第27話 ガイコツ池の中
意識がはっきりした瞬間、固く握った手の中に一回り小さな手があるのを確かめて、大きく安心した。
一度ガイコツ池の水をくぐったので、当然のこと、服も髪のずぶ濡れである。
「あれ、さっきまでそんな服着てただっけ?」
隣の竜胆の格好を見て、私は声を上げた。彼女は、宮廷貴族の着るシャツのようにたっぷりとした袖のレトロなワンピースを身につけていた。しかもきちんと乾いている。
「その服、見覚えがあると思ったら、椿姉ちゃんの服だず?」
「え、覚えてない。ていうか、さっきまではTシャツだったんだけど」
「服も変だけど、俺たがここにいるのもおかしいな」
周囲を見回すと、自分と竜胆が立っているのは、さっきまでいたガイコツ池のほとりと瓜二つの場所であることがわかった。ぬかるんだ小道に立つ私たちの背後には鬱蒼とした木立があり、前方にはほの暗い湖が静まり返っている。
「でもここは、『上』と同じじゃない気がする。なんだか怖いものとすごく近い……」
おそらく無意識に使ったのだろう、竜胆の「上」という言葉に、私は視線を上方に向けた。
本来雨上がりの空があるはずの梢の上は、分厚い寒天でも浮かんでいるように茫洋と揺らめいて、細かい部分がよく見えない。周囲は変に暗く、空気は霊安室のようにひんやりしている。白拍子姿の太夫も、和洋折衷の僧侶の扮装をした鹿島もいない。
「やっぱりここは、ガイコツ池の中だだな」
と私は結論づけた。
「湖の中に湖があるの?」
「知ってるかもしんないけど、ガイコツ池は世界樹のうろとつながってるだ。ここの湖に飛び込んだらまた湖があって、そこに飛び込んだらまた同じで、だんだん深く、うろに近づいてくのかもしれない」
「合わせ鏡みたい」
竜胆が、おそるおそる湖の暗い淵を覗き込む。竜胆が、山巓の断崖から身を乗り出しているような感覚に襲われて、私は彼女のワンピースのリボンをつかんだ。実際、この先に世界樹のうろがあるのだとしたら、雲の上から下界までの高さに等しいか、もっと深い奈落が口を開けているのだ。
「危ねえど」
うん、と答えるものの、竜胆は湖の側に体を傾けた姿勢を戻そうとしない。
「晶博、ガイコツ池の主の具合はそんなに悪いの? 死んじゃうの」
「いままで押さえてた世界樹のうろの蓋が緩むくらいだから、力はめた弱まってるんだろう」
「わたしにこの指輪をくれたのが、鯨だったの。わたし昔、いさとよく遊んだんだよ、ここで」
「竜胆、鯨のとこに嫁に行くなんて言うなよ」
私が釘を刺しても、背を向けた竜胆は、何も答えなかった。
緑によどんだ水面に、大きな気泡が浮かんできた。大きな影がゆっくりと浮かび上がってくる。私と竜胆は及び腰になったが、影は水面上に形を表す一歩手前で浮上をやめた。
『余はその娘のみを呼んだのだが』
「付き添いだ!」
『余が許さぬかぎり、この世界から出ることはできぬぞ』
「望むところだ! 俺も、竜胆を連れずにこの世界を出ていくつもりはない!」
私は、無闇に語尾にびっくりマークをつけて、ダンボールでできた盾のような張りぼての威勢を張った。
鯨は、足元の地面を震わせるように響く声を発した。
『娘よ。余のもとへ来よ。ともにこの須賀の鎮めとなろう』
「娘じゃないよ。竜胆だよ……って、昔も言ったでしょ?」
竜胆が寂しそうに笑ったのに対して、鯨は苦虫を噛み潰したような口調で言った。
『余にはその名が呼べぬ。耳にするだけでも不快になるのだ。口に出せば、あまりの苦さに舌が爛れ、歯が腐り落ちるだろう』
「人の姪の名前を不浄語扱いか! そんなやつに竜胆は嫁にやれん」
『余のせいではないわ。腹立たしい人間どもめ。娘を奪われぬよう、余の忌む花を名につけおって』
この世界の主の沸き立つ感情を表すように、足元の地面がぐらぐらと揺れた。竜胆が、ぽつりぽつりと言葉を水面に落とした。
「わたしがいさと結婚すれば、いさはまた元気になるの?」
『ああそうだ。余の力は戻り、須賀にも安定が帰ってくるのだ』
「竜胆、馬鹿なことを考えるな!」
竜胆は、指輪をはめた手を高く差し上げた。指輪は、蝶の鱗粉をはたいたように、けぶるごとくに発光していた。
「わたしは、いさが死んじゃうのは悲しいよ。須賀山もいやおいも好きだよ」
竜胆の声は、根底の大きな感情を押さえつけているように震えていた。
彼女は、指から指輪をするりと引き抜くと、暗い湖にぽちゃりと落とした。
「ごめん……ごめんなさい、でも、わたしは、湖の底に行きたくないよ。普通に暮らしたい。人間の世界に戻りたいよ……」
立っているのが難しいほど、足元が揺れた。湖の水面が震え、波が岸に当たる。強くなった風が、竜胆のワンピースのフリルをはためかせた。
私に腕を強くつかまれた竜胆は、震えながらも言い切った。
「わたしは、あなたとの約束を破る」
鋭い鞭を振るうような音を立てて、一際大きな波が岸を打った。
『余に死ねと言うか……?』
その言葉は、竜胆をひどく打ちのめしたようだった。指輪の跡のついた指がわずかに震える。私は、足を踏み鳴らした。
「なんで竜胆が身を差し出してまで、お前の生死に責任を持たなきゃならないんだ。おかしいだろうが」
「ごめんなさい……」と、再び竜胆はつぶやいた。
竜胆には、鯨にほんのしばらくでも生きる時間を与えてやることができる。だが、そんなことをすれば、竜胆自身が永劫にガイコツ池の底で暮らさねばならなくなる。
誰かが、そんなことをする必要はまったくない、と言ってやれば、竜胆はここまで悩まずに済んだだろう。しかし、彼女は誰にも話さず、どうするかを全部たった一人で決めて、その決断をガイコツ池の主に告げに来た。それは、自分一人で、鯨を殺すことの責任を背負うということだ。
椿姉ちゃんが死んだあの日、隣に並んで泣きながら握りしめていた熱く小さな手の持ち主は、いま、背丈もずっと高く伸びて目の前に立っている。
もう私の前では涙を見せなくなった。自分のことは自分で決められるようになった。冷え性のために、手は少し冷たくなった。
姪として扱うにはあまりに歳が近い、かけがえのないこの血縁の少女に、私はいつも、かけるべき最適な言葉を見つけることができないのだ。
私は、一歩踏み出すと竜胆の隣に並んで、激しくわななく冷たい手をしっかりと握った。
「おめが鯨を死なせるっつうなら、俺も一緒だど」
竜胆が神を殺すと言うのなら、私も彼女の震える手にこの手を添えて、ともに神を殺そう。
この世界にたった一人の姪は、頼りない叔父の手を強く握り返してくれた。
『認めぬ!』
今や、ガイコツ池の水面は、時化に見舞われた海のように激しく波立っていた。湖の底を大きな影が、竜巻のような勢いでぐるぐると泳ぎ回っている。
『余は、千数百年の間、須賀の地を守ってきたのだ。力を取り戻す手立てがあるというに、なぜここで命を終えねばならぬ! ただ一人の娘さえ、なぜ思うに任せられぬ!』
ガイコツ池の主の収まらぬ激怒を目の当たりにして、ひ弱な人間であるところの私と竜胆は、顔面を蒼白にした。手を握り合って立ち尽くす私たちに、波が飛沫をあげてつかみかかった。
ゴウウゥゥン……。
頭蓋骨のひびを押し広げるような音量で、重い金属を叩く音が響いた。寒天が漂っているようなはっきりしない頭上から、巨大な青銅の釣鐘が降ってきた。
「うわあああ!」
梵鐘は、凄まじい音を立てて私と竜胆の頭上に落下してきた。
目を開けると、竜胆とともに釣鐘の中に閉じ込められていることに気づいて、閉所恐怖症気味の私は、発狂しそうになった。テレビドラマの『獄門島』で、死後とはいえ被害者が釣鐘の中に押し込まれたのを見て、もし自分がこんな目にあったらと思うと非常な恐ろしさを覚えたが、その恐怖が現実のものになるとは。
しかしすぐに、釣鐘はするすると上昇した。息苦しさから徐々に解放されて、恐慌に陥っていた私は安堵したが、なんと、釣鐘に引っ張られるように、私と竜胆の足も地面から離れていくではないか。
私たちの驚愕をよそに、釣鐘は湖の周りの木々の梢もやすやすと越えて、寒天の漂うぼんやりした空間に突っ込んだ。頭で柔らかな膜を突き破るような感覚があったあと、薄暗さに慣れた目にチカチカと光が突き刺さった。
「晶博! 竜胆ちゃん!」
「アッキー!」
耳に、私を呼ぶ鹿島と太夫の声が聞こえる。
しかし、それも須臾のことだった。二度寝の夢に引き込まれるように、私の意識は再びどことも知れぬ湖へと流されていった。
第二十八話 兄の旅 につづく
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