく戦えるレベルの敵の情報を聞いたのだった。

 正直なところ、情報は又聞きもいいところの与太であり、さして信用してはいなかった。それでも気分転換にと赴いたのだ。

 結果は、どうだったか。まだ頭に霞がかかっている。無理して頭を働かせる。どうにも、記憶の取り出しがうまくいかない。まるで自分の頭ではないみたいだ。

 それでも苦労して、なんとか情報を取り出した。

 敵はいた。それもすこぶる付きのやつだ。楽しく戦った。戦って、戦って、そして……


(……?)


 転がったまま、疑問符を浮かべる。

 浮かび上がった違和感、もとい不明瞭が、脳の覚醒をいくらか助ける。


(俺は死んだはずじゃ?)


 そうだった。相手は殺した。あの無機質な白い壁の空間で、奥に巨大な濁った水晶だけがある空間。そこで、確かに戦い合った。相手を殺しはしたが、代わりに自分も致命傷を負い、死ぬのを待つばかりだったはずだ。

 しかし、自分は生きている。それも、こんな全く関係なさそうな場所で。

 まるで狐につままれたようだった。

 考えに、苦みのようなものを感じてきて初めて、彼は身を起こした。片肘をついて体を支え、上体をゆっくり持ち上げ、その拍子に、長く艶やかな亜麻色の髪が体を撫でる。


(…………?)


 今度の違和感は、頭の巡りが悪いという程度のものではなかった。

 インヘルト・グノーツ。身長は190センチ近くの、やや痩身ぎみの男だ。浅黒い肌で、髪も黒く、それを大雑把に短髪にしている。ナイフでいい加減に切り分けているのだから、そもそもまともな髪型になった事もない。少なくとも、体を撫でるほどではない。今自分の体を這っているこれは、色が違えば、そもそも腰まで届きそうなほどだ。

 髪の束を一束つかみ、軽く引いてみる。少しの痛みとともに、地肌を引っ張られる感触があった。少なくとも、誰かがいたずらでかつらでもかぶせた訳ではないらしい。もっと冗談ではすまなくはあるが。

 一時状況も忘れて、彼はうめいた。


「なんだこりゃ」


 自分の声に驚いて、びくりと肩をふるわせた。

 今の発言は、間違いなく自分のものだ。震わせた声帯から、骨伝いに鼓膜へ届いた感覚がはっきりとある。なのに、聞いたことのない、甲高い声。

 はっとしながら、両手を眼前に掲げた。

 白い手だった。おそらく、美しい手というものはこういった手を言うのだろう。

 節くれ立った関節、すり切れた掌、奇妙な渦のようにねじ曲がった剣ダコ、そして、無数の創傷という延々戦い続けた証。それら一切がなくなっている。というか、手そのものが小さくなっていた。およそ成人男性の大きさではない。


「俺が……まるっきり入れ替わってる……?」


 自分のものではない、しかし確かに自分が発した声で、彼はうめいた。

 インヘルトはゆっくりと身を起こした。想定外の事が起こりすぎると、かえって冷静になるもんなんだな、などと暢気に思いながら。

 立ち上がりがけに、今来ている服も目に入った。これもまあ、当然と言えば当然なのだろうが。元着ていた、薄汚れた茶色のぼろ切れではなく、やたら布地の多い何かに変わっている。

 直立し、周囲を見渡す。転がった状態で見回した時と、さほど視界が変わったわけではなかった。多少視点が違えば、何か役立ちそうなものがあるかと期待したのだが。それは完全に裏切られることとなった。

 かなり遠方に、山脈の一角が大きく崩れているのが見えた。それには見覚えがある。ウラル山脈の、何だったか――確かイギス山だったか。山の名前などどうでもよく、大分うろ覚えだが――インヘルトが敵を求め向かった先だ。戦いの規模を考えると、その余波で山そのものが潰れたのだろう。

 とりあえず、戦った位置からそう遠くない事だけは分かったが。本当に知りたいことは、何一つ分からなかった。

 インヘルトは大雑把に見当をつけて歩き出した。

 目的なく、ではない。水の匂いを感じ取っていた。

 目当ての場所は、すぐに見つかった。なだらかな丘に隠れるようにして、川があった。地形のためか、一カ所が半円状にえぐれ、小さな水たまりになっている。水は澄んでおり、濁りがない。周囲に動物が少ないためか、砂が舞い散っている様子すらほとんどなかった。

 立ち位置を調整し、うまく光が反射する角度で顔をかざす。上等とはいえないが、これでも一応鏡の代用品にはなる。

 見えた姿は、やはりというか、半ば諦めたとおり、見慣れた自分のものではなかった。

 真っ白な肌。すらっとした頬のライン。少々気弱そうな印象の瞳。長い髪は、注意して背中に流さないと水につかりそうだ。服は白とライトグリーンの二色で、レオタードのような質感だ。どういう風に着ればいいのか、ハイネックのオフショルダー。腰のあたりからスカートになっている。年の頃は13・14歳ほど。顔立ちと髪の長さ、そしてささやかながら胸がある事から、女だと分かる。

 そう、女だ。もう少し詳しく言えば、少女だ。


「えぇー……」


 インヘルトはいよいよ言うに困って、うめき声をあげた。

 よりにもよって女だ。いくらなんでも、と言わざるをえなかった。別に男である事にこだわりなどなかったが、だからといって女になっても困る。死ぬよりはましかと問われれば、まあそうだとしか答えようがないが。


(……ん? この顔、どこかで……)


 ふと思う。

 しばらく考え、はっと気がついた。この顔は、あの洞穴で、一瞬見た顔だ。


「てことは、他人の体か?」


 だとして、それでもまだ意味不明ではある。

 入れ替わったのだろうか。入れ替わったとして、そんなことに意味があるのだろうか。あとどれほどもせず死ぬ体を奪う意義というのは、インヘルトには思いつかなかった。


「あぁーわっかんねぇー」


 がりがりと頭をかく。

 何らかの術を使われたのだろう、それくらいの事は分かる。術にはとんと疎いインヘルトであったが、それでもぱっと思いつくだけでも高度な術で体を入れ替えたなりしたには変わりない。そもそも意図が分からないのだから、予測もくそもないのだが。

 そもそもが、剣一辺倒だった彼には、ほぼ未知の領域だ。仮に正体と意図を突き止めたところで、抵抗はできても対処はできない。

 しゃがみ込んだ状態で、しばらく悩むが。どれほどもせずに、彼は立ち上がった。


「やーめた」


 ごちゃごちゃと混ざる思索未満をその一言で終わらせる。

 思考の全てを放り投げて、彼はとりあえず、帰路についた。

 考えたって仕方ない事は考えない。後で分かりそうなやつにでも丸投げすればいい。

 つまるところインヘルト・グノーツとはそういう人間だった。




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