第25話 お前は誰だ?
荒神寮から国分寺は、自転車で二十分もかからない。鹿島がぐいぐいと先に行くので、太夫がついてこられるか後ろを確認すると、ギアを切り替えた彼女にあっという間に追い抜かれた。
曇ってはいるが、東の霞が峰の上空がほのかに白く明るい。駐車場に自転車を停めて、私たちは池に歩み寄った。足元に敷かれた白い砂利が、ざくざくと小気味良い音を立てる。
「あちゃ、だいぶ枯れてるな」
木製の遊歩道が渡された池は、黒っぽい茶色にしわがれた蓮の葉と、蜂巣という異名の元になった、花弁の中心部分に覆われていた。
「オイオイ、アッキーい。全然咲いてないじゃん」
「そのあだ名で呼ぶな」
「何で?」
馴れ馴れしく私の肩に手を置いた鹿島が、にやにやする。横目で太夫を見やると、いまでも私のことを件のあだ名で呼ぶ唯一の女性は、静かに微笑んでいた。
「時期が遅かったみたいだね」
「はあるか来てなかったから、時期なんて忘れてた。残念だな。早朝の蓮の花、すごくきれいなのに」
「枯れた蓮って、こんなにグロテスクなんだな」
鹿島が気味悪そうに見やる。太夫は、広範な知識の一端を披露した。
「この真ん中の部分って、確か、
「へえ、そうなんだ」
「お前、農学部だろうが。なんで太夫のほうが詳しいんだよ」
「最近は、専門分野の研究の蛸壺化が著しいんだよ」
「じゃあお前は、いったいどんな知識に特化してんだよ。この農学部文学科が」
鹿島が、花びらが枯れ落ちてしまうまでは、花の中心部分だった、シャワーヘッドにも似た構造に手を伸ばす。私は、視線を遠くに移して、枯れた蓮池を視界に広く捉えた。
誰かの手によってテレビのチャンネルを変えられたように、蓮池以外の風景が前触れなく消えた。
自分がどこにいるのか把握できない。首をめぐらしても、すぐ近くにいたはずの鹿島と太夫が見えない。
枯れた蓮の葉を不安にざわめかせて、温度の低い湿った風が頬を撫ぜる。人の背丈よりも高く伸びきった茎が、炭のように黒く変じた花托をのせて揺れている。形の崩れた穴だらけの花托は、非業の死を遂げた死者の髑髏にも見えた。茶色くしわしわになった蓮の葉が、風にまくれて裏の白い面をひらひらと見せる。
辺りを見回しても、国分寺の甍屋根も、見慣れた旭岳の猫耳も目に入らない。ただ、雨を降らす直前の曇天が、どこまでもどこまでも蓮池の上に重なっている。背の高い蓮で視界が遮られるので、池の全貌を見渡すことはできない。
再び、湿気をはらんだ冷たい風が吹いた。ざあああ、と音を立てて蓮の葉が波打つようにうねる。無数の細い触手に皮膚を撫でられるような気持ち悪さに、鳥肌が立った。
不気味な風に追い立てられるようにして、蓮池の中をぐねぐねと折れ曲がりながら続く遊歩道を歩き出す。ニスのにおいのする木の床に足を踏み降ろす乾いた音が、次第に重く速くなっていく。
せわしなく吸って吐いてを繰り返しながら、周りの風景が数年前の旅行先で見たものであることに、ようやく気づいた。香川に単身旅行に出かけたのは、二回生の夏休みも終わりかけた九月下旬のことだった。降りはじめてはやむことを繰り返す小雨に悩まされながら訪れた高松の栗林公園で、広大な池一面ことごとく枯れ蓮という風景の中を歩いたことがあったのだ。いま目にしている世界は、そのときの記憶をベースにして作られているようだった。
怖気を振るうような空気の動きに肌の表面を撫でられて公園内を歩きながら、私はそのとき、こんなにも多くの枯れ蓮の生気の行き場が、どうにも気になっていたのだった。夏至のころ、水を弾く花びらを、血色のよい娘の頰のように輝かせていた生のエネルギーは、いったいどこに吸い取られてしまったのだろうか。暗い青緑色の水面下に隠れた無数の根は、どこか一箇所につながっていて、その先に生気を提供しているように思われた。
枯れ蓮の群れは、痩せさらばえた邪悪な老婆を連想させる。老婆たちは、自分自身の生気まで捧げて、一輪の若々しい色白な娘を肥え太らせているのだ。枯れ蓮の水上林の奥にしまいこんだ娘を、池の主の生贄にするために。
果実の濃い匂いの膜の内側に入って、私は立ち止まった。枯れ蓮の細い身体の向こうに、生贄の娘が眠っているのを、全身の感覚器官がアラームのように教える。娘に注ぎ込まれた生気が、霧雨のような実体をもった濃い果実の匂いとして、周囲に発散されているのだ。
薄気味の悪い風に揺られる枯れ蓮の先に、私は、生気に満ちた眠れる蓮の姿を見通そうとした。
「まだ蓮が咲いてる。アッキー、よく見つけたね」
すぐ隣で女性の声が溌剌と響いて、心臓がでんぐりかえりそうになった。
肩をびくっと震わせた私を、太夫が不思議そうな黒い目で見ていた。
周囲の風景は、国分寺の裏の蓮池に戻っている。
私は、何とか息を整えて答えた。
「いや、何でもないよ。あっちに蓮……、咲いてるね」
池の一角に、数本の蓮が小振りな白い花を咲かせていた。花の時期の違う蓮を、いくつか植えているのだろう。
太夫は口元をほころばせてすたすたと、鹿島はあくびをしながらゆっくりと、わずかに残っていた蓮に歩み寄る。私はまだぼうっと物思いにふけりながら、鹿島の隣に並んだ。
純白の繊細な蓮の花は、清浄という言葉をこの世に具現化したようだ。太夫は、花の前にしゃがみ込んで写真を撮っている。
写真の出来栄えを確かめていた太夫が、「雨?」と空を見上げた。スマホの画面に水滴が降ってきたらしい。木の遊歩道に、黒い染みがぽつぽつと生じ、急速にその領土を広げていく。
「また降ってきやがったか。早く戻ろうぜ」
鹿島に促され、私たちは急ぎ足で自転車の元に戻った。明け方まで猛威を振るっていた台風に比べれば穏やかなものだが、雨まじりの風に張り手をかまされるたび、駐車場に植えられたオレンジのコスモスがのけぞる。
「こっからだと、俺のうちが近いから、一旦避難しよう」
荒神橋の北の細い橋で、浅科川を渡る。橋の上ではさらに風が強まったが、雨にびしょ濡れにされる前に、わが家へと退避することができた。
「ごめん、まだ竜胆寝てるかもしれないから、そっと入ってくれるか?」
「お邪魔しまあす」
鹿島と太夫は、ほとんど息だけで断って、玄関に入った。
「ちょっと待っててくれよ。いまタオル持ってくるから」
私は、一足先に靴を脱いで、台所の扉を開けた。その瞬間、うわ、と声を上げる。台所の椅子に、竜胆が着替えた姿でぽつんと座っていたのだ。
「なんだ竜胆、もう起きてただかい。おはよう」
竜胆はこちらに顔をめぐらせ、からかうような笑みを浮かべながら、ませた口をきいた。
「もう、朝帰り? これだから大学生は」
「スマホに連絡はしただず? いま、玄関に鹿島と太夫がいるだよ。外、雨降ってきてるよ。まあず濡れちゃって」
私は、とりあえずタオルタオル、と戸棚の中を探した。戸棚を勢いよく開けた拍子に、戸棚の上に中途半端に重ねてあった自治体からのお便りの類が、雪崩を打ってバサバサと足元に落ちた。
「あああああ」
「まったく何やってるだか。ときにその辺に置いとけとか言って、すぐ捨てないからだよ」
「ハイハイ、わかってるよ」
姪の小言を聞き流しながら、私はしゃがみこんで、散らばったプリントをかき集めた。同じ目線の高さにある、戸棚の下のごみ箱が目に入る。何だか見覚えのある梔子色の紙きれの端っこが入っていた。つまみ出してみると、梔子色の地に、よく目を引く朱色の線が引かれている。
私はハッとした。見られている。背中にじっと注がれる、竜胆の視線を感じる。
私はなるべく普通の口調で質問を発しようとしたが、その声は自分で聞いても明らかなほどに固かった。
「なあ竜胆、玄関に貼ってあったおふだは知らないかい?」
そうだ。「ちょっとここで待ってて」と鹿島と太夫を肩越しに振り返ったとき、私は無意識に玄関戸の上に貼ってあるはずの、佐上さんからもらったおふだを探していた。そして私の目は、ついに守りのおふだを見つけ当てることがなかったのである。
背後の竜胆は、少し眠そうな声で答える。私にはそれが、白々しい作り声に聞こえた。
「おふだ? ああ、和尚さんからもらったやつ? あそこになかった?」
「うん……、竜胆、おめがどっかにやっただか」
「なんでわたし? 全然いじくってないよ?」
記憶を探ってみれば、佑賢さんから新しくもらったおふだを貼ってから、竜胆は一度もうちの玄関の扉を自分の手で開いていなかった。僧侶が帰った直後は、荷物で両手が塞がっていたし、一緒に出かけて帰ってきたときは、私の後ろについてきていた。いつも私に玄関を開けさせて、自分から玄関戸に手をかけるということがなかった。
後ろの竜胆は、黙っていて口を開かない。私の口の中は乾いていった。
あのときからなのか?
三週間ほど前、真っ暗な玄関の前、枯れたあじさいの繁みの影に立っている竜胆を見つけ出したあのとき、彼女はうちのドアを開けることができなくて立ち往生していた。竜胆は、暗くてバッグの中から鍵を探し当てることができなかった、と言っていたけれど、実際には玄関には鍵がかかっていなかった。おかしいではないか。なぜ竜胆は、試しに戸を引いてみるくらいのことをしなかったのか?
本当は、鍵のかかっていなかった玄関戸を、竜胆は一人では開けることができなかったのではないか。あのときは、玄関の内側に、古いおふだが貼ってあったから。家主である私が戸を開いて招き入れないと、竜胆はうちに入ることができなかった。これは何を意味するのか。
「おっせーな。タオル二枚持ってくんのに、どんだけ手間取ってんだよ」
「アッキー、どうかしたの? なか上がっちゃうよ?」
玄関から、鹿島と太夫の焦れた声がする。私は、唾を飲み込んだ。
「竜胆。お前は誰だ」
言い終えると同時に、立ち上がりながらぐるりと振り向いた。
私の手の中にあるおふだの切れ端を目にして、竜胆は私の言葉の意味を察しただろう。眼帯で塞がっていないほうの目が細くなった。笑ったのだ。
私が、意表を突かれて、いや、正確にはすっかり臆病風に吹かれて立ち尽くしている隙に、竜胆は、台所の戸をすり抜けて、玄関に出ていってしまった。
「あれ、竜胆ちゃん。お邪魔してるよ」
「お? いまからどっか行くの?」
鹿島と太夫のいぶかしがる声がする。私は、ようやくよろよろと竜胆を追ったが、玄関には、外に半分体を出した二人の友人しかいなかった。
「おい、竜胆ちゃんが傘もささずに外に出てっちゃったぞ。喧嘩か?」
「アッキー、追いかけたほうがいいんじゃない? 風強くなってきてるし、危ないよ」
私は、何と切り出せばいいかわからないまま、二人の顔を見つめた。二人は、私が何か言おうとしていることに気づいて黙った。
「いまのは、竜胆じゃないかもしれない」
私は、どう言えば正確に伝わるのか確証が持てないまま、もう一度言い直した。
「いま出ていったのは、本物の竜胆じゃないかもしれないんだ」
学校から借りた本失くしちゃった、と親に打ち明ける小学生のように、どうしよう、と途方にくれた言葉を付け加えた。
第二十六話 鯨あらわる につづく
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